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期待も過ぎれば依存に、、、そしてやがて束縛に。。。

■幸福の源を持っていない人は倦怠につかまってしまう
【41】期待
アラン 、 村井 章子

今日の一言
期待を生むのは尽きることのない創意工夫であり、それが行動を導き、仕事に喜びと輝きをもたらす。

 火事を見ると保険のことを考えさせられる。保険は一種の女神だが、幸運の女神のようには愛されていない。それどころかむしろ、怖がられている。人々はわずかばかりの保険料を、それもいやいや納めるだけだ。それも無理はない、保険の恩恵は、不幸と一緒にしかもたらされないのだから。

 いちばん望ましいのは、言うまでもなく、家が火事にならないことである。だがこれは、手や足がついているように、あって当たり前でありがたみの感じられない幸福である。こんな消極的な幸福にお金を払うのは、なんだかばからしい。保険料を惜しげもなく払うのは、何にでも気前よく払う大企業ぐらいのものだろう。とは言え、一日の終わりに儲かっているのか損をしているのかわからないような大企業の幹部は、いささか気の毒でもある。たぶん彼らには、下っ端の社員に権力を振るうことぐらいしか楽しみがないのだろう。

破産に対して保険をかける商売人などいない

 先々の期待は大きいが財力には乏しいという連中は、保険が好きになれない。破産に対して保険をかける商売人などいるだろうか。いちばん簡単なのは、一定以上の利益が上がったら共同で積み立てておくことである。こうすれば、加入した店は差し引きでまずまず繁盛できるだろう。店主は役人のように固定給と恩給を保証されるだろうし、望めば医者にかかる費用や病気の間の手当も保証されるだろう。いや新婚旅行や慰安旅行も保証されるかもしれない。じつにみごとな知恵であり、理屈のうえではたいへんすばらしい。

 だが、物質的な生活がこうして文字通り保証されたとしても、幸福それ自体が生み出されるわけではないことを忘れてはいけない。自分の中に幸福の源を持っていない人は、行く手に待ち構える倦怠にすぐさまつかまってしまう。

期待を生むのは尽きることのない創意工夫

 富籤(とみくじ)の女神は、古代の人々には盲目の幸運の女神と呼ばれていて、いまでも保険よりずっと愛され崇められている。期待は途方もなく膨らみ、外れる心配という代償はあるけれども、誰もそんなことは気にしない。もし、あらゆる保険を扱う事務所のようなものがあるとしたら、その入り口には地獄の門よろしく「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」 と書いておかねばなるまい。

 これに比べれば、期待に胸膨らませる商人はずっと恵まれている。期待を生み出すのは、野心だけではない。そもそも野心は虚栄心に過ぎない。期待を生むのは尽きることのない創意工夫であり、それが行動を導き、仕事に喜びと輝きをもたらす。

 牛乳売りの女は、ミルク壷を見るとさあ働こうと考える。仔牛も牛も、仔豚も豚も、世話が必要だ。毎日せっせと働いていれば、次から次へと仕事が出てきて、ますます一生懸命になるものである。期待は壁を打ち壊し、いまは見えていない物を見せてくれる。はびこった雑草やいばらの茂みの中に、整然と耕された野菜畑や花畑を見せてくれるのである。だが保険は、壁の中に人を閉じ込めるだけだ。

祝福するとは腕前や技を祝うのではない

 賭けへの情熱たるや、考えてみるとたいしたものである。賭けをするときに人が向き合うのは、掛け値なしの偶然、それも自ら好んで作り出した偶然である。ありがたいことに、賭けの危険に対しては無料の保険がある——賭けなければよい。だが暇のある人の大半は、期待と不安という表裏一体の姉妹を熱愛し、トランプやさいころに飛びつく。しかも腕前で勝つより幸運で勝つ方を得意に思うらしい。

 「祝福」という言葉が意味するのは、まさにこのことである。すなわち祝福するとは幸福を祝うのであって、腕前や技を祝うのではない。古代の人々は神から恩寵を授かることを指してこの言葉を使ったが、神々の時代が終わっても、言葉は生き残っている。人間がこういう生き物でなかったら、ずっと昔から平等の正義が支配していたことだろう。だが人間は、単純なことをあまりありがたがらない。シーザーは他人の野心を利用して支配したが、これなどは最高の形で成就した期待と言えよう。

[日経ビジネス]

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Posted by nob : 2012年06月23日 21:53