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休息、、、それは自分自身から遠ざかること。。。

■学問とは、知覚し、旅をすることである
【51】遠くを見よ
アラン 、 村井 章子

今日の一言
人間の目は近くを見るようにはできていない。自分のことを考えるのはやめて、遠くを見ることである。

 憂鬱になった人に私が言えるのは、一言しかない。「遠くを見なさい」ということだ。鬱になる人の大半は、本ばかり読んでいる人である。だが人間の目は、そんなに近くを見るようにはできていない。目が癒されるのは、もっと大きな空間を見渡すときである。星や水平線をながめるとき、目はのんびりとくつろぐ。そして目がくつろぐと頭は自由になってよく働くようになるし、体全体もくつろいで内臓もゆったりとする。

 だが、意志の力でもって無理にくつろごうとしてはいけない。意志の力で自分を動かそうとすると、まちがったところを伸ばしたり引っ張ったりして、最後は喉が詰まったりしかねない。自分のことを考えるのはやめて、遠くを見ることである。

 憂鬱が病気の一種だというのはほんとうだし、ときには医者が原因を探し当てて治療してくれることもある。だが治療を受けるとなれば身体に注意が向き、医者の言うとおりにしようと気を配るので、せっかくの治療の効果も結局は台無しになってしまう。そこで賢い医者は、患者を哲学者のところへ行かせるかもしれない。だが哲学者の元へ駆けつけて出会うのは、やっぱり読んでばかりいて近視眼的な思考にとらわれた、あなた以上に陰鬱な人間なのである。

人間の目は水平線を見るとくつろぐ仕組みになっている

 国は、医学を教える学校だけでなく、知恵を教える学校もつくるべきではないだろうか。真の学問と詩を教えることによって、知恵を教えることはできるはずだ。真の学問とは、あらゆるものをよく見ることにほかならない。そして詩は、宇宙と同じように広く奥深い。人間の目が水平線を見てくつろぐ仕組みになっていることは、私たちに重要な真実を示唆している。すなわち思考は身体を解き放ち、本来の祖国である宇宙へ返さなければいけない、ということである。

 人間の生き方と身体の働きの間には密接な関係がある。動物は危険が差し迫っていなければすぐに横になって眠ってしまうが、人間は考える。それが動物としての思考だとしたら、不幸なことだ。苦痛と欲求は膨れ上がり、不安と期待は募る。想像力のいたずらに翻弄されて、身体はこわばり、震え、飛び上がったり縮こまったりする。そして周りのものや人間をつねに警戒し、疑いの眼で見ることになるだろう。

 そこから逃れようとして、人間は書物に助けを求める。だが書物もまた閉じられた世界であり、目に近すぎ、情念にも近すぎる。そこでは思考は牢獄をつくり、身体を苦しめる。思考が自らを狭めるのは、身体が自らを苦しめるのと同じことなのである。こうしたわけで、野心家は何度も同じことを訴え、恋人たちは何度も懇願を繰り返す。身体が健康であるためには、思考が自由に羽ばたき、広く見晴らすことが必要である。

自分から遠ざかってみるのが正しい

 たしかに学問は、そのための役に立つ。とは言え、野心や吹聴のための学問、功を急ぐ学問はいけない。私たちを書物から引きはがし、視線を水平線に導いてくれる学問がよい。それはつまり知覚し、旅をすることである。

 ある一つのものは、他との関係を真に理解したとき、そこから別のものへ、そして森羅万象へと私たちを誘う。この大きな流れの渦は、風や雲や惑星にまで思考を導くだろう。ほんとうの意味で知るとは、目のすぐ近くにある小さなものを知ることではない。知るとは、どんなに小さなものも万物と結びついているのだと理解することである。

 どんなものも、本来的に存在理由を持っているわけではない。だから、自分から遠ざかってみるのが正しい。これは、目にとっても精神にとっても健全なことである。そうすれば思考は広い宇宙に憩い、万物と結びついている身体の働きと調和するだろう。してみれば、キリスト教徒が「天はわが祖国なり」と言ったのは、意図した以上に的を射た表現と言えよう。遠くを見なさい。

[日経ビジネス]

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Posted by nob : 2012年07月08日 16:36