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それそれ、、、生涯労働社会の構築こそこれから進むべき途。。。
100歳まで働く時代がやってくる
高齢者が生む活力「隠居ペーション」・・・アラ100という働き方
[日経ビジネス]
■100歳現役サラリーマンの長〜い社会人生活
福井福太郎さんが歩んだ日本の近現代史
日経ビジネス2012年9月10日号では、100歳まで働かなければならない未来を想定した特集「隠居べーション」を掲載している。そこで紹介したのが、100歳の現役サラリーマン、福井福太郎さんだ。100歳という長い人生を共に振り返ることは、日本の100年を振り返ることにつながるだけでなく、今を読み解くカギにもなる。紙幅の都合で本誌には一部しか掲載できなかった、福井福太郎さんの1世紀を紹介する。
大型ショッピングモール「湘南テラスモール」が2011年に開業して、平日もにぎわうJR東海道線辻堂駅。蒸し暑い盛夏の午後、大勢の乗降客の中に、全身をパリッとしたスーツに身を包んだ1人の老紳士の姿があった。慣れた手つきで通勤定期を自動改札機に「ピッ」とかざしながら、にこやかに出て来たその足取りは力強い。
この紳士、福井福太郎さんは今年5月、100歳になった。宝くじを委託販売する東京宝商会の顧問を務め、毎日辻堂から東京のオフィスまで通って働く「現役のサラリーマン」である。辻堂から神田のオフィスまで、快速電車と山手線を乗り継いで毎日の電車通勤。「70歳から働いている今の会社が、人生で一番長く務めていることになるよ」。そう笑う福井さんだが、100年の人生は、その穏やかな笑顔からは想像もつかないほど波乱に富んでいた。
1912年(明治45年)5月、福井さんは東京・京橋に生まれた。まだ東京駅も開業しておらず、松下電器産業やトヨタ自動車も存在していなかった時代であり、「サラリーマン」という言葉も、今ほど一般的ではなかった。
父の仕事は毛皮を扱う貿易商だった。事業は順調で、現在の東京・八重洲のブリジストンホールがある辺りに店舗を構えていた時期もある。豊かな親の元に生まれた福井さんだが、当時、社会情勢はきな臭いにおいが漂っていた。
格差拡大、慢性的な不況、就職難の中で大学進学
福井さんが2歳の時、1914年(大正2年)には第1次世界大戦が勃発した。このころの日本は重化学工業による軍需景気に沸く一方、貧富の格差が広がっていた。本格的に日本経済が混乱していったのは、この後からだ。1920年には、東京株式取引所の株が大暴落。さらに大戦における反動などから日本は慢性的な不況に苦しみ続けることになった。深刻な不況が長引く中で、福井さんは10代の多感な時期を過ごした。
11歳だった1923年には死者が10万人に上った関東大震災に遭い、町中が炎で真っ赤に染まる光景を呆然と眺めた。さらに格差が拡大し、深刻な不況、自然災害と社会的な不安が続いていたのだ。一方で、産業の進歩が着々と日常生活を変えていた。世界では技術革新が加速度的に進んでおり、13歳だった 1925年にラジオ放送が始まった。
このころの日本は、企業数が増えるのに伴い、企業内労働者の数も増えていた。1926年(昭和3年)、後に日本経済団体連合会となる日経連(日本経営者団体連盟)の初代専務理事となる前田一氏が『サラリマン物語』を発表し、ベストセラーになった。前田氏はサラリーマンを「兎にも角にも『中産階級』とかいう大きなスコープの中に祭り込まれている集団を指したものに違いない」としたうえで、当時の世相をこんな風に描写している。
「大学さえ出たら、羽が生えて飛ぶ時代は過ぎ去った」
「大学さえ出たら、羽が生えて飛ぶという時代は遠(とお)の昔にすぎ去った」「一体、何がこんなに就職を困難にしたのであろうか」「(財政緊縮や企業の整理淘汰による不況だけでなく、教育方針の欠陥などによる)卒業生自身の『質』の下落とがあいより相まって、ますます就職難を深刻にするもののようである」「尤も、今日の学生は、昔の学生よりも、色々のことを余計に知っている(中略)。しかし、仕事に当たって熱心と誠意がない」
「こういう学生に育てあげた今日の教育方法がよろしくない」「学生は嫌なときは、講義にも出ない。ひどいのになると、試験前2週間ぐらい友達のノートを借り受けて読んでおく」「(ある会社の重役が言うには)『アメリカでは例えば経済学の学生なら、現在の金融はどうだ、現在金が下がりつつあるが、その原因は何であるか…(中略)…とかいうようなことを、実例を捉えてやっている。(中略)高邁な理論ばかりを詰め込んで、結局、頭がふらふらになるまで試験でいじめつけて、それから社会に送り出すようでは、実社会に出て能率をあげて働きうる訳がない』と」
「米国では1銭2銭の会計が帳尻上は会わなくとも、それは会社全体の膨大なる会計に何等の影響を来すものではないという理由で、深く探求することをしないところもある。日本では、1厘の勘定違いでも、これを発見するために100円の給料取りを1日2日かからせる」(注:現代語表記に修正して引用)。
サラリーマンが広く一般的な存在になったのは、大正から昭和にかけて、恐らく福井さんが10代のころだろう。高学歴で大企業に勤める者が中心だった「サラリーマン」に、様々なタイプの会社、様々な立場のサラリーマンが増えてきた。その一方で不況はなお続き、福井さんが15歳の時、1927年には金融恐慌、1929年には世界大恐慌が起こった。
世界大恐慌の翌年1930年、金解禁を引き金とする昭和恐慌により、「エリート」であるトップクラスの大学卒業者でさえも就職先が見つからない本格的な就職難の時代となった。都市には失業者があふれ、小津安二郎監督のサイレント映画「大学は出たけれど」が大ヒットした。
同時に、日本は飢饉(ききん)にも襲われていた。この時期から東北地方の農村では所得が減少して生活が苦しくなっていた。そのうえ、都市から大量に帰郷した失業者を地元農家が受け入れ切れず、経済苦による娘の身売りなどが社会問題になった。「当時、東北で大勢の人が餓死しました。でも、それを何とかするという状況ではなかったのです」と福井さんは振り返る。
大学教員の職を得るも軍隊生活に突入、その後毛皮業に
そんな社会情勢だったが、福井さんは、慶応義塾大学経済学部にトップの成績で入学した。この時の同級生として出会い、生涯の友となったのが元勧角証券(現みずほインベスターズ証券)相談役、故・望月玉三さんだった。2人そろって成績が優秀で、すぐに「ブクちゃん」「玉ちゃん」と呼び合う親友同士になった。福井さんの入学は1年遅れたので年齢は1歳違ったが、望月さんと福井さんはなぜかとても馬が合い、文字通り「どこに行くのも一緒」だった。望月さんと切磋琢磨しながら、勉学に励む福太郎さん。だが一方、社会情勢は緊迫していった。
1931年には満州事変が起こり、1933年には日本が国際連盟を脱退。1936年、大学の卒業試験のころ、青年将校による2・26事件が起こった。大卒者にとっては、深刻な就職難が続いていたが、成績優秀な福井さんは、望月さんと共に慶応義塾大学経済学部の助手として採用され、経済学の研究をしながら教壇に立つことになった。
しかし仕事を得てほっとしたのもつかの間、第2次世界大戦が福井さん達の人生を激しく揺さぶった。1937年、25歳の時に日中戦争が勃発、福井さんは徴兵され、第1師団歩兵第57連隊入隊することになったのである。
福井さんは一兵卒からスタートし、満州へ渡る。だが試験を受け、間もなく陸軍経理学校で幹部教育を受けることになった。満州と日本を行ったり来たりする中で、妻・れいさんと27歳で結婚した。戦況が逼迫する1944年ごろには陸軍参謀本部に移り、英国とオーストラリアの経済分析に携わるようになった。
「私は、戦争でも結局最後まで危ないところには一度も行かなかった。でも、もし最初に配属された第一師団にいたままだったら、人生、本当に分からなかった」と福井さんは振り返る。東京大空襲や2度の原爆を経て敗戦、日本が焦土と化した1945年、陸軍主計大尉まで昇進したところで召集解除となった。
ようやく慶応義塾大学に戻った。親友で同僚の望月さんとも再会した。大学を離れて既に9年近い時間が経過し、33歳になっていた。
研究室に戻ると、経済学部助手のポストは、そのまま残っていた。だが、福井さんも、親友の望月さんも専門は中国研究だった。それが、2人の人生にまた大きな転機を与える。「学生の方が頭が良くなっていてねぇ。望月さんと相談して一緒に辞めたんだよ」。福井さんはその時のことを冗談まじりに振り返る。
米軍管理下で復興することになった日本。戦前、要職に就いていた多くの人が、「公職追放」にあった。2人も、「大学で中国の研究をしていたら追放されるかもしれない」と心配した。「追放される前に辞めよう」。2人一緒に、大学を去ることにした。
実は、中国に関する研究は、兜町で身を立てた実業家であり晩年は教育振興に力を注いだ望月さんの父・望月軍四郎氏が、晩年、私財を投じて力を入れた分野だった。慶応義塾大学三田メディアセンターには、現在も「望月文庫」が残っている。
「父は、私を教育者にしたかったんです」。望月さんは1962年5月、経済誌のインタビューで、そう振り返っている。そんな背景がありながらも、福井さんと望月さんは相談して一緒に助手の職を辞し、中国の研究を断念し、それぞれ実業の世界に入ることを決意したわけだ。
福井さんは貿易商の父・菊三郎さんの事業パートナーの力を借り、1945年、東京・京橋に毛皮の小売店を立ち上げた。袋に毛皮を詰めて、進駐軍などに売り歩くことからスタートした。恋人に毛皮を送りたい進駐軍の米国人などに、毛皮は大いに売れたという。
親友からの誘いで証券業界の再編の渦中に
日本は米国の管理下で復興へと立ち上がり始めていた。福井さんは商売で忙しく暮らす中でさらに2人の男子にも恵まれ、忙しくても充実した30代を過ごした。一方、親友の望月さんも、証券市場で富を築いた父・軍四郎氏に倣い、証券会社を買収して「望月証券」を創業、証券業界で華やかに活躍していた。
福井さんが41歳になった1953年にはシャープが国産白黒テレビ第1号を発売するなど、このころからテレビの普及が始まった。43歳だった1955 年、福井さんは京橋から拠点を移し、恵比寿に「福井ファー」を開店した。1958年には当時の皇太子夫婦の婚約報道でミンクのストールがテレビで報じられ、毛皮がにわかに注目を浴びた。毛皮も徐々に庶民にも手の届く衣料品となっていった。日本人は戦後の急速な復興の中で、岩戸景気を謳歌していた。
経済学者から軍人へ、さらに毛皮業へと時代の荒波の中で職業を変えていかざるを得なかった福井さん。ところが、池田内閣が「所得倍増計画」を発表した 1960年、福井さんの人生にさらなる転機が訪れる。「会社を手伝ってくれないか」。一緒に能の謡(うたい)も習い、変わらず親密に付き合っていた望月さんから誘われたのである。既に48歳になっていた。
気心が知れまじめで頭脳明晰、文章力にも長ける福井さんは望月さんにとって理想的な参謀であり、「女房役」だった。福井さんは快諾し、学者、軍人、自営業を経て初めての「サラリーマン生活」へ踏み出すことになった。「望月さんをはじめとして社員はみな、アイデアを自由にいろいろ言うけれど、なかなかまとまらない。私はアイデアのまとめ役だったんだよ」。福井さんはこうして、証券業の世界に飛び込んだ。
やがて望月証券取締役として活躍し始める福井さん。「今日の資本主義と共産主義・社会主義国の思想戦は経済戦であるとも言えよう」「少なくとも、 1960年代の日本の経済というものは、大きく上向く経済であるという結論を出してもいいのではないかと思う」。例えば1963年3月、経済誌「先見経済」にそう書いている。商売や企業経営に携わりつつ、一度は目指した「経済学者」としての視点を、福井さんはさび付かせることなくずっと保ち続けていた。
一方で、「この頃が人生で一番大変だった」と福井さんは言う。主力行の主導で、証券業界の再編の渦に、実務担当者として飲み込まれていったからだ。「社長が胃を悪くして入院してしまい、急きょ実務を引き受けることになってね…」。1965年、比較的財務内容の良かった望月証券が、赤字に陥っていた角丸証券と合併し、望月さんが社長に就任した。だが1967年、55歳の時には、さらに日本勧業証券と合併、会社の名前は日本勧業角丸証券となった。
「実務を担当したが、完全に銀行主導。その中でぎりぎりの交渉をするのは実に大変だった」と福井さんは振り返る。「大赤字を出して救われる立場なのに、銀行などから経営再建のため来ていた専務が偉そうでね。思わず正面から詰問したりしたよ」。理詰めで交渉に臨む福井さん。合併後は常務に就任する予定だったというが、銀行出身幹部の強い反対により、かなわなかった。
豊かになっていく日本で過ごした50代
1968年になると、日本のGDP(国内総生産)は世界2位になった。福井さんは50代、豊かになっていく日本を中堅証券会社の役員として、最前線で見つめながら過ごしていった。61歳の時には為替が固定相場制から変動相場制になる。証券会社に転じて以来、日々の株式市場の動きや経済分析などを毎日ノートに記して残してきた。だが、60歳前後からは日記の内容も日常生活や家族のことが増え、孫にも恵まれた。やがてサラリーマンとしての最初の引退時期を迎え、子会社の金融会社に役員として転職した。
子会社に転じても、こつこつと、働き続ける福井さん。82年には、望月さんの父・軍四郎さんが設立したという宝くじ委託販売の「東京宝商会」に、再び転職した。もう70歳になっていた。「人のあまり多くない職場がいい」というのが、福井さんの希望だったという。
福井さんの、こぢんまりとした現職場での、サラリーマン生活は30年を超えた。仕事をしてはいるが、70歳以降が、人生で一番安定した時期と言えるかもしれない。「ストレスはないねえ」と笑う。この間、福井さんは、実に規則正しいサラリーマンとして生きてきた。勤務時間は朝9時半から午後1時半まで、宝くじの整理や売上金の管理などに携わる。月給は30万円。通勤途中に、時々、駅で若者にぶつかって倒れたり、転んであざを作ったりするのが家族の心配のタネだが、本人はひるむ様子もなく会社に通い続ける。販売所から上がってきた売上金の計算が合わない時は、自分の給与からそっと補てんする。数年前からは、月3万円を補てん用に積み立てている。
こうした生活を続ける一方、望月さんと一緒に40代から楽しんできた能の謡(うたい)の稽古を欠かさず続け、時折ステージにも上がっている。食べたいものは肉でも何でも食べる。「今もしっかり声が出るのは、謡を続けたおかげだね。長生きできたのも、毎日働いていたからでしょうね」。万歩計をつけて毎日最低でも7000歩は歩くことにしている。
結果として100歳になっても勤め続けているが、迷いや危機がなかったわけではない。1998年、苦楽を共にしてきた親友の望月さんが亡くなった。84 歳だった。その約10年後、96歳になった時、もうそろそろ引退すべきだろうと考え、東京宝商会に1度「もう辞めたい」と申し出た。加齢に伴って、耳もすっかり聞こえにくくなった。だが望月さんの妻の節(せつ)さんは、「ずっといてほしい」と言った。
「経営者だった主人は国から褒章をいただいたけれど、表舞台に出なかった福井さんには何もありませんでした。主人もよく私に、『自分ばかり申し訳ない』と言っていました。でも、福井さんが気に留めている様子は本当に全くなくて。あんなに仲の良い友人同士って、ほかにあるのかしら。本当にお世話になった」(望月節さん)。福井さんに宿る鮮明な記憶や明晰(めいせき)な頭脳、そしてたたずまい。それは苦楽を共にしてきた者たちにとって、何者にも代え難い宝なのだろう。
加齢に伴って耳の聞こえが悪くなっただけではなく視界も狭くなったためか、90代になって2度、歩行中に交通事故に遭った。「幸い、軽いけがで済んだけれどね。車のミラーが壊れちゃったよ」(福井さん)。身の回りの世話をしていた最愛の妻・れいさんを97歳の時に失った時は、一時すっかり衰えてしまい、息子夫婦らをやきもきさせた。「妻と毎年、全国を旅行して回った80代以降の10年間が、人生で一番楽しかった」(福井さん)。しかし、長男喜久夫さんの妻・伸子さんの献身もあり、元気を取り戻して今に至る。
それにしてもなぜ、100歳の今も、働き続けることができるのだろうか?
「人の道を外さない経済活動」が重要
福井さんは、「人の道を外さない経済活動」が人間社会にとってきわめて重要だと考える。経済学研究者を目指していた福井さんの大学の卒業論文のテーマは「経済倫理学」だ。「神の見えざる手」で市場に任せることを説いた『国富論』を著した経済学の祖、アダム・スミス氏が、その前提として「社会秩序を導く人間本性とは何か」を突き詰めた倫理学の著書『道徳感情論』で考察したことでもある。
「人間、自分勝手はいけないよ。人間は、人のために行動しなければね。ずっとそう思ってきた。私は証券会社時代、望月さんのためだけを考えて行動していたよ」。常に自分のことより周囲を優先し、前向きに明るく生きている福井さん。若い頃から苦労と波乱続きの人生だったが、今、100歳まで生きられる国・日本に生まれて本当に良かったと思っているという。
「封建制度でしょ、資本主義でしょ。次は何がくるんだろうね。ずっと続く制度なんてないからね」。自らも歴史に翻弄されながらも、そう「経済学者」の視線でつぶやく100歳の福井さんの目には、危機を繰り返している今の経済情勢など、大きなうねりの中で現れた小さなエピソードの1コマにすぎないのかもしれない。
[日経ビジネス]
Posted by nob : 2012年09月11日 15:05