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「すること」(doing)ではなく「今、ここに共にあること」(being)が大切、、、今私がここにいて共に貴方がいるこのかけがえのない幸せ。。。

■おだやかに逝ったYさんが教えてくれた
「死」との向き合い方
「今、ここに共にあること」の大切さ

世界中で大きな反響を呼んでいる「ワーク」。4つの質問と「置き換え」というシンプルなステップでありながら、ストレスや苦しみから劇的といえるほどの解放をもたらす。この「ワーク」を開発したバイロン・ケイティの新著の訳者による連載4 回目では、ワークが、目の前にある悩みや問題解決にとどまらず、病や死などへの根源的な恐れに向き合うことにも役立つことを、訳者の恩人を看取った経験から紹介する。

死を宣告されて

 Yさんから私たち筆者に国際電話があったのは、4月上旬のこと。70歳を目前にした男性で、20年以上前に家族でハワイに移住していました。人生の要所要所で的確なアドバイスをしてくれたり、大変な時に助けてくれたりと、30年以上にわたり、とてもお世話になりました。その彼が末期がんで、あと2 週間から数ヶ月の命であると告知を受けたというのです。私たちは衝撃と悲しみの大きさに圧倒される思いでした。

 Yさんは死については覚悟ができていると思う、と言い、過剰な延命治療はせず、自宅で最後を迎えると言います。数日後、私たちはとるものもとりあえず、ハワイへ。

 豊かな森を背後に抱えたご自宅に到着してみると、Yさんは寝室で横になっていて、話はできましたが、やせて腹水がたまり、体が辛そうでした。ただ、食事やトイレなどは大変ながらも何とか自力でこなすことができましたし、体調のよい時間帯は、訪れる友人たちと話をしたり、音楽を聞いたりして過ごしていました。ご家族は本当に献身的にYさんの看病に当たっていました。

 寝室は三方に大きなガラス窓があり、外の緑が見えました。美しい部屋で、静かで平和でした。ハワイの豊かな自然の中にいると、人が自然の中で生まれ、自然に還っていくことを受けとめやすくなるような、不思議な安堵感を覚えます。

ただ一緒にいる時間がクオリティ・タイム

 私たちは、多くの死にゆく人たちと関わったYさんから話を聞いていた他、自分たち自身がこれまで体験したことを通じて、死に臨んでいる人に接するために重要なことは、「今、ここに共にあること」(“being”)であると学んでいました。孤独や不安に陥る本人の支えとなるのは、関わる側が恐れなく、その人の存在と共にあるという態度なのです。

 以前に知り合いの依頼で、ALS(筋萎縮性側索硬化症)の末期の男性の精神的サポートをさせていただいたことがありますが、その方は奥さん、娘さんとは事情があって離れて暮らしていて、妹さんと医療チームが家で面倒を見ていました。私たちは具体的なケアをする必要がなかったので、ただしていたことは、その人の話を聞いたり、抱きしめたりして、そばにいることでした。

 でも、そんなシンプルなことが本人にとっては助けになるのだということを改めて感じる経験でもありました。周囲が忙しく立ち働いていると、本人の心が置き去りになることがありますし、「今、ここにただ共にいる」というのは、残された時間の中で、生きている感覚を共有することが、とても大切になってくるからです。

 今回のYさんの場合も、少しでもご本人やご家族に役立つことをと思い、あれこれ「すること」(“doing”)に意識が行きがちな時、それよりもただ一緒にいて、本人の話の相手をしたり、マッサージをしたり、ただ体に触れていればいい時もあると気づかされることもありました。

 後にその時の経験について振り返った際も、そうしたただ一緒にいる時間というものが、「クオリティ・タイム(密度の濃い時間)」として、とくに心に残っています。

看取りのプロセス

 それから数日後、日本に戻りました。このハワイ訪問は、とりあえずお会いして、何かお手伝いできることがあるかを見てくるという意味合いがありましたが、筆者(ティム・マクリーン)が以前にホスピス・カウンセラーをしていたこともあり、お役に立てそうだったので、10日後に戻ることになりました。

 再びハワイのお宅に到着した翌日。Yさんの容態が悪化しました。それでもその次の日に日本から弟さんがくることになっていたので、会いたいと頑張っていました。そして弟さんが到着。午前中は数時間、不快な状態が続いていましたが、医師が投薬をしてくれて、意識がはっきりし、痛みが和らぎました。しかし同時に、あと24時間という最後の宣告がなされました。

 家族全員と共に、Yさんの手を握り、お互いのつながりを感じます。最後のリズミカルな呼吸の中、Yさんは、窓から差し込む光を見上げ、それからひとりひとりを見、部屋を見、そして目を閉じ、逝きました。この時の彼の意識的な逝き方、そしてその場がとても静かで平和だったことが心に残っています。

 日没の時間、寝室は灯したロウソクの光であふれていました。お香を供え、禅を学んだことがある筆者(マクリーン)が般若心経を読みました。自分なりの解釈では、次のような意味です。

「私たちの本質は生まれることも死ぬこともなく、この気づきによる平和の内に、心はあらゆる妨げから解放される。妨げるものがなければ、恐れは存在せず、現実とひとつになる。ストーリーや幻想を超える。この目覚めそのものが涅槃であり、平和と喜び、慈悲の中にある」

ストーリーを超える

 この大きな体験が起きたのは、筆者がバイロン・ケイティの新著、『新しい自分に目覚める4つの質問』の出版に向けて最後の作業をしているさなかでした。この本の中に、「生老病死――老いや病、死をどう受けとめるか」という章があり、ケイティの言葉はとてもリアルで的確に心に響くと共に、大きな支えとなりました。

 ケイティは本の中で、次のように言っています。

 あなたが死についてクリアな状態でいることができれば、誰かが死に向かっている時に、その人と完全に共にいることができます。(中略)その人をただ愛し、抱きしめ、気にかけることができます。なぜなら、そうすることがあなたの本性だからです。

 恐れを抱えてその人のところにやってくることは、恐れを植えつけることになります。その人があなたの目をのぞき込むと、自分は大変な状態であるというメッセージを受け取ることになるのです。けれどもあなたが恐れなく、平和な状態で訪れたとしたら、あなたの目をのぞき込んだ時に、何が起きていても大丈夫だとわかるでしょう。

 そして不安や罪悪感など、さまざまな考えや感情が湧いてきて、クリアな状態でいられない時、4つの質問と置き換えからなる「ワーク」に取り組むこともできるのです。実際、介護をしている家族にワークを使ってサポートしたこともあります。

 ケイティはまた、次のようにも語っています。

 体の痛みにうんざりしている人たちにとり、コントロールできないものをコントロールしようとするほど悪いことはありません。本当にコントロールしたいのであれば、コントロールという幻想を捨てましょう。人生の流れに任せるのです。実際、人生の流れに任せざるを得ません。あなたが語っている、コントロールできるはずというストーリーは、決して現実(リアル)にはなりません。

病や死とかかわる「知恵」

 Yさんは、以前から「無為自然」を大切にする人で、病においても、コントロールしようとすることがかえって事態を悪くすることをよく知っていて、起きている現実やプロセスを信頼し、その流れに沿っていこうとしていました。

 そして亡くなる際のプロセスに付き添っていたご家族や筆者にとり、その場で必要とされたことは、瞬間瞬間に意識を集中することだけ。考えることなく、自然に動くことができ、すべてが完璧に展開していく感覚を体験しました。それは、まさにケイティが言っていることと同じでした。

 死に向かう人もその身近にいる人も、死を意識すると、「お父さんは自分の考えを押しつける」とか、「〜があれば自分は幸せになる」といった日常的なストーリーが成立しなくなり、時間を超えた感覚になります。何が大切で本質的なことかが見えてきて、死を目前に和解が起きることもあります。そして死そのものも、ストーリーにとらわれずに直接的に体験すれば、決して残念で悲しいだけのことではありません。

 Yさんの例がそうであったように、残された者たちにとって、平和で愛を感じる体験でもあるのです。そしてワークは、ストーリーを超えたところにある平和や愛、自由を思い出す助けになってくれます。

 人の誕生も死も、人生の中でもっとも重要な体験といってよいでしょう。そうした体験は伝統的な社会においては家の中で起き、家族やコミュニティがどのように関わったらいいかということが、人としての大切な知恵ということで継承されてきました。私たちは新たな形で、こうした知恵を活かしていくことができるのではないでしょうか。

[DIAMOND online]

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Posted by nob : 2013年08月12日 10:29