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私は何も遺さず、、、そして象のように人知れずひっそりと死にたい。。。

■瀬戸内寂聴「死も病も、この真理を知れば怖くない」

山田清機=構成

出勤する途中の道ばたに怪我をして横たわっている人がいたら、あなた、どうしますか。

下手に救急車なんて呼んだら、状況を聞かれて時間を食われてしまう。今日は重要な会議があるから、見て見ぬふりをして通り過ぎよう。こんなふうに考えるのが、普通かもしれませんね。

でも、会議に遅れるからなんて、言い訳です。人がひとり、目の前で死ぬかもしれないのを助けることもしないで、いったい何の仕事ですか。倒れている人のそばへ飛んでいって、「大変。大丈夫ですか」と声を掛けるのが、人間として当たり前の姿です。この原稿を読み直している今、通行人の誰もが素通りしたことで、怪我人が死んでしまったという中国でのニュースが入りました。ああ、ついに礼節の国だった中国までもそうなったかと胸がふさがりました。お釈迦さま(ゴータマ・ブッダ)はおっしゃいます。

「『その報いが、自分には来ないだろう』と思い、善ぜん行ぎょうを軽く見るな。水一滴のしたたりも、つもれば水瓶(すいびょう)をあふれさせる。心ある人は、小さな善をつみ重ねて、いつのまにか、福徳に満たされている」(ダンマパダ=法句経)

お釈迦さまの教えとは、ひとことで言えば、悪いことをせずに善いことだけをしなさいということです。道ばたに怪我をした人が倒れていたら、迷わず手を差し伸べる。それが善いことです。

なぜそれが善いかは、立場を逆さまにしてみればすぐにわかる。あなたが轢き逃げに遭って道ばたで呻いているのに、目の前からさーっと通行人が逃げていったらどう思いますか。「なんて薄情な世の中だろう」と思うでしょう。相手の立場に立ってものを考えれば、人間は他者のためにどんなことでもできるのです。

特に出家者にとって、善いことをするのは義務です。そこに、やるとかやらないとかいう選択の余地はない。なぜなら、出家者にとってお釈迦さまの教えは絶対だからです。信仰を持つとは、そういうことなのです。

私が51歳で出家を決心したとき、マスコミはいろいろなことを書き立てました。男に振られたのではないか、もう小説が書けなくなったのではないか、娘の結婚式に呼ばれなかったので拗ねたのではないかなどなど。でも、どれも当たってはいませんでした。

ちゃんと男はいましたし、連載の予約は再来年まで一杯。娘の結婚相手は、陰で私が世話をした人でした。ですから、そういった理由ではなかったのです。

私は大学を卒業するまで、ずっと優等生でした。結婚しても模範的な奥さんだったので、不良に対して強い憧れがありました。子供の頃から、不良が羨ましくて羨ましくて仕方がなかった。

家を捨て、子供も捨てて、大変に悪いことをいろいろとして、周囲の人にも迷惑をかけながら小説を書き続けました。お陰様で小説は読者がついてくれ、嫌な言葉ですが「流行作家」になりました。売れる小説を書くコツを会得していたので、いくらでも小説は書けた。あのまま流行作家としての人生を続けていくことは、私にとって容易なことでした。

ところが、「これじゃない」と思ってしまったのです。私が憧れてきた、理想としてきた文学は、こんなものではないと思ってしまったのです。

持って生まれた才能だけでは、もはや文学の理想を究めることはできません。バックボーンというのでしょうか、確固たる信念と哲学がなければ、本当に書きたいものは書けない。何か、人間よりも大きな存在に助けてもらいたいという気持ちが、非常に強くなったのです。

師僧の今東光先生(作家・故人)がご病気だったこともあり、先生が住職を務める中尊寺での得度式では、上野・寛永寺の杉谷義周大僧正が戒師を引き受けてくださいました。天台宗では頭を剃っている間、声明を上げるのですが、壁越しに男性のゆるやかな声明を聞きながら頭を剃られていると、心が鎮まっていくのを感じました。これは毀形唄(きぎょうばい)という声明であることを、あとから学びました。

毀形唄って、恐ろしい意味です。「形を毀(こわ)す」ということでしょう。これまでの人間としての形を毀す。女である形を毀す。意味を知ってみれば怖いことですが、あのときは、「ああ、これで変われるんだ」という覚悟のようなものが訪れて、心がとても落ち着きました。

もうひとつ、よく覚えていることがあります。頭が軽くなり、涼しくなったので、私は自分の顔を見たいと思ったのです。そこで、頭を剃ってくださった女性に、「鏡を見せてください」と言いました。すると、夜店で売っているような、裏にブリキを貼った安物の鏡を、「はい」と手渡してくれました。

鏡の中には、マンガの一休さんみたいな可愛いらしい小坊主の顔があります。

「ああ、これが自分か」と思ったら、ストンと何かがわかった気がしました。私は不良になり切れなかったから、出家をしたのかもしれません。
苦に耐え抜いたとき、心の平安が与えられる

心を病む人が多い時代です。当たり前です。こんなに薄情な世の中なのですから。でも、こんな世の中でも、お釈迦さまの教えを知ることで、心の中から不安を取り去ることはできます。

仏教の1番根底にある考え方は、生々流転です。古代ギリシャの哲学者、ヘラクレイトスはpanta-rhei (万物は流転する)と言いました。世の中は移り変わるものであるという考え方は、仏教だけでなく、広く世界中にあります。

「世の中は泡沫の如しと観よ。世の中は陽炎の如しと観よ」(ダンマパダ=法句経)

お釈迦さまは、この世の一切のものは虚妄であると断じておられます。11年3月11日の東日本大震災、それに伴う福島第一原発の事故を、いったい誰が予測できたでしょうか。誰もが予期していなかったことが、現実になった。これがまさに、この世の姿なのです。

いま幸福に生きている人は、この幸福を守りたいと思い、守り切れると信じます。しかし、そうはいかないのです。地震、津波、台風、洪水といった自然の猛威に触れれば、永遠に続くと思っていた幸福がひとたまりもなく吹き飛んでしまう。命も同じです。人間は生まれてきたら必ず死にます。死ぬために生まれてくると言ってもいい。幸福が永遠に続かないように、命も永遠ではないのです。

世の中は常に変化し、人生には予期せぬことが起こり、そして、人間は必ず死ぬ。こう覚悟しておけば、度胸が据わります。大変な災害に遭おうと、会社をリストラされようと、「ああ、これこそ世の習い」と感じることができれば、あわてふためくことはありません。

お釈迦さまは、「この世は苦である」とおっしゃいました。生きることは苦しいと。しかし、この世は苦であると最初から思っていれば、どんな苦しみにも耐えられます。苦だと決まっているのだから、じたばたしたって仕方がない。

「『一切の形成されたものは苦しみである』(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である」(ダンマパダ=法句経)

耐え忍ぶことを、「忍辱(にんにく)」と言います。お釈迦さまは、苦にはひたすら耐えよとおっしゃった。苦に耐え抜いたとき、きっと予期していなかった心の平安が与えられるのでしょう。

作家・天台寺名誉住職 瀬戸内寂聴
1922年、徳島県生まれ。東京女子大学卒。63年『夏の終り』で第2回女流文学賞受賞。73年得度。92年『花に問え』で第28回谷崎潤一郎賞、2006年度文化勲章受賞。近著に『生ききる。』(共著)、『奇縁まんだら』。

[DIAMOND Online]

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Posted by nob : 2013年08月03日 15:36