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私は何も遺さず、、、そして象のように人知れずひっそりと死にたい。。。VOl.2

■瀬戸内寂聴「死も病も、この真理を知れば怖くない」/続き

山田清機=構成

良い母、良い妻である才能を摘み取ってきた

現代の人が心を病む大きな理由のひとつに、孤独の問題があります。「孤独死」「無縁社会」などという言葉が、一種の流行語にもなっています。

もちろん、家族と仲良く暮らせれば、それが1番いいことだと思います。一緒にテレビを見たり、みんなでお鍋をつついたり……。しかし、お釈迦さまはこうおっしゃるのです。

「貪りと怒りと愚かさを捨て、もろもろのしがらみを断ち、命が尽きるのを恐れず、犀(さい)の角(つの)のように、ただ独り歩め」(スッタニパータ=経集)

人間は、ひとりで生まれてきて、ひとりで死んでいく。これが人間の運命だとお釈迦さまはおっしゃいます。

人間は孤独な存在だからこそ、寂しい。孤独だから、話し合える友だちがほしい。孤独だから、一緒に暮らす家族がほしい。肌が寂しいから、誰かと一緒に寝たい。

でも、どんなに体を温め合ったところで、孤独であることに変わりはありません。だから、恋人に裏切られたって、キーキー泣きわめく必要はないのです。家族と離別することになったら、「いままで、たまたま道連れでいてくれたんだ。ありがとう」と思えばいい。

この世は変化するものだと思っていれば、どんな事態に直面しても度胸が据わると言いました。孤独の問題も同じです。最初から人間は孤独だと思っていれば、たとえひとりぼっちになったとしても、うろたえることはありません。

私は、孤独が好きです。できることなら誰にも知られず、ひっそりと死んでいきたい。どこかをひとりで旅していて、野原かなにかを歩いているとき、命尽きてバタリと倒れる。獣に食べられて、そこにすすきが被さって……。

こんな死に方が、私の理想です。もっとも現代では、誰かが失踪したとなればヘリコプターを動員してでも捜索するのでしょうから、ひとりでひっそりと死ぬのは、むしろ難しいことかもしれません。

ひとり、ということで言えば、結婚しない女性が増えていると聞きます。
1987年より住職を務めた岩手県にある古刹・天台寺での「青空説法」の様子。広い境内に全国から1万人もの人が集まった。その内容は、『寂聴 あおぞら説法』シリーズにまとめられている。現在も名誉住職として法話を行っている。

2011年は平塚らいてうの「青鞜」(婦人問題を扱った文学誌)が誕生して100年目の年。明治の終わりから大正のはじめにかけて、多くの革命家が活動しましたが、当時の女性の地位は本当に低いものでした。仕事がないどころか、参政権すらなかった。

いまや男女雇用機会均等法という法律までできて、女性がずいぶん社会的に立場を得てきています。大学入試でも就職試験でも、1番、2番を取るのはたいてい女性と聞きます。「戦後、靴下と女は強くなった」と言いますが、本当ですね。

でも、現役の女性大臣が子供を産むなどという報道に接すると、大臣に子育てをしている暇があるのだろうかと思ってしまう。女性が社会的に活躍するのは嬉しいことですが、少し矛盾も感じます。

件の女性大臣だけでなく、女性が本気で仕事をしようと思ったら、家族との時間も大切にしたいとか、親に孫の顔を見せてやりたいなんてことは考えていられないはずです。何かひとつのことを成し遂げようと本気で思うなら、結婚も子供もなんて欲張りすぎです。

大きな椿の花を咲かせるには、どうすると思いますか。まだ、つぼみが小さいうちに、ひとつだけを残してみな摘んでしまうのです。そうすれば、大輪の花を咲かせることができる。女性の社会進出が進めば、結婚しない女性が増えるのは当然のことだと私は思います。

私は、いい母になる才能、いい妻である才能、そうした才能をひとつひとつ摘み取ってきました。そして、小説を書く才能だけを残したのです。これだけたくさんの才能を犠牲にしたのだから、せめて小説を書く才能だけはちゃんとしてくださいとお釈迦さまにお願いしています。

出家者には、法話をするなど、想像していたよりもたくさんの義務があります。そして、義務を果たすことは、正直言って楽しいことばかりではありません。

ところが、小説を書くことは私にとって快楽なのです。この快楽を手放したくないという欲望が、私にはある。煩悩は捨てなくてはなりませんが、私はいい小説を書きたいという煩悩だけは、今も捨て去ることができません。

でも、死ぬまで煩悩を抱えて生きるのが、人間というものです。煩悩を完全になくせばブッダ(悟った人)ですが、世の中ブッダばかりになってしまったら、ちょっと困るでしょう。だから私は、そんなに立派なお坊さんではないのです。

同時代を生きた作家や著名人との奇縁を綴る『奇縁まんだら』(日本経済新聞に連載、9月に終了)というエッセイを足掛け5年書き続けながらつくづくと思いましたが、人間はみんな死にます。川端康成さんも、三島由紀夫さんも、遠藤周作さんも、つい最近は北杜夫さんも、みんな死んでしまった。私のように 90まで生きてごらんなさい。親しい人間は全部死ぬんだということが、よくわかります。

だからもう、私は死ぬことも怖くないし、病気も気にしません。昔、60歳ぐらいの頃、ちょっと心臓の存在を感じるようになって、東京で三指に入るという心臓のお医者さんに診てもらったことがあります。お医者さんが、「講演旅行なんてとんでもない。年寄りらしく庭で草むしりでもしていなさい」とおっしゃるので、「どうせ心臓が悪くて死ぬのなら、もっと仕事をしてやれ」と思って、仕事を倍に増やしたことがありました。そうしたら、私は死ななかったのに、そのお医者さんが亡くなってしまいました。

いまは糖尿病を患っていますが、お酒は飲むし、肉は食べるし、チョコレートも食べる。不摂生をしていますが、数値は悪くなりません。人間はみな死んでしまうのですから、病気だろうと何だろうと、あまり気にしないほうがいいのです。

お釈迦さまは、「この世は苦だ」とおっしゃいました。お釈迦さまは国が戦争するのも見てきたし、自分の国が滅ぼされるのも見た。人間の嫌なところをたくさん見て、自分が可愛がっていた弟子がどんどん死んで孤独も味わった。それでも、最後の遊行の旅に出られたときに、こんな言葉を残しておられます。

「この世は美しい。人の命は甘美なものだ」(大パリニッバーナ経=大般涅槃経)

この世に対する全肯定、人間に対する全肯定です。お釈迦さまがこうおっしゃったのだから、この世は美しく、人の命は甘美なのだと私は信じます。私たちはもっともっと楽観的に生きていい。私はそう思っているのです。

[DIAMOND Online]

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Posted by nob : 2013年08月03日 15:46