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それぞれ自立した、あるいは目指す二人が、お互いに強調し合わんとするのが本来の結婚の形。。。
■結婚は「認められる人」だけができる時代!?
独身者が陥る“承認不安スパイラル”の正体
「強迫観念にとらわれたかのようにメールの返信を急ぐ人」、「Twitterで他人のツイートをパクる人」、「ランチを一緒に食べる友達がいないと思われるのがイヤで、トイレでご飯を食べる人」、「せっかく一流企業に入ったのに辞めて、所得を減らしてでも自分らしい職場を探す人」……。
オジサンには一見不可解な現代の若者に特徴的なこれらの行動。こうした行動を駆り立てる原因を探っていくと、彼らの「認められたい」という思いに行きつくことが少なくない。現代において若者を悩ませる最大の問題は、経済的不安ではない。「認められない」という不安なのだ。
一方で、若者でない世代も含めて、日本に蔓延する閉塞感の正体を探る意味でも「承認」、さらに「承認格差」は、大きなキーワードだと考える。この連載では、経済的な格差に苦しむよりも深刻かもしれない、「“認められない”という名の格差」を考えていこうと思う。
結婚していないと不幸になる?
独身者が抱える「2つの承認不安」
経済的な格差よりも深刻かもしれない、「承認格差」、「認めてもらえない不幸」とは何か。
前回、「承認」には3つの種類があることを紹介した。それは、承認を得たい・得られる他者(相手)との関係性によって、以下のように分けることができる。
<1>親和的承認(主に家族や恋人など、親和的な関係から得られる承認)
<2>集団的承認(職場や学級など共通の目的を持つ集団のなかから得られる承認)
<3>一般的承認(広く社会一般から得られる承認)
この3つの概念は、今後ちょくちょく登場することになるので、ご理解いただきたい。
今回は3つのなかでも「親和的承認」について考えていこう。取り上げるテーマは、家族が現代社会でどのような位置に置かれているか、だ。
言うまでもなく、「家族」とは、社会における最小の集団であり、最も濃密な関係を得られる他者である。他のどんな人間関係をもってしても、家族を越える親密さは得づらい。ゆえに、家族による承認を考えることは、「承認」を考える最初の一歩となるだろう。
現代社会では、家族というフォーマットが、社会全般に機能しなくなっていることが問題として挙げられる。例えば、生涯未婚率(50歳時点で未婚の人の割合)の増加である。2013年の「少子化社会対策白書」のなかで、男性の生涯未婚率は20.14%、女性のそれは10.61%と発表されている。つまり男性の5人に1人、女性の10人に1人が、50歳まで未婚で過ごしているというのだ。そして、この数字は年々上がっている。これは、あなたの周囲の結婚事情を考えても、実感が持てる数字ではないか。
この状況は、承認というキーワードに照らすと、二重の問題をはらんでいることがわかる。1つ目は、単純に家族からの親和的承認が得られないという問題だ。そして、2つ目は、独身であることによって、周囲や社会一般から、「あの人は結婚できない可哀想な人だ」と風評を立てられることである。つまり、世間からの一般的承認も得られない。
こうして文章に起こしてみて、自分でもこんなことをあえて書くのはばからしいと思う。そして時代錯誤だとも思う。他人からの風評なんて放っておけば良い。価値観が多様化し、女性の社会進出が職種によってはある程度進んだ世の中では、男女ともに必ずしも結婚しない幸せがあってしかるべきだ。それにもかかわらず、「親に言われるので」「周囲が結婚しているので」焦っている人が多いというのも、また事実だろう。これを“世間体”と位置づけずになんというのだ。
生涯独身を貫く場合は、煩わしい家庭内でのやりとりがない代わりに、伴侶からの「承認」が欠如し、なおかつ世間一般からもなんとなく「負け組」というレッテルを貼られて生きることになる。本人が望む・望まざるに限らず、だ。したがって、本人の内側と外側で二重の承認不足を抱えることになる。
こう述べると、「そんなこと、今に始まったことではないではないか。いや、世間体の圧力は昔より弱まっているではないか」という反論がかえってきそうだ。では、それに対する反論をこれからしていこう。
僕の結論としては、確かに世間体の壁は打ち壊されつつあり、かつてほどの息苦しさはなくなっているが、その代わりに、社会で“別の問題”が生じてきているということだ。この世の中は、ある問題が解決されると、その一方で“別の問題”が生み出されるようにできている。なぜなら、完璧な社会はいまだ地球上のどの場所にも存在しないからだ。
結婚は激しい市場競争を
勝ち抜いた人だけができるもの
結婚と年収の間に相関関係があるのは、有名な話である。内閣府が発表した「結婚・家族形成に関する調査」(平成23年3月)によると、30代の男性の場合、年収が600万円以上の場合の既婚率は37.6%、500万円台が35.3%、400万円台が29.4%、300万円台が26.5%、300万円以下の人は9.3%と、明らかに年収が高い方が既婚者が多いことになる。これは20代の男性も同様である。
一方、30代の女性の場合は年収300万円以下の人が最も既婚率が高く(35.7%)、世代平均(30.0%)を大きく上回っている。これは、出産後に専業主婦になったり、仕事をセーブしたりする人が多いゆえに、結果的に300万円以下の層に既婚者が固まることが多いためと予測できる。300万円以上に目をやると、300万円台が17.1%、400万円台が20.0%、500万円台が23.0%と、男性ほどはっきりとした差ではないが、やはり相関関係があると言える。ただし、600万円以上になると、16.3%と再び既婚率が下がる。女性の場合、ほどほどの収入がある人が、最も結婚しやすいということなのだろうか。
このデータが意味するところは何か。結婚とは、広い地球上で赤の他人同士が出会い、お互いの意思を尊重した結果、一生のパートナーになってほしいと思った人に伴侶としての社会的承認が与えられる素晴らしい制度である。その一方、結婚できないかもしれない人々の側から見ると、結婚とは明らかに生存のための競争であり、厳しい市場メカニズムが働く現象という、身も蓋もない結論に他ならない。
結婚相手に求めるもの。年収、容姿、社会的なステータス…。その他様々な条件が絡み合うが、詰まるところ男女ともに、異性に対し相応の価値を求めているという点で一致している。これを市場競争と呼んで何が間違いなのだろう。
かつて結婚相手に求めるものについて「3高」(高身長・高収入・高学歴)という言葉が流行したのは1980年代末のバブル期。このあたりから明らかに結婚は市場競争のなかに組み込まれていった。
「3高」とは、女性から相手の男性を指して評価した言葉だ。これが、女性から男性への評価だったことには、時代が感じられる。なぜなら1980年代末の時点では、多くが専業主婦になる女性の人生の幸福度は、結婚した男性に大きく依存していたからだ。一方で男性にとっては結婚相手の価値よりも自分の社会での評価を上げることが優先された。したがって、女性を評する「3高」に当たる言葉は生まれなかった。
しかし、共働きが当たり前となった現代においては、男性にとっても、女性のパートナー選びは重要な事項になった。慎重な男性ならなおさらそう思うだろう。そうした時代背景を経て、男女ともに結婚市場競争に巻き込まれる時代になったのだ。そりゃ婚活が流行して当然だ。
結婚できない「負け組」は
“認められないスパイラル”へ
ただ、誤解しないでほしい。僕は時計の針を過去に戻すべきだと言っているのではない。お見合い結婚が主流だった時代には、家の都合が本人達の希望より優先されたこともあったかもしれないが、それと比べれば現在は幸福な時代である。共働きする夫婦が分担して家計を担う。素晴らしいことではないか。現状の結婚のルールは、過去のものよりかなりマシなものだ。
だが、このような性差や家柄といった旧来的な考えが後退したがゆえに、上記のような理由により、結婚したくてもできない人は結婚市場競争に負けた人ということになり、「負け組」というレッテルが貼られやすい状況になってしまうというのも事実だろう。
認められる人はさらに認められ、認められない人はさらに認められなくなる。これが、「認められない私と認められない社会」の正体だ。
富める人、立場の強い人、能力の高い人、コミュニケーション能力の高い人、異性にモテる人はますます認められ、貧しい人、立場が弱い人、能力が低い人、コミュニケーション能力が低い人、異性にモテない人は、ますます認められなくなる。そして、「承認されない」のスパイラルを生み出してしまうことになる。これは、まさに経済的な格差社会と、格差の固定化のメカニズムとよく似ている。
では、この問題を解決する方法はあるか。正直なところ即解決する方法はないが、もし結婚に対してプレッシャーを感じる人がいた場合、自分がどのような状況に置かれているかを客観的に把握することが、不安を和らげる一助となるのではないか。病気を患った場合、何の病気が分からないことが最も不安であるが、病名が分かった途端に半分は解決したようなものだ。あれと同じで、まずは現状のもやっとした不安の正体を分析することから始めるのが良いかもしれない。
まとめとしては少々乱暴かもしれないが、結婚の話題をし始めて、SNS好きの僕が最初に考えたのは、Facebookにおける「既婚」ステータスの存在である。Facebookには、既婚者と独身者を分けるステータスが登場し、任意ではあるもののその人が結婚しているかどうかが丸わかりである。
このような、あっけらかんとした空気は、日本のSNS文化では存在しなかった。ある人に既婚か独身かを問うのは繊細な注意が必要となるが、しかし Facebookは“がさつ”に聞いてくる。「お前は結婚しているのか?」と。このようなある意味での“がさつさ”を、日本人はもっと体得しても良いのではないだろうか。
日本の戦後はアメリカによって大きく社会変革を迎えたが、今回もまた、アメリカ人が作ったツールによって、日本文化は大きく変わるのかもしれない。
<今回のまとめ>
・何らかの事情によって結婚できない人は、家族からの親和的承認と、世間からの一般的承認、双方が得られない状況になりかねない。
・現代の結婚には市場競争のメカニズムが働いており、勝ち組と負け組がより鮮明化した。
・ゆえに、持てる人(モテる人)はますます恵まれ、持たざる人はますます不安になる。
[DIAMOND online]
Posted by nob : 2013年08月30日 19:47