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五輪を東北で開催するというのであるならまだしも、、、私たち国民一人一人の無自覚無責任さがいつまでもこんな愚行暴挙を蔓延させ続ける。。。

■あえて熱狂・東京オリンピックの死角を問う
山田厚史 [デモクラTV代表・元朝日新聞編集委員]

世界は政治家の言葉に厳しい

 それにしても大胆な発言だった。

「放射能汚染水の影響は原発港湾の0.3平方キロメートルに完全にブロックされている」

 汚染水は制御不能になっているから問題なのだ。安倍首相が「コントロール下にある」と言ったのは「嘘をついた」ことにならないか。

 9月7日ブエノスアイレスで開かれたIOC(オリンピック)委員会での発言は、「原発事故などたいしたことではない」と世界に公言したようなものである。フクシマの現実はそんなに軽くはない。2011年には高濃度の放射能物質が外洋に流れ出ている。日本原子力研究開発機構のシミュレーションによれば、来年にはハワイ沖に達するという。いずれ国際的な問題になるだろう。「完全にブロックされている」と事実に反する発言をした責任を問われることになるかもしれない。

 日本では「政治家のことば」は聞き流されるが、世界は「政治家の嘘」に厳しい。

 福島沖で高い汚染値が観測されていないのは観測体制に問題があるから、ともいわれる。今回の汚染水の流出も参議院選挙の開票直後に公表された。流出は前から続いていたのに「異常なし」だった。

 首相は「汚染濃度は安全基準よりはるかに低い」という。放射能が海に拡散しているから濃度が下がっているだけだ。「水割り」にすれば基準値に収まる、というのが政府や東京電力の考えのようだ。

 福島原発の敷地は汚染水のタンクで埋まっている。メルトダウンした核燃料がどこにあるかも正確には分からない。水を掛けて冷やす作業は十年は必要だが、汚水を貯めるタンクの置き場がない。結局は水で薄めて海に流すという「水割り作業」が東京五輪までに始まるだろう。

 水で割っても大量の放射性物質が海に流れ出る事実は変わらない。放射能は食物連鎖で濃縮され、魚の体内に蓄積される。地球環境を悪化させる事実に目をつむり、五輪誘致という目先の手柄を追った咎めがやがて責任問題となって日本に降りかかるだろう。

裏の狙いは東京の湾岸開発

 そうまでして誘致する東京五輪は日本に何をもたらすのか。「震災復興の象徴」に果たしてなるだろうか。

 開催地は東京である。「コンパクトに競技施設が集中した効率的な大会運営」が売りだという。舞台は東京湾岸である。

 東京五輪を言いだしたのは石原慎太郎都知事だった。「お祭りが最大の景気対策だ」と言ったが、その裏に狙いがあった。「湾岸開発」である。首都圏に残された最後の遊休地を都市化する。湾岸副都心構想は豪華な都庁を建てた鈴木俊一都知事(在任期間1979~1995年)が先鞭をつけた。世界都市博覧会を誘致し開発に弾みをつけようとしたが、巨額な財政負担が問題になり、後任の青島幸男都知事(同1995~1999年)が中止を決めた。

 埋立地に広大な都有地を抱える都にとって開発は税収や権益の拡大につながる。五輪決定を前提に改造の青写真は描かれ、4000億円が用意されている。五輪特需はゼネコンにとって千載一遇のチャンスだ。

 銀座4丁目交差点から勝鬨橋を渡り、晴海通りを海に向かって進むと両側に未利用地が広がる。彼方にタワーマンションが見える空き地に「オリンピック施設用地」の看板が立っている。夏草が茂るこのあたりに世界のアスリートが集う選手村が建設され、湾岸の風景は一変するだろう。

 湾岸だけではない。国立競技場の改修は日本の建築技術を世界に示す作品ということで1300億円を投入するという。

 各国レポーターの仕事場となるプレスセンターが朝日新聞社の隣に、築地魚市場を移転して建設される。主会場となる代々木とのアクセスは都心を抜けて行かねばならず、今でも最悪だ。交通アクセスは湾岸五輪の最大の課題だろう。モノレール「ゆりかもめ」は輸送量に限度がある。交通網の整備は大問題で道路族が勢い付いている。国土強靭化を叫んでいたが、今度は五輪対策の財政出動を求める声が高まるだろう。

「日本国民の心を一つにする復興のシンボル」とされた五輪は、「東京一極集中」を煽るイベントであることが次第に明らかになるだろう。

 被災地に限らず、日本の地方都市は閑散として人も投資も寄り付かない。今、日本に求められているのは均衡ある社会作りであるはずだ。市場原理に身をゆだね効率性を重視すれば、人もカネも東京に集まる。その流れを逆流させることが政治に求められているのではないか。五輪の誘致によって財政資金まで東京に注がれる。それで「日本国民の心」がひとつになれるだろうか。

 安倍政権は2014年4月から消費税を3%引き上げ8%にし、2015年10月から10%にする方針だ。等しく負担増を求めながら東京一極集中を加速する政治に国民は納得するだろうか。人々が冷静さを取り戻した時、東京五輪は安倍政権のリスクになりかねない。

東京が輝き地方の影が増す

 東京五輪はアベノミクスと相まって経済を活性化するという期待がある。経済効果は都の試算によれば約3兆円ともいわれている。

 経済効果は震災復興にもあった。仙台は好景気になり、飲み屋街やパチンコ店に人があふれるという現象が起きた。大工が足らない、作業員がいない、トラックが足らない、などと過熱を思わせる事態が起きた。だが、にぎわいは一部の業種で、恩恵が被災地全体に届いたという話は聞かない。

 東京への集中投資はミニバブルを起こすほどの過熱感を一部地域にもたらすかもしれない。だが東京が儲かれば景気の温かみが地方に広がるという構造にはなっていない。

「地方経済はジャンボ機の後輪」と言われる。上昇する時は最後に離陸し、下降する時は最初にドスンと地面にぶつかる。東京が輝けば輝くほど地方の影は濃くなる。

 莫大な費用がかかる国立競技場を例に引くまでもなく、五輪予算は都だけでは賄えない。東京への集中投資には自民党からも異論が出るだろう。

 しかし、五輪を成功させるための事業を削るのは難しい。政治家は「地方都市への配慮」「観光客を招く地方の魅力づくり」といった事業に予算を求める。消費税の負担者は都民だけではない。消費税財源は社会保障費、と決まっていても、公共事業やその他の地方向け予算は膨張するだろう。

 安倍首相が世界に約束し、本気で取り組まざるをえない「汚染水対策」にも、膨大なカネがかかる。東電に任せっぱなしにしてきた不作為が今日の事態を招いた。兆円単位の国費を投入せざるを得なくなっている。東電のように対策費をケチると、東京五輪を返上しなければならないような事態にもなりかねない。

 重病人を抱えた家庭が、隣近所を呼び集めて宴会を催す、というのが東京五輪である。いやなことを忘れて元気を出したい、という気持ちは分かるが、その選択が正しかったかは、いずれ分かる。

「東京カジノ」構想も五輪に便乗

 財政難を抱えながら五輪と震災復興を並行して進めることには無理がある。そこで「民間活力の導入」となる。おなじみの規制緩和。登場するのはなんと「賭博禁止の規制緩和」だという。カジノを東京で開業しようというのである。自民党を中心に「カジノ議連」(正式名・国際観光振興議員連盟)が結成され、カジノを合法化する法案が用意されている。

 外国からの観光客に楽しんでもらう巨大な複合娯楽センターを作り、中核にカジノを据えるというのだ。議連のまとめ役である岩屋毅衆議院議員によると「東京に建てるなら5000億円規模の施設になる。経済効果は10兆円」と景気がいい。安倍政権が秋に打ち出す成長戦略にカジノ解禁を盛り込みたい、という。

 猪瀬都知事は6月都議会で「臨海副都心にカジノ設置」の方針を提示した。五輪とカジノは表裏一体で進んできた。有力視されるのはお台場。フジテレビ前の都有地に建つという。石原前都知事が湾岸開発の目玉として打ち出した「お台場カジノ構想」が下敷きになっている。

 中国に返還されたマカオがカジノで観光客を集め、昨年は3兆8000億円の利益を稼いだことが推進派を熱くしている。建設・不動産業界からゲーム機、パチンコ業者までカジノ構想に群がり、経団連まで推進の旗を振っている。五輪が東京に決まりカジノ解禁に弾みがついた、と関係者は期待している。

 「被災地の復興」「国民の心を一つに」といいうお題目はかすみ、経済効果や開発行政、儲け話へと本音が丸出しになりつつある。黒田緩和で膨張した金融に、公共事業という財政が出動、成長戦略でカジノまで加わればアベノミクスは効果を発揮するだろう。GDPを膨らますなら東京一極集中は効果的だ。問題は、それが健全な経済かということである。

問われるのは新たな時代への想像力

 東京に欠けているのは開催地としての理念だ、と言われてきた。

 1964年の東京五輪は日本の戦後復興と経済の飛躍を世界に示した大会だった。2020年なぜ東京でオリンピックを開くのか。

 高度成長、安定成長、バブル崩壊、失われた20年を経て、個人や地域に格差がくっきり出てきた。成長を担った人たちが高齢になり、支える若年層が足らない。エネルギーを原発に依存する危うさも鮮明になった。さまざまな問題を抱える日本は世界で「課題先進国」となっている。その日本はどんな五輪を世界に示したらいいのか。

 成長期待の一本道で経済効果を期待するお祭り騒ぎの五輪でいいのか。我々は新しい時代への想像力が問われている。

[DIAMOND online]


■五輪招致反対派の落胆と祝福
小田嶋 隆

 やっかいな原稿になってしまった。

 書きにくい理由は、私自身が五輪招致に反対だったからということもあるが、それ以上に、東京の五輪招致活動は失敗に終わるものと決めてかかっていたからだ。

 招致成功の可能性をゼロと踏んでいた以上、当然、私の脳内には、失敗を前提とした予定稿が着々と出来上がりつつあった。
 そんなわけなので、9月8日の朝、パソコンを立ち上げて、東京招致の結果を確認した瞬間に、私のシステムは、フリーズした。

 リセットと再起動には、4時間ほどの時間を要した。
 具体的に言うと、午前7時に結果を確認した後、私はそのまま11時までふてくされて二度寝をしたのでした。

 ある年齢を超えると、願望と予測の境界が曖昧になる。今回は、そのことを思い知らされた。

 単純な賛否について言うなら、私は、百パーセントの反対論者だったわけではない。いくつか、反対する理由をかかえていたということで、比率で言うなら、反対7、賛成3ぐらいの気分だった。

 が、予想の面では、9割方東京の目は無いと思っていた。
 現時点から振り返って見るなら、その予測に、たいした根拠があったわけではない。
 そうなってほしいと思っていただけだ。
 願望がそのまま予断として私の思考を限定していたわけだ。

 そういう意味では、私は、安倍首相がスピーチの中で「(福島第一原発の)状況はコントロールされている」と言明したことを、非難する資格を持っていないのかもしれない。
 願望なり希望なりが、いつしか現実認識として根を張ってしまうことは、多かれ少なかれ、誰にでも見られる傾向だ。

 それが今回の招致プランの中で頻発されていた「夢を見る」ということの実態でもある。
 もっとも、政治家の場合は、夢を見るだけでは困る。
 彼らには夢を実現してもらわねばならない。

 東京招致が実現して、私が落胆しているのかというと、実はそうでもない。
 半分ぐらいは祝福する気持ちでいる。
 なんというのか、たった一夜のうちに、賛否の割合が五分五分ぐらいのところまで変化したわけだ。
 わがことながら、なんと軽薄な心構えであろうか。

 おそらく、半年もすれば、私の内心は、期待が6割に不安が4割ぐらいの比率になっている。でもって、7年後の開催時には、ワクワク感9割の好々爺になり果てているはずだ。そういうふうにして人の心は動く。オリンピックのようなものに反対を貫くことは本当にむずかしい。

 個人的には、招致決定でほっとしている部分もある。

 というのも、招致に失敗した場合、私は、政権基盤の軟弱化に焦る安倍首相が、いよいよ本気になって憲法改正に乗り出す予感を持っていたからだ。

 それが、五輪というわかりやすいフラッグを手に入れたことで、安倍首相にとって、国民統合のために無理をせねばならない理由は当面、消滅する。であるからして、憲法改正の動きは、しばらくおあずけになった、と、私はそう思っている。まあ、当たっているかどうかはわからないが。

 招致のためのプレゼンテーションは、ほとんど見なかった。
 後々の検証のために録画はした(←どうせ見ない)のだが、ナマ進行の映像は5分ほどしか見ていない。画面の中に横溢する全員一丸な雰囲気についていけなかったからだ。

 なので、プレゼンをめぐるあれこれについては、ツイッターに流れてきたレポートや、新聞社のサイトに掲載されたスピーチの全文を通して眺めていた。で、当日(9月7日のことだが)は、その間接的な観察結果をもとに、ツイッター上で色々といちゃもんをつけたりしていたのだが、いまからそれを再現するつもりはない。

 敗れ去った招致反対派が自分のいちゃもんを未練たらしく繰り返すことは、五輪万歳のテレビ局が、招致決定の瞬間を何十回もリピート再生して反芻している態度と同様、みっともないと思うからだ。

 ただ、予想を外した人間が言うのもどうかとは思うのだが、今回、開催都市として東京が選ばれたのは、必ずしも最終プレゼンテーションのパフォーマンスが優秀だったという理由からではない。

 東京での開催が支持を集めたことは、わが国の政治経済外交を含めた総合的なプレゼンスがそれだけ評価されていたということであり、同時に、わたくしども日本人のホスピタリティーが世界の人々の心に深く浸透していたことを意味している。ついでにいえば、オリンピック精神を奉ずるIOC委員からの高い評価の背景には、平和憲法への敬意が、いくぶんかはあずかっていたはずだ。

 ということはつまり、招致成功は、必然だったのである。
 こういうことを広告代理店や戦略家の手柄に帰してはいけない。

 最終プレゼンテーションを紹介する番組を見ていて私が不快になったのは、出演者の多くが口先のスピーチや小手先の交渉術をやたらと重視しているように見えたからだ。
 色々と複雑な背景があるとはいえ、世界の目は候補国の実相を見ている。私自身は、五輪招致への賛否は別にして、開催国として選ばれたことについては誇りを持って良いと思っている。

 ついでに、五輪招致に反対していた理由を明らかにしておく。
 この期に及んで、五輪の開催に水をかけるつもりで言うのではない。
 いまさらながら反対理由を述べるのは、個人的に、五輪招致に反対していた人間は、開催が決まったら、要望を投げかける役割に転じるべきだと考えているからだ。

 オリンピックのような巨大イベントについての賛否を問われると、われわれは、反射的に「日本のために」という枠組みでの模範答案を作成しにかかる。

「日本の未来のために」
「日本人の団結のために」
「東日本のすみやかな復興のために」

 でも、実際のところ、賛否は、個人的なものだ。
 少なくとも私は、色々なことについて、いつも「オレにとってどうか」という視点で考えている。

 五輪招致についての私の反対理由は、おおまかに言って以下の二つだ。
 ひとつは、「復興」とか「夢」という言葉を前面に押し出した招致プランが気持ちわるかったこと。
 もうひとつは、霞ヶ丘国立競技場の改築プランにどうしても賛成できなかいからだ。

 いずれも、個人的な感覚以上のものではない。
 おそらく、賛成の側で意見を述べていた人たちの賛成理由も、かなりの部分で、個人的な感慨だったはずだ。

 事実、経済効果を訴えていた人たちの多くは、経済的な恩恵にあずかることがはっきりしている人々だった。具体的には、広告関係者とマスメディア周辺の人間とスポーツの競技団体に連なる人々だ。

 で、その彼らが、招致活動の中心になって動いていた。
 ということは、彼らは、つまるところ、自己利益のために運動をしていたわけだ。
 テレビ局は、NHKも含めて、今年の年明け以来、まるっきりの招致アジテーション報道一色になっていた。

 それもそのはず、彼らは直接の利害関係者だ。
 考えてみれば、祭りの開催に露天商が反対する道理もないわけで、ひるがえって述べれば、私は、そういう図式が嫌で、反対の気持ちに傾いていたのである。

 日本のためとかそういうことではない。
 広告費に浮かれたメディアの連中が鉦と太鼓で五輪景気を煽りにかかる空気にうんざりするという、実に利己的な判断だ。

 もうひとつの、国立競技場改築プランについての反対理由は、さらに利己的かもしれない。

 私には夢がある。
 夢はいつも利己的なものだ。
 私の夢は、私が生きているうちに、霞ヶ丘国立競技場がナショナルサッカースタジアムとしてリニューアルオープンさせることだ。

 10万人収容規模の、天然芝の、屋根付きの、暖房完備の、オールド・トラッフォード(マンチェスター・ユナイテッドの本拠地)や新生マラカナンとくらべても見劣りしない、その最新設備の巨大サッカー専用スタジアムが、あのわれらがサッカーファンの聖地霞ヶ丘に建設されるのなら、私は諸手を挙げて五輪開催に賛成するだろう。

 立地の良さといい、交通の便の豊富さといい、歴史的な経緯といい、国立競技場ほどナショナルサッカースタジアムとしてふさわしい場所はない。

 ところが、現実に採用された五輪仕様の改築プランは、陸上トラック付きの巨大スタジアムだ。
 私のようなサッカーファンに言わせれば、お国は、千数百億ものカネをかけて、東京のど真ん中に廃墟を作ろうとしているということになる。

 いや、廃墟なのだよ。
 だって、陸上トラックに囲まれた芝のフィールドは、観客席からの距離が離れすぎてサッカー場としては二流のハコにしかならないし、かといって、陸上競技ではウサイン・ボルトでも走らない限り、金輪際10万人の観客席が埋まることはあり得ないからだ。

 ということは新装の豪華国立総合競技場は、開会式と閉会式を演出するためだけに造成される、あまりにも豪華な使い捨て施設ということになる。

 できれば、このプランだけは、なんとか、撤回してくれるとうれしい。
 開会式閉会式は、横浜国際総合競技場でやれば良い。

 東京五輪なのにそれじゃ寂しい、と?
 上等じゃないか。
 21世紀にはいって、20年もたつのだから、式典みたいなものは、できるかぎりクールに、そそくさとやっつけるのが時代の流れというものだ。
 そうでない場合、派手にやればやるだけ盛大な恥をかくことは、あらかじめわかりきっている。

 実は私は、オリンピックのような巨大なイベントを仕切る主体として、この国の中枢にいる人たちを信用していない。長野オリンピックの開会式で味わった、あのどうにもいたたまれない気持ちは、一生涯忘れることができないだろう。

 詳細を書くことは自粛する。本当のことを書けば傷つく関係者がいるだろうし、腹を立てるはずの人々もまだ生きている。知りたい人には、自力で検索することをおすすめする。「長野五輪 開会式 演出」ぐらいでサーチすれば、面白い動画や感想が見られるはずだ。

 2007年に大阪で開催された世界陸上の開会式は、さらに国辱的だった。
 これについては忘れてしまった人もいるだろうから、一応書いておく。

 大阪世界陸上の開会式では、「くいだおれ太郎」の扮装をした数十人のおっさんが、祭太鼓のリズムに合わせて踊るのがメインの演出だった。太郎はんたちは、最後に、人文字を作った。それが、ローマ字で「OSAKA」。総勢50人ほどの、小学生の卒業アルバムよりもショボい人文字。でもって、それが、「笑いの都市、大阪」の笑いだと、アナウンサー君は説明していたのだ。

 日本に才能のある人がいないというわけではない。
 ただ、うちの国では、才能のある人は、五輪のような国民的な行事の表舞台には招集されない。
 わが国のシステムはそういう仕様になっている。

 国家的なイベントには、叙勲対象の国民的な名士が指名される。
 政府が招集する有識者会議とかなんたら懇談会と同じだ。アリバイ的に若手や女性が呼ばれることはあっても、あくまでも飾り、基本は年功序列だ。だから、「国民的」な開会式に呼ばれるのは、「国民的なコメディアン」や「国民的な演出家」や「国民的な指揮者」ということになる。

 その国民的な先生方が無能だというのではない。
 ただ、「国民的」なその人たちは、自ら築いた確固たる舞台に置いてはじめて輝く才能であって、オリンピックのような曖昧かつ大衆的な場所では十全な力を発揮できない。

 もうひとついえば、「国民的」な巨匠は、いずれも還暦をはるかに過ぎた「斯界の大御所」で、「かつて偉大な仕事を成し遂げた人物」であったことは間違いないのだとしても、実質的には、「ご隠居さん」だ。

 今回も、おそらくそういう「えらくて誰も文句がいえない人」がトップに据えられることになるだろう。そう思うと、脳内シミュレーションをしてみただけで、嫌な汗が出てくる。

 こき下ろしたように見えるかも知れない。
 最後に、希望を述べておく。

 お客様を招くからというモチベーションで部屋の片付けをしている人たちがいる。
 実際、定期的にホームパーティーを開く理由は、

「それをしないと部屋を片付ける意欲がわかないから」

 という感じの人たちは実在する。
 本末転倒であることは否めないが、それでも、

「とてもじゃないけどお客なんか呼べっこない」

 というところで、完全に片付けをあきらめてしまっている人々よりは、ずっとましな生き方ではある。

 そういう意味で日本は、福島の状況について、少なくとも、2020年までには、恥ずかしくない形での収束の道筋を明示しなければならない立場に就いた。これまでのような場当たり的な対策や、内輪向けの弥縫策では、国民だけでなく世界が納得しない背景ができた、ということでもある。

 片付けには来客、復興にはオリンピック、事故処理には外圧、ということなのだろうか。
 来客が苦手な私としては、いまひとつ釈然としない結末ではあるのだが。

[日経ビジネス]

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Posted by nob : 2013年09月12日 15:09