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人は今日生きているように明日死に往くもの、、、生きるも死ぬも自らの生を救えるのは自分自身のみ。。。

■有名人遺族が今だから明かす 思えば、あれが「死の前兆」だった(前編)森繁久彌、大鵬、三船敏郎、大島渚
感動秘話 なぜ、あのとき気付かなかったのか

ふとした瞬間の、いつもとは違う仕種や言葉。亡くなった後だからわかる。あの時、もう「死」は忍び寄っていたのだと。8人の有名人たちの遺族が、医学では説明しきれない不思議な体験を明かす。

森繁久彌 享年96 森繁建(次男)
亡くなる5日前、ギュッと孫娘の手を握った

オヤジが老衰で亡くなる1年ほど前でしょうか。家族みんなで食事をしていた時、「幸せだなぁ……。こんなに幸せな家族って、世間にどれぐらいいるんだろう」と、突然つぶやいたんです。

ずっと仕事一筋の人だったし、そもそも照れ屋でしたから、そんな言葉を聞いたのは一緒に住んでいた僕も初めてで……。今振り返ると、あれはメッセージだったような気がします。国民栄誉賞、文化勲章など、仕事では大変な評価をいただいたオヤジですが、自分にとって一番の幸せは家族との暮らしの中にあると感じていたのでしょう。

仕事は'04年の映画『死に花』とドラマ『向田邦子の恋文』が最後でした。年相応の衰えや足腰の弱りはありましたが、基本的には健康で、その後、出演依頼も何度かありました。でも、僕があえてセーブさせたんです。やはり役者であるからには、周囲に肉体の衰えを見せず、十分な演技が出来なくてはならないと考えていたからです。

仕事から離れたオヤジは、ひ孫たちととても楽しそうに遊んでいました。ご飯を食べさせっこしたり、膝に乗せて会話をしたり。子供が好きでしたから、本当に満足そうでしたね。

最後の入院は、誤嚥が原因でした。食事中、むせたかと思うと呼吸が荒くなり、顔面蒼白に。慌てて主治医を呼んだんです。

すぐに落ち着きましたが、念のため救急車で総合病院に入院しました。主治医は「2~3日で自宅に帰れますよ」と言っていたのですが、検査の結果は誤嚥性の肺炎でした。高齢ですから回復もはかばかしくなく、入院は長引き、3ヵ月。オヤジはしだいに衰えていき、とうとう自宅には戻れずじまいとなってしまいました。高齢者は入院すると、どうしても体力、気力が落ちるんですよね。

入院中、オヤジがよく口にした言葉は、「お腹が空いた、ご飯にしようか」、「お饅頭が食べたい」。また誤嚥したら怖いので我慢させていましたが、「食べたいものを、好きなだけ食べさせてあげれば良かったなぁ」と、今になって後悔することもあります。もう96歳だったのだから、最後は好きにさせてあげれば良かったのかもしれません。

日が経つにつれ、オヤジの口数はどんどん減っていきました。そして1ヵ月半が過ぎる頃には、コミュニケーションは握手が中心になった。「オヤジさん」と呼び掛けて手を握ると、「おう、おう」と答える。力は驚くほどあり、しっかりと握り返してくれました。

亡くなる1週間前からは、もう口もきけなくなって……。でも耳は聞こえていたようで、孫やひ孫たちが「じぃじ、大好きよ」と声を掛けると、微笑むんです。手もやっぱり握り返してきたし、孫たちの体を必死に触ろうとしていました。

亡くなる5日くらい前ですが、しばらく来られなかった僕の娘が面会に来て、手を握ったら……あの光景は、今も忘れられない。いつもと違い、ぎゅーっと何か言いたげに、意思を持った握り方をしたんです。言葉こそ発しませんでしたが「ありがとう、幸せだったよ」と家族に伝えたかったのかもしれませんね。今振り返れば、あのときオヤジは自分の死を覚悟したのかな、とも思うんです。

「今日がヤマです」と医師に告げられたのは亡くなる前日。病室に集まった親族の前には、心電図モニターが置かれました。僕が甥に「テレビドラマでよく見るだろう。この波線が直線になってしまうと、臨終なんだよ」と説明した途端、本当にピーという音と共に全部が直線になったんです。みんなが慌ててベッドを取り囲んだ直後、オヤジは「ふーっ」と深く息をして、一瞬目も開けた。モニター画面はその後も何度か直線になり、そのたびに周囲が「オヤジさん」、「じぃじ」と声を掛けると、息を吹き返しました。

繰り返し呼吸停止していたのは、オヤジらしく、旅立ちを前に何度もリハーサルしていたんじゃないかな。その夜一晩中僕を一睡もさせず、翌朝、オヤジは静かに息を引き取りました。


大鵬幸喜 享年72 納谷芳子(妻)
白鵬関を叱り飛ばす夫が「チューして」と私に甘えて

お父さんが亡くなったのは'13年の1月19日。心室頻拍という診断でした。

ただ、いま振り返ると、'12年12月に入院をする前から、心のどこかで死期の近さを予感していたのかもしれません。

というのも、かつて部屋にいた若い衆のことを思い出すようになったんです。「いまあの子は何してるんだろう」とか、「病気をしたらしいな。大変だろうな」なんて言葉をふと口にするのを何度か聞きました。

ほとんど使うことのなかった携帯電話で、旧友に連絡をとったりもしていましたね。用事は特にないんですよ。「おう、元気か」と声をかけて、思い出話を少しするだけでした。

ただ、一番の変化は、家族に対する接し方。心根は元から優しい人でしたが、昔は「コノヤロー」、「バカヤロー」と、怒鳴ってばかりだった。そんな人が、急に柔らかくなったんです。

思い出すと切なくなるのは、亡くなる何日か前のこと。お父さんが、「芳子、芳子」と私を呼んだ。「なに?」と聞くと、「好きだよー」という言葉に続けて、「お母さん、おまえがいたから、俺はここまで頑張ってこれた。いろいろ大変な思いをさせたな。ありがとな」と言ってくれた。冗談っぽく「おい、チューぐらいしてくれや」とも。でも恥ずかしいのと、まさかその後すぐに亡くなるとは思いもよらなかったので、私は「何言ってんのよ」と、はぐらかした。あのとき抱きついて、チュッとしてあげればよかったって……。

もともと寂しがり屋でしたが、亡くなる数ヵ月前からは何をするにも私が一緒でした。家政婦さんがいようと看護師さんがいようと、私を呼ぶ。ちょっと用事で外に出たとたん、「いいからすぐ帰ってこい」と電話がかかってくるんです。多いときは何十回も着信があり、私もくたくたになりました。それだけ必要とされたのは、妻として喜びでもありましたが。

亡くなる日も、病室から真っ先に私に連絡がきました。朝の8時くらいに、「よーしこー」とすごく調子が良さそうだった。「どうしたの?元気だね」と返事をすると「早く来てくれ」と。それが最後の言葉でした。電話を切った30分後くらいに、病院から危篤だと連絡がありました。

病室に駆けつけ、先生が手を尽くしてくれている間、「お父さん、お父さん。いつまでも寝てないで、お話しよう」と、ずっと声をかけました。意識はもうなかった。でも、お父さんの目の端から涙が流れたんです。声は届いていたんだと思います。

ただね、一つ伝えておきたいのは、お父さんが弱さを見せたのは、私の前だけということ。世間に対しては最後まで大横綱・大鵬でした。

正月前に仮退院した後、再び病院に戻る日のことです。白鵬関が「ほんの少しでもいいから、どうしてもお会いしたい」ということで、挨拶にいらっしゃった。

具合が悪く、あまり話もできない状態だから、お父さんは不安になっていました。私も「無理しなくていいよ」と言っていた。

でもね、いざ白鵬関の前に立つと、顔つきが一瞬で変わった。

「おう、俺はこれからな、病院行くけど、頑張るからな。お前はただ頑張るだけじゃだめだぞ。相撲も日常生活も、何から何まで、ちゃんと横綱らしくしないと、真の横綱ではないからな」

と熱く語ったんです。私は胸が一杯になった。本人はもう精一杯なんです。しんどくてしんどくてしょうがないんです。その証拠に、白鵬関と別れると「芳子、早く。もう病院行くぞ」と疲れきっていた。

誰よりも強くあろうとしたお父さん。そんな人だからこそ、私にだけ見せてくれた「弱さ」が忘れられないんです。


三船敏郎 享年77 三船史郎(長男)
「今日は天気がいいな」無口なオヤジがつぶやいた

'97年に全機能不全で他界したオヤジは晩年、認知症を患いました。

オヤジはそれまで約20年間、母で女優の吉峰幸子と別居し、違う女性と暮らしていたんです。ところが、認知症の症状が現れ始めた'92年、僕たちの元に戻ってきた。

一緒に暮らし始めたオヤジは、孫と楽しく遊ぶ、ごく普通のお爺ちゃんでした。

孫と過ごす以外の時間は、一人でビデオ鑑賞。約150本近く出演した自分の昔の映画を、黙って懐かしそうに鑑賞しているんです。それでいて、昔話をすることはありませんでした。若いころから口数は多くありませんでしたが、晩年は極端に無口になっていました。

今思うと、認知症を含めたオヤジの体調悪化は、'95年に母がすい臓がんで亡くなった直後から急に進んだようでした。

母の死がオヤジの精神面にどのような影響をあたえたのか、今となっては知りえません。しかし、時期がちょうど一致するのは、何か意味があったのかも……とも思えるのです。

認知症が悪化したオヤジは、担当医のすすめで、高齢者医療の専門病院に入院しました。

入院後、しばらく元気に過ごしていたオヤジでしたが、亡くなる約半年前から、床に臥せりがちになり、食事も流動食しか受け付けなくなりました。

流動食に切り替わる少し前のことです。窓の外を眺めていたオヤジが、突然「今日は天気がいいな……」と、一言つぶやきました。僕は、「そうだね」と返した。

それが、ほとんど話さなくなっていたオヤジと交わした、最後の会話でした。

これを境に、体調は急激に悪化。生きる気力も失っていったように思えました。

そして、死の約1ヵ月前になると、あらゆる内臓の機能が極度に低下し、流動食の摂取も難しくなった。最後は、点滴による栄養補給に切り替わりました。医師から「そろそろ危ない」と告げられたのは、この頃です。

そこで、若手時代からオヤジを我が子のようにかわいがってくれた、俳優の故・志村喬夫人の政子さんに連絡をとりました。

親族以外で容体を伝えたのは、身内同然の彼女だけです。「世界のミフネ」と呼ばれていただけに、認知症が発覚したときも大騒ぎになっていましたからね。オヤジの周囲を騒がせたくない一心でした。

政子さんが駆けつけたのは、亡くなる1週間前のことです。すでに、オヤジは昏睡状態に陥っていました。

政子さんはオヤジの頬をぺたぺたと叩き、耳元でこう声をかけました。

「ほら、三船ちゃん、しっかりするのよ!」

すると、驚いたことに、オヤジの目から一筋の涙が流れたのです。

1ヵ月前からコミュニケーションが一切取れない状態が続いていたため、にわかには信じられませんでした。あまりのことに、医師にも言い出せなかったほどです。

オヤジは志村喬さんと数々の映画で共演させていただき、仕事を離れても志村家とは家族ぐるみの付き合いでした。幼かった僕も、二人を「じぃじ」「ばぁば」と呼んでいたほどです。

世界を股にかけて活躍したオヤジですが、賞賛も批判も一身に背負う俳優という仕事は孤独でもあり、志村さん夫妻は心の拠り所になっていたのでしょう。

そんな政子さんが、死の淵にいる自分に声をかけてくれた。僕には医学的なことは分かりませんが、あのときのオヤジには政子さんの言葉が、たしかに聞こえたのだと思います。きっと、走馬灯のようにさまざまな思い出が胸を去来し、想いが涙となって溢れたのでしょう。

最期は、家族に見守られる中、静かにスーッと息を引き取りました。徐々に意識が消えていくように、穏やかな表情をしていました。


大島渚 享年80 小山明子(妻)
最後のお願いは「お酒が飲みたい」でした

'12年11月、大島は肺炎で救命救急センターの個室に入院しました。この時、すでに年を越せるか分からない状態でしたので、京都に住んでいる大島のいとこの俊彦さんや、入院すると大阪からいつも来て下さる古くからの知人にも連絡しました。もうほとんど声の出ない状態だったんですけど、お二人の呼びかけに、ちゃんと「はい」って返事をしていました。

亡くなる数日前には少し落ち着いていたので、1時間ほど「京都でこんなことがあったわよね」なんて昔話をしました。実際は私が一方的にしゃべっただけですが(笑)。そのとき、

「神様に最後のお願いをするとしたら何がしたい?おうちに帰りたいか、おいしいものを食べたいか、お酒を飲みたいか。一つだけ選ぶとしたらどうする?」

と聞きました。「家に帰りたい」と言うかと思ったら、大島は、

「(お酒が)飲みたい」

って。これが最後の会話です。もしかしたら自分がこれからどうなるのか分かっていたのかもしれません。お酒好きでしたし、大島らしい選択だと思いました。

先生に「さすがにお酒はダメですよね」って訊いたら、「唇につける程度なら大丈夫ですよ」とおっしゃってくれて。だから毎日、唇に少しだけ指でお酒をつけてあげたの。香りだけでも、最後の望みをかなえてあげられたのかな、と思います。

家族が見守る中、大島が静かに息を引き取ったのは'13年の1月15日。翌日から私は18年ぶりの舞台に出演することになっていて、最後の舞台稽古が19時から始まる。大島と一緒の車で家に戻り、布団に寝かせて、最後を迎えられる準備をして、劇場に向かいました。大島は私のために日を選んでくれたのかなと思っています。

あとで看護師さんから聞いたのですが、その日の朝、大島は「ママ~、ママ~」と叫んでいたそうです。それが最後に発した言葉。昔からあの人は何かあるたびに私を呼んでいましたからね。虫の知らせがあり、お別れのために私を呼び寄せようとしたのでしょうか。

大島が逝ってから早いもので1年近く経ちますが、夢に出てきたのは一度だけです。熱海の海沿いの喫茶店で二人でお茶をしている夢。それは若い頃、映画の撮影の天気待ちで行った喫茶店の情景でした。当時、大島は助監督、私は新人女優。たった一度、夢で会えたのが、なんでこの場面なのか、理由はよく分からない。人間の記憶って不思議です。

人生をやり直せるなら、もう一度大島と結婚したいですね。ただ、最後の17年とは違う生活をしてみたい。ずっとリハビリの日々でしたからね。

大島が亡くなって3ヵ月ほど経った頃ですが、自由が丘のレストランで食事をしていたとき、ふと老夫婦の姿が目に入りました。

ご主人はビールを飲み、二人で楽しそうに食事をしていた。まるであの時の熱海の喫茶店の私たち二人みたい。その姿を見て、「私が求めていた幸せは、これだったんだなぁ」と気づきました。そう思うと涙が出てきた。

かなわぬ夢ですが、なんてことのない日常をあの人と過ごしてみたかった。大島が亡くなって以来、涙を流したのはこの一度だけです。

■有名人遺族が今だから明かす 思えばあれが「死の前兆」だった(後編)天野祐吉、井上ひさし、梨元勝、谷啓
感動秘話 なぜ、あのとき気付かなかったのか

天野祐吉 享年80 天野伊佐子(妻)
忘れていた記憶が次々に甦ると漏らした

主人が緊急入院する前のことです。ベッドに横になった主人が天井をジッと見つめながら、「字が見えるんだ」と言うんです。「はっきりとは読めないけど、俺に『解読しろ』と言っているのかもしれない」と。なぜかその時、私は主人が連れて行かれちゃうと感じました。

まさかそれを読んでしまったからかどうかは分かりませんが、その2日後に突然、高熱が出て、入院。それからわずか5日後('13年10月20日)に、夫・天野祐吉は、あっと言う間に旅立ってしまいました。

亡くなる日の朝、先生が集中治療室に入る許可を出してくれました。わずかでしたが、二人きりの時間を過ごせた。その後、彼は穏やかな顔のまま苦しむこともなく、私の腕のなかで息を引き取りました。

入院したとはいえ、本人に病気の自覚は一切ありませんでした。むしろ「小学3年生の盲腸以来だ」なんて、入院を楽しんでいるくらい。3・11以降、仕事への意欲は増し、体も健康でしたからね。

でも、いま振り返れば、亡くなる半年ほど前から、「前兆」はあったような気がします。戦時中に無理やり歌わされた軍歌など、忘れていた記憶が甦るという不思議な現象があったんです。本人は「(記憶の)引き出しが開いたのかな」と話していましたが、自分の人生と向き合っていたのかもしれません。

主人は酸素吸入が必要となってから、筆談ノートを書き始めました。「病院日句」と名付けられた一冊の大学ノートには、「絶対に(君を)置いていかない」「ご飯を食べられている?」などと私を気遣う言葉が綴られていました。ページが進むごとに薄くなっていく文字。最後の言葉は「(家に)かえろかえろ」。たぶん、もう帰れないと分かっていながら……。

こんなこともありました。主人は、生前からの本人の希望でお葬式もしていないし、お墓もつくりませんでした。荼毘に付した後、せめていつも一緒にいようと思い、遺骨をペンダントに入れた、その時です。「カバン」というあの人の声が聞こえたんです。

これは何かのメッセージに違いない、と家中を必死に探しまわると、クローゼットの奥のカバンから2年前に書かれた遺言書が見つかりました。生前、「俺は悪運が強いから98歳まで生きると思う」と豪語していましたが、もしものときのために準備をちゃんとしていたんですね。遺言書は「ありがとう。またね」という感謝の言葉で締められていました。

主人の仕事場でもあった部屋は今もそのままにしています。やっぱり片付けられないんですね。愛用していたメガネも、テレビモニターの見えるいつもの場所に置いたままです。


井上ひさし 享年75 井上麻矢(三女)
父の背中に「諦め」を感じ、覚悟を決めました

そう長くはないんじゃないかな—。そう感じた瞬間は、いまでもはっきりと覚えています。それは、亡くなる2ヵ月ほど前、後ろ姿を見たときです。

私は小さいときから、父の背中ばかり見てきました。机に向かう背中です。原稿を書く父は、それこそ精気がみなぎっていました。それに比べ、病室で見た姿には諦めのようなものを感じたんです。

その頃、父は食事をあまり摂れなくなっていた。「人間は食べることと出すことが基本」、そう考えていた父ですから、ショックだったんだと思います。

肺がんで亡くなるまでの闘病生活は約5ヵ月。最後の日は'10年4月9日でした。しかし父自身は、がんを宣告される前から、自らの死期を本能的に感じていたのかもしれません。

父は最後の1年間、私に一生分といっていいほどたくさんの話をしました。社会の構造や演劇に対する心構え、父の立ち上げた劇団「こまつ座」が進むべき道、観ておくべき芝居、父は毎晩電話で熱く語った。短くて3時間、長いときは夜10時から翌朝の7〜8時まで。父に言われて観劇した芝居の劇評を述べるという宿題も、毎日のように出されました。父娘のというより、まさに私に後を託すための会話でしたね。

闘病生活の間も、そんな「授業」は毎日必ずありました。一度、話している最中に父が激しく咳き込んだことがあった。心配になって電話を切り上げようとしたら、「僕には時間がないんです。だから君も心して聞いてくれないと困る」と言われました。そのとき、「ああ、この人は命を削って、これからのことを私に託そうとしているんだ」と胸を打たれました。

前兆は、父の作品にも表れていたのかもしれません。最後の2作、『ムサシ』と『組曲虐殺』。前者は、若い人たちにエールを送りたいという思いで書き上げたもので、自分たちの存在そのものが奇跡だという、人生の賛歌です。

『組曲虐殺』は作家・小林多喜二の評伝劇。これは、人間は良い人生を送っていれば、死をも恐れない強さを身につけることができるという作品。2作とも、父の作品の中ではかなり異質で、メッセージ性が非常に強い。

父は無意識に残された時間の短さを知っていた。いま振り返ると、そんな気がしてならないんです。


梨元勝 享年65 梨元麻里奈(長女)
仕事人間だった父が、仕事を断った翌日に

がん宣告は、母と私、そして父の3人で受けました。告げられてから父は、「大丈夫」と繰り返していた。まさか2ヵ月しか生きられないなんて、思ってもいなかったんでしょうね。

肺がんのステージⅣだったんですが、父は「ステージ」の意味がよくわかっていなかったんです。「ステージはいくつまであるの?」なんて聞いてきたくらいですから。でも不安はあったんでしょう、「がんについての資料を持ってきて」と私に言いました。なかには読ませたくない内容のものもあったんですが、父の頼みを拒むわけにもいかず、病室に大量の資料を持っていった。ただ、読むのが怖かったのか、死ぬわけがないと思っていたのか、結局、父は最後まで目を通しませんでした。

父の気力の衰えを感じたのは、ずっと続けていた週刊誌の連載を「中止したい」と言ったときです。父は原稿の分量に合わせて、記事の内容を電話口でまとめて話すことができました。だから最悪の場合、書く力はなくなっても、喋ることさえできれば何とかなるということで、最後まで残していた連載です。

その最後の仕事を「辞める」と、仕事人間そのものだった父が口にしたとき、長くないのかもと思いましたね。そしてそう語った翌朝、本当に父は亡くなってしまった。

ただ、いま振り返れば、がんが発覚する1〜2年前から、父には「虫の知らせ」があったのかもしれません。母と一緒にウォーキングを始めたんです。これはそれまで仕事だけだった父からは、考えられない行動でした。結婚生活35年余りのうち、母いわく、家にいるのは「半分くらい」だったそう。おそらくウォーキングには、いままで作れなかった夫婦の時間を取り戻そうという思いがあったんでしょう。

私はいま、父と同じリポーターの仕事をしています。きっかけは、闘病中に父の仕事を少しだけ手伝ったことです。

それから3年、不屈のリポーターとして、スクープを追い続けた父には、いまだ遠く及びません。

憎めない笑顔と「恐縮です!」の決めセリフで、数多くの芸能人からスクープコメントを取った父。もっとアドバイスを聞いておけばよかった、心からそう思っています。


谷啓 享年78 渡部泰裕(長男)
認知症を患っていたのに、森繁さんの死を言い当てた

オヤジが階段から足を踏み外して滑り落ちたのは2010年9月のことです。

僕はいつものように、昼前、玄関で「オヤジ、仕事に行ってくるよ」と声をかけて出かけました。認知症が進行していたオヤジも、僕が仕事で出ていくことだけはわかったようで、僕の目をジーッと見つめてきた。言葉じゃないけれど、これが最後のコミュニケーションになりました。

仕事を終えて帰宅したら、オフクロが廊下に倒れて意識のないオヤジに寄り添っていた。救急車を呼びましたが、明け方、病院で息を引き取りました。

タバコを買いに行っても家に戻れなかったり、近所を徘徊するなど、認知症は進んでいたのですが、僕たち家族のことだけは決して忘れず、防音設備のある居間で、大好きなホラー映画をよく観ていました。

そんなオヤジが、僕らを驚かせたことがあります。亡くなる前年の11月のことです。オヤジを1階の寝室に寝かせ、僕は2階の自室にいたのですが、オヤジがパジャマ姿で、ぼーっとしながら廊下をウロウロしているんです。

徘徊が始まったのかなと思い、「もう寝ようね」とオヤジを促したのですが、「ジイサンが挨拶に来ているんだ」と言って、頑として言うことを聞いてくれない。相手にせずに、とにかく寝かしつけたのですが、その晩の11時頃、テロップで森繁久彌さん死去の速報が流れたんです。

森繁さんは舞台『屋根の上のヴァイオリン弾き』で、ずっとオヤジと一緒だったから、まずびっくり。それから、オヤジが言っていた「挨拶に来ているジイサン」とは森繁さんのことだったんじゃないかと思って、またびっくりです。

昔から、オヤジはその手のものが見える人で、自分が見た幽霊の話などもしていたんです。晩年は認知症を患っていましたし、ボケていたのか、ホラー映画の記憶とごっちゃになっていたのか、あるいは夢と混同していたのか、今となってはわかりません。

でも僕は、オヤジはあの日、森繁さんと会ったんだと思うんですよ。森繁さんが会いに来てくれたら、オヤジも嬉しいに決まっている。親しい人に会えるなら、死後の世界もまんざら悪くない。そう思ったほうが夢があるじゃないですか。


[いずれも現代ビジネス]

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Posted by nob : 2014年01月25日 17:37