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そのとおり!!!Vol.36/気付きがすべての始まり。。。

■現代生活に本当の緊張感はない!? 日本に来た娘の"ケータイなし"生活から気づいたこと

川口マーン惠美「シュトゥットガルト通信」

ケータイなしでも何の問題もない

今、三女が日本に来ているのだが、日本で使うためにドイツで注文し、日本の住所に送られてきたスマホのSIMカードが機能しない。

設定は間違いがないが、どうしてもうまくいかず、テレフォンショップで見てもらってもダメだし、サポートの電話に掛けると、なぜか案内メッセージの後にプツリと切れる。しかも、サポートの時間帯が9時から11時の間だけというから、なんとなく「騙された」っぽい感じはするが、仕方がない。

そこで娘は、ケータイなしで日本での20日間を過ごすと宣言した。彼女は、日本語は"読めず、書けず、ほとんど喋れず"なので、東京ではどのみち手探りで歩いているようなものだが、それ以後、何も無い状態に関しては結構快適らしく、一人で毎日出歩いている。

娘がケータイを持っていないという状態は、気づいてみると、私にとっても新境地であった。つまり、「いって来まーす!」と出かけて行ったが最後、彼女が公衆電話から電話をしてこない限り、一切連絡が取れないという状況なのだ。そして、公衆電話から電話が掛かってくるようなことは、彼女の場合、絶対にない。

考えてみれば、昔は誰もがそういう状況で暮らしていたはずなのに、そんなことは思い出せず、まるで初めての体験のように感じる。「あ、あれを言っておくんだった」と思ってももう遅いし、「ちゃんと辿り着いたかな?」と思っても、確かめる術がない。帰りに何か買って来てほしくてもダメ。そもそも、いつ帰ってくるのかもわからない。何だかとても変な感じだ。

その変な感じは、娘と待ち合わせをしたときにも味わった。夕方6時に銀座三越のライオンの前。ちゃんと見つけられるだろうか? ケータイを持っていたなら、おそらく「今どこ? 間に合う? ママは5分ぐらい前に行ってるから、遅れないでね」などと言っていたはずだ。

ところが今は、娘は朝、家を出たきり。その後、どこでどうしているものやら。そこで再び思う。「昔はいつもこうだったんだ」と。そして、娘がちゃんと5分前にライオンのところに現れて初めて、ああ、ケータイなしでも何の問題もないのだと気付く。今、私たちはケータイのせいで、必要のない会話やメールばかりを、大量に交換しているようだ。

ケータイの普及で私たちの習性は決定的に変わってしまった

そういえば、皆がケータイを持つようになって、待ち合わせの約束は、かなりいい加減になった。そこら辺まで来て、皆がおもむろにケータイを取り出し、「どこにいる?」と始まる。いい加減なのは場所だけでなく、時間もだ。ちょっと遅れるなら、電話すればいいと思っている。

「すみません。3分ほど遅れます」。3分遅れるのに、ちゃんと連絡するから几帳面かというと、それは違う。ケータイが無ければ、おそらく3分遅れず、ちゃんと、決められた場所に、決められた時間に行っていただろう。私たちは、ケータイのせいでルーズになった。

ときどき友人たちと山へ行くが、予定した電車に乗り込む直前、ケータイでの通話が縦横無尽に行き交う。「どこに乗ってる?」ならまだわかるが、「今、向かってる」とか、「もうすぐ着く」などというメールが来るので、どこで誰が何をしているかはよくわかるが、しかし、考えてみれば、そんなことを知る必要はない。本来ならば、何時の電車の何両目と決めれば、ことは済むはずだ。

電車に乗ると、8割方の人間が、ケータイやスマホを操作しているが、彼らの多くも、書いても書かなくてもよいことをドシドシ四方八方に送信しているのだろう。「もうすぐ新宿」とか、「昼に食べたかつ丼はうまかった」とか、「今日は寒いね」とか。だからだろう、ときどき、ケータイの森の中で独り本を読んでいる人がいると、孤高を楽しむ姿を見たように新鮮な気分になる。

思い返せば、ケータイを皆が当たり前のように持ち始めたのは、それほど昔のことではない。ここまで普及したのはせいぜいここ15年ぐらい? それはさらに進歩し、今はスマホ、そして、タブレット。この短期間に、私たちの習性は決定的に変わってしまった。

かような物が無かったころ、私たちは電車の中では、本を読むか居眠りをしていた。どこかへ行くときは、事前に行き順を調べて家を出た。皆で集まって歓談している最中に、誰かが取っかえ引っかえスマホを取り出して、そこで話されていることが正しいかどうか確かめてくれるなどという煩わしいこともなかった。

そういえば、インターネットが普及してきたときも、いろいろなことが変わった。原稿を書くときの調べ物は、いたって簡単になり、仕上がった原稿は、原稿用紙1枚分でも、本1冊分でも、数秒のうちに地球の裏側にまで送れるようになった。だから、それ以後だんだん、私は旅先までノートブックを持ち歩き、普段と同じニュースを読み、普段と変わらず仕事をすることになった。

今ではノートブックを持ち歩く人は少数で、人々はスマホを持ち、それでたいていの用は足りる。ただ、スマホは長々と文章を書くのには不向きなので、皆が挙ってコピーライターのように簡潔な文章を書くようになった。でも、なんだか電報のようで、どれを読んでも味わいはない。

私たちは文章が徐々に退化していく渦中にいる

最近、ドイツで国語の教員の養成に携わっている人に話を聞いた。ギムナジウムの国語の教科書から、長文のテキストが減ったという。20年前に比べて、テキストは細切れで、その代わり、挿絵が増えた。だから、将来、国語の教員になる学生でも、長文の読解力が落ちているのだそうだ。国文専攻の学生でさえそうなのだから、他の学部は言わずもがなだ。

ならば、もっと長文のテキストを復活させればいいと思うのだが、彼に言わせれば、そう簡単な話ではないらしい。教育というのは、私たちが思っているよりもずっと鮮明に、社会を反映している。教科書の内容と社会の傾向が密接な関係を保っているところは、鶏と卵の関係のようだという。

つまり、今の社会は、すでに長いテキストを必要としていない。いうなれば、文章が徐々に退化していく渦中に、私たちはいるのだ。社会の変化というのは、おそらくこういうふうに、ありとあらゆるところで、いろいろなものが少しずつ形を変えていくことによって、誰も気づかないうちに、粛々と進んでいくのかもしれない。

テキストといえば、教科書やら本のように紙で読む物と、パソコンやスマホなどディスプレーで読む物の違いも大きい。少なくとも私にとっては、大きい。情報を得るための読書はディスプレーでもいいが、文学的なものは紙でなければ私の頭には入らない。単に慣れの問題かもしれないが、私にとっての読書は、指先に触れる紙の感触までが含まれているような気がする。

ケータイに話を戻すと、昔は、家族が外に出てしまえば、何が起こっているかが全然わからなかったということが、今の私たちには、何となく信じがたい。森鴎外がドイツに留学した頃など、船が見えなくなったら最後、その消息はほとんど分からなかったわけだ。

それから戦争も。生きて帰って来るかどうかわからない夫や息子を送り出し、その後、何の消息も知ることができないという究極の心理状態を、私は想像することさえできない。昔の生活は、今よりもずっと緊張感のあるものだったのかもしれない。

今は、誰がどこにいようが、その動向は、知ろうと思えば逐一知ることができる。ただ、だからといって、家族のきずなが強くなったかというと、全然そんな感じはしない。人々の間のコミュニケーションの量は極端なまでに増大しているのに、それらの多くは上滑りしている。ドイツ-日本間は12時間。出会いも別れも、たいした感動は伴わない。現代生活に本当の緊張感はない。

最近のコンピューターの見本市で、スマホでお料理レシピを選ぶと、その材料が揃っているかどうかを調べ、ない物を勝手に注文してくれるという賢い冷蔵庫が紹介されていた。料理は誰がするのだろうか?

そういえば、昨今、電化製品は、どんどん頭がよくなっており、私などなかなかついていけない。パソコンはもとより、車も、ケータイも、洗濯機も、使っていない機能がたくさんある。

先日、新しく買ったエアコンも大変頭がよく、部屋に人がいると作動し、いないと出力が落ちる。節電にはもってこいだ。

ところが、早朝、いつものように部屋の隅でじっと原稿を書いていたら、寒くて手が冷たくなった。見ると、エアコンは私がいないと思って休憩しているではないか。「こら、私はここにいるのよ!」と立ち上がると、慌てて動き始めたが、このエアコンはあまり頭がよくないようだ。

[現代ビジネス]

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Posted by nob : 2014年02月28日 19:37