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そのとおり!!!Vol.38/その時々の揺らぎを感じてとる直感力と、相手の立場や状況を想い量る想像力の問題。。。

■生きている人はみな「揺らぐ」存在なのだ

訪問看護師のmina

生きているという事は「揺らいでいること」に他ならない。私達はある一定の恒常性を保ちながら常に振幅している存在なのである。調子の良い時もあれば、悪い時もある。それは、体も心もそうだし、自分の成せるパフォーマンスにおいても常にそうだ。

例えば私は医療者として、すべての患者さんやご家族に120%のパフォーマンスのケアを提供できるかといえば、必ずしもそうではない。正直に言うがそうではない。いくらコンディションを整え万全にして仕事に備えても大小の差こそあれ差が出る。機械のようにはいかない。

ケアを提供する側もそうだが、受ける側も人間なのでそれぞれ調子の良い時も悪い時もある。そのお互いのタイミングがうまく合わない時だってある。となると問題はいかにお互いを許し合えるか、ではないのか?

最高のパフォーマンスのケアだけを提供し続けることはできない。ケアする側だって歳もとるし、そうなれば技術だって衰える。でも、その提供できるケアの質の揺れ幅を少しでも小さくするように努力することはできる。そのために骨を折るべきだ。そしてあとはお互いに許し合える関係性を築く事が大事なのだ。

「ミスは必ずあるもの」として過誤を定義し、リスクマネジメントの研究をするのも無駄ではない。でも、私が感じるのは「人同士の関係性をいかに育むか」という点にもっと着目して考えていきたいと思う。「ミスありき」に対して予防線をいかに張るか?だけではないのだ。

人というのはもっとファジーな存在であることを、みんなどこかに置き忘れそうになっているのではないかと思う。

「〇〇でなければならないし、私達は絶対そうするべきだ」、「〇〇なんて許せない」と思う前に、本当にそうなのか今一度考えてみる必要があると思う。人が人である限り、いつも揺らぎながら生きている。その事をもっとお互いに認め合えるような関係性を築き上げていく事こそが大切なのである。「強い心」だけではなくて、そこに「深い思いやり」がお互いになくてはならないのだ。

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Posted by nob : 2014年04月10日 22:17