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また旅立つ君へVol.38/人は、何時からでも何処からでもやり直し、また新たに始められる。。。Vol.2

■「自分は変わりたい」と言う人が、
実は「変わらない」と決心をしているのはなぜか

鼎談(後編)
宮台真司[首都大学東京教授/社会学者]
神保哲生[ビデオジャーナリスト/ビデオニュース・ドットコム代表]
岸見一郎[哲学者]

人はなぜ変わりたいのに変われないのか? その背景には、実は変わりたくないという自らの決意があるとアドラー心理学は喝破する。それはなぜなのか。昨今の若者に増えている「本当の自分・仮の自分」という意識の分析も交え、社会学者・宮台真司氏、ジャーナリスト・神保哲生氏、『嫌われる勇気』の著者・岸見一郎氏が熱く語り合う! インターネット放送番組「マル激トーク・オン・ディマンド」特別ダイジェスト版の後編を大公開!

人はなぜ不幸であることを
自ら選ぶのか?

神保 『嫌われる勇気』は哲人と青年の対話という形を取っていますが、その最初のほうで「人は変われる」のだと哲人が断言するところがあります。それに対して青年が、変わりたくても変われない人がたくさんいると言う。すると哲人が、「変われないでいるのは、自らに対して『変わらない』という決心を下しているから」だと言うんですね。一生懸命変わらないと決心しているから変われないんだ、と。これはどういうことか教えて頂けますか。

岸見 今とは違う自分になってしまうと何が起こるか予測できなくて怖いのです。だから変わりたいと言っている人は実は変わりたくない。変わってしまったら次の瞬間何が起こるかわからないので、不断に「私は変わらないでおこう」という決心をしているんです。もし変わりたいのであれば、変わらないでおこうという決心を解除する必要がある。そしてそれは非常に勇気がいることです。

神保 その変わらない決心というのは自覚的ではないのですか? 自分としては変わりたいなぁと思っているわけですから。

岸見 自覚的ではないでしょうね。そういうことを言われて生まれて初めて気づくかもしれない。「あなたは変わりたくないんですね?」と言われて、「あ、そうなんだ」と気づく人は気づきます。それでも気づかない人、あるいは気づきたくない人はいるかもしれません。

宮台 前回トラウマはあるのかという話になり、トラウマのせいで自分にはできないのだと免罪をする癖を問題にしました。トラウマを持ち出す人は、そのことによって「自分が本当の自分だと思っているもの」を擁護し、「自分は変わりたくない」と宣言しているのだ、と。
 僕は札幌を中心に久しぶりに風俗の取材を進めていますが、インテリ系の風俗嬢に目立つのは、第一に「トラウマの意識」、第二に「真の自分と仮の自分」です。そこには「トラウマを被った真の自分は、とても傷つきやすく人前に出せないから、私は仮面で人に接する」という意識があります。
「仮面なら、真の自分を隠せるから、自由になれて、できなかったことができる。それが風俗労働だ」という理解が典型です。僕は介入的だから、「それって変。真の自分とかトラウマって何? そうやって『真の自分』とやらを温存したら、永久に変われないし、トラウマも消えない」と言います。
 実際、放っておくと変われません。そうやって25歳になり30歳になり35歳になるのは傍目に悲惨です。過去の引力ではなく、未来の引力に身を委ねればいい。未来に実現したい最終目的は、自分でどうとでも定められるから、それ次第で「自分は思っていたような自分じゃなかった」となれます。
「自分は思っていたような自分じゃなかった」という気づきを何度か経験すれば、岸見先生のおっしゃる「変わらない決意」を、「あれは何だったんだろう」という具合に過去のものにできます。そんなふうに過去は横に置き、最終目的に由来する未来の引力に開かれればいい。
 僕がよくする言い方は、「君はトラウマを持ち出して自分を変えないことで、利益を得ている。それはわかる。でも、君が本当にありたい自分になるという大きな目的に照らして、有限な時間をそんな小さな利益のために使っていいのか」というものです。
 トラウマの多くは「親への恨み」つまり「親が別の振る舞いを選択してたら自分はこうならなかった」という思いと結合します。そこで親と対決して「別の選択ができなかったのか」とぶちまければ、たいてい親の反応は期待外れだから、「親に別の選択肢なんてなかった、親はこんなにも小さかった」となります。
 実際、1980年頃のアウェアネス・トレーニング(日本でいう自己啓発セミナー)は、前半にフロイト的なトラウマ概念を用いた「過去を赦す」セッションがあり、後半にアドラー的な大きな目的概念に照らして「今を感じる」セッションがありました。そんなふうに、過去の引力と未来の引力を関係づける仕方もあるのですね。

神保 やはりトラウマがあると思っていることが根っこにあるんですか? トラウマがあるから今自分はこうなっているというのは、アドラーが最も否定するところですよね。そこが大きな分かれ目になってしまう?

岸見 カウンセリングでは必ずしもトラウマという言葉は出てこないです。ある種の人たちはそう言うかもしれませんが、普通の人の話題には出てこないですね。ただ、本当の自分とか仮の自分という言い方は、病気とか心の傷の文脈を離れてもあります。たとえば「ついカッとして」というのは、本当の自分はついカッとするような人間じゃないんだと言いたいわけです。
 アドラー心理学のことを本来は個人心理学と言いますが、個人というのは英語で言うとインディヴィジュアルです。これは「分けることができない」という意味です。何が分けられないかというと、意識と無意識、感情と理性、身体と精神など、そういったあらゆる二元論にアドラーは反対するわけです。つまり、分割できない全体としての人間を扱う心理学ということです。その流れで今の宮台さんの話を見れば、本当の自分と仮の自分なんてあり得るわけがないことになりますね。「この私」しかないということです。

神保 その延長になると思うんですが、「あなたの不幸はあなたが選んでいるものだ」ということが『嫌われる勇気』には書いてあります。しかし、わざわざ自分で選んで不幸になるわけがないじゃないかと青年も怒っていましたが、これはどういうことでしょうか?

岸見 こういう言い方をしていいかわからないですが、不幸であることが自分にとって有利だと考える人は不幸であることを選ぶ、ということです。不幸にはいろいろな意味がありますが、たとえば病気であれば周りの人は腫れ物に触るように付き合わなければいけないわけです。本当は病気から解放されて元気になりたいのだけれど、病気で弱っているときのほうが皆が良くしてくれる。であればどちらを選ぶかというと、不幸のままのほうを選ぶ人もいるというようなことですね。

神保 うーん。それはあらゆる場合にそうなんでしょうか? 明らかに恵まれない境遇に生まれ育つ人もいますよね。であれば、いくら何でも自分の場合は不幸を選んだなんて言われたくない人もいるのでは?

岸見 いや、境遇の問題ではないのです。どんな貧しくて一般的には不幸な境遇に生まれたからといって皆が不幸になるわけではありません。

神保 たしかに心の問題ですよね。

岸見 逆に裕福な家庭に生まれても不幸な人は不幸じゃないですか。ここでギリシア哲学の話をしますと「ソクラテスのパラドクス」として知られる、「人は誰もが悪を欲しない」ということがあります。でも、悪を欲しないと言っても、世の中には不正を犯す人だっていっぱいいるじゃないかと思いますよね。政治家なんて皆そうじゃないかという人もいます。しかしギリシアの、もっと言うとプラトンなのですが、プラトンが悪とか善という場合、そこには道徳的な意味は全然なくて、悪は「ためにならない」ということなのです。で、善は「ためになる」ということです。
 そういう意味として「人は誰もが悪を欲しない」という言葉を振り返ってみると、誰も自分のためにならないことは欲しないということになります。考えてみれば当たり前のことです。ただ、何が自分にとってためになるかならないかという判断を人間は誤ることがあるのです。私は不幸が自分のためになるとは思わないですしアドラーも否定するでしょうが、不幸であるほうが自分にとってためになる・善であると判断した人は不幸であり続けるのです。そういう意味では自分で選んでいるとしか言いようがありません。

過去に対する意味付けが
我々を縛る

神保 あなたの不幸はあなた自身が選んだとすれば、それを変えるにはどうすればいいかですが、『嫌われる勇気』では「交換ではなく更新」ということが書いてあります。これはどういう意味でしょう? 不幸の問題とどう関わってくるんですか?

岸見 人は全く突如として別人格にはなれません。たとえば、消極的な人が一夜にして脳天気な積極的な人になるのは難しいでしょう。ウィンドウズを使っていた人が今すぐMacに変えるのも難しいわけですが、OSのバージョンアップならできますよね。そういう変化ならあり得ます。私が全くこれまでの私でなくなるわけじゃないけれど、中身を変えてしまうというか、自分についての意味付けを変える、あるいは世界に対する意味付けを変えることはできます。私は私なんだけれど、それまでとは異なる世界に住み、全く違う自分を見つけ出す、更新とはそういう意味です。

神保 要するに、過去に起きたことは実際には今の自分と関係ないんだけど、それに自分がどういう意味を与えるかで縛られている、と。本によれば、原因論と目的論という言葉が関係しているようですが、そのあたりも説明をお願いします。

宮台 これはアリストテレス的な話ですね。

岸見 ではアリストテレスで説明しましょうか。アリストテレスは事物が生成するためにはいくつかの原因が必要だと説いています。たとえば彫像をつくることを考えてみましょう。まず大理石とか粘土などの素材がなければ彫像はできません。これを「素材因(質量因)」と言います。次に彫刻を彫る彫刻家がいないといけません。これは「作用因」と言います。さらに、彫刻家の頭のなかにどんな像を彫ろうかというイメージが必要です。これは「形相因」と言います。ではその3つがあれば彫刻はできるかというとそれだけでは無理です。何のためにこの彫刻をつくるのかという「目的因」がなければなりません。像をつくって飾り物にするとか、売ってお金儲けをするとか、そうした目的がなければ絶対に彫刻はできないのです。
 プラトンも師のソクラテスに関して似たことを言っています。ソクラテスはご存知のとおり死刑になります。あれもひどい話ですよね。若者を扇動して害悪を与えたということで処刑されるのです。で、彼は獄中にずっと留まっているのですが、当時の慣習ではお金さえ出せばいくらでも脱獄できました。でも彼は頑としてそれを拒否したのです。私が今ここに座っていることの原因は、たとえば筋肉や腱の仕組みから説明できるけれど、私がここに留まっていることを善しとしている(先ほどの善の話です)から、ここに留まるのだ、と。もし脱獄することが自分にとってためになる、つまり善であると判断するならたちどころに外国に逃げているだろう、と。この後者の原因をアドラーは目的と呼びます。目的があればこそ人は動き出すのだ、と。だから周りの原因だけをいくら詳細に論じても人間の行動の意味を理解することはできないというわけです。

神保 これは過去のことも含めての原因ということですね。過去がどうこうではなく、それに我々がどのような意味を与えているのかが我々を縛っていると。何となくわかる感じもするんですが、もうちょっと説明が欲しいかなと。

岸見 過去だって変わるんですよ。実際には。昔のことだから変わらないと皆さん思っているのですが、過去の意味付けさえ変えれば過去は変わります。たとえばカウンセリングで、できるだけ生まれて間もない頃の記憶を思い出してもらうことがあります。「早期回想」と言って、治療の場面でよく使います。昔のことを話して下さいと言うとほとんどの人はそれほど警戒せずに喋ってくれます。どんな短い断片的な思い出でもいいから話して下さいと言うと話してくれるんですね。
 で、ある男性が小さいときのことを話してくれたんです。彼の幼少時はまだ街に野良犬がいるような時代で、彼のお母さんが「犬はあなたが逃げたら追いかけてくるから、出会ったらじっとしていなさい」と言ったと。そしてあるとき友達と連れ立って歩いていたら向こうから大きな犬が来たそうです。で、友達はパッと逃げたけれど、自分は母の言うことを守ってそこに留まっていたと。何が起こったかというと、その犬に足をガブリと噛まれたそうです。
 回想はそこで終わっているのですが、少し考えればわかるように、実際はそこで話が終わるわけがないですよね。次のストーリーがあるはずです。あるのだけれど、彼はその時点では思い出せない。なぜかというと、今現在の彼が「この世界は危険なところだ」と思っているからなのです。あるいは周りの人はすごく怖い人でうかうかと信用してはいけないと考えている。だからその先のストーリーが思い出せなかったんですね。
 けれど、カウンセリングが回を重ねるなかで、「人々は私の仲間である」と思い始めた彼は、あるカウンセリングのときに「あの次のストーリーを思い出しました」と話し始めました。過去自体は変わりません。だから噛まれたところまでは同じです。けれど、そのときにたまたま自転車に乗ったオジサンがやってきて荷台に載せて病院まで連れて行ってくれました、と。これだと全く違うストーリーになりますよね。彼の過去は、犬に噛まれた点は変わらないとしても、意味付けは全く変わるんです。すっかり違うものになるでしょう。意味付けというのは、そのように理解するとわかりやすいと思います。

宮台 経験に与える意味に関して、アリストテレスに照らせば、フロイトのトラウマ概念が作用因、アドラーの目的概念が目的因に当たるという話が出ました。それを理解するために僕の経験を話します。僕は本を書く際、読者にミメーシス(感染的摸倣)を与え、内発性を呼び覚ますことを意図します。
 すると、多くの読者は「僕のようになろう」と目標を立てます。でも人はそれぞれリソースが違うから、必ずしも僕ができたことができません。すると、自罰的なるか、他罰的になって僕を恨みます。これは間違った展開で、「僕のようになろう」という設定に目標混乱があるんです。
 目標混乱はまずい。「僕のようになろう」と思う理由を考えることで、本当の目標つまりアリストテレスの最終目的──第一原因(究極原因)の対概念──に気づけます。最終目的に照らせば、「僕のようになる」ことは手段に過ぎず、「僕のようになる」ことが効果がなければ別の手段に取り替えなければならない。
 岸見先生のおっしゃる「経験に与える意味は目的との関連で決まる」とはそういうことです。「僕のようになろう」としてうまくいかず僕を恨む人は、「僕のようになろう」としたのが「最終目的のための手段」に過ぎず、取り替えが効く事実に気づけば、僕を恨むという「宮台からの呪い」から自由になります。
 トラウマに象徴される「過去からの呪い」と、人への恨みに象徴される「他者からの呪い」から自由になるには、アリストテレス的な意味での最終目標をイメージする力が重要です。それが岸見先生のおっしゃることのポイントです。最終目標を設定して「経験に意味を与える」のは、僕たち本人です。

人は自分にとって
都合が良い過去をつくる

神保 過去の経験のなかには、明らかに客観的な事実というのがありますよね。たとえば犬に噛まれた事実というのは変わりようがない。しかしそのことの意味をどう与えるかで、すべてが変わるということなのでしょうか?

岸見 同じように噛まれたからといって、皆が同じようにはならないし同じような解釈はしないですよね。痛いことに変わりはないかもしれない。けれど今から過去を思い出したって、痛みは今はないじゃないですか。過去の痛みは今の痛みじゃないのです。でも痛かったと思いたい人と、そんなに痛くなかったと思いたい人は出てくるかもしれない。ただ、より大事なことは、私を助けてくれた人がいたということです。それを思い出したというのは、もはや過去が変わったと言ってもいいくらいだと私は思います。

神保 やはり過去の経験に与える意味によって、過去自体が変わってしまうと。

岸見 そうなんです。ただ私は最近、本当は客観的事実なんてないのではないかとちょっと思っていまして(笑)。私の父が認知症になって長く介護をしたのですが、二人で話しているなかで、私が過去にこんなことがあったと言うと、父はそんなことはなかったと言うわけです。この場合、その出来事が本当にあったかどうか証明できるかというと、すごく微妙な問題だと思います。複数の人が証言していればいいですが、二人しか知らないことで片方がそんなことはなかったと言えばわからないですよね。父に殴られたという話を『嫌われる勇気』にも書きましたが、それさえ本当かどうか今となってはわかりません。

神保 そのように先生が勝手に思い込んでいるのかもしれないと。

岸見 そうです。父との関係が悪くなって、看病していたときも悪くて、だから父との過去の記憶は無数にあるはずなのに、関係が悪かった事例を引っ張り出しているだけではないかと。

神保 そういうのは実際の記憶にも影響してしまうんですか? 先ほどの犬に噛まれた後のことを思い出せなかった例もそうですが、世界観が変わったことで記憶の中身自体も変わるということですか?

岸見 そうですね。何を思い出すか、何を忘れるかということは、まったく無原則ではないはずです。それは大脳の説明だけでは済まないことでしょう。私の認知症の父を見てもわかるのですが、意味があることは覚えているけれど、思い出したくないことは忘れるのです。

宮台 社会心理学には「認知的整合性理論」と呼ばれる理論系列があり、ハイダーの認知的バランス理論やフェスティンガーの認知的不協和理論が有名です。これは、人はなぜピアプレッシャー(仲間からの圧力)に負けるのかを説明する際にも使えますが、何を記憶として思い出せるのかというときにも使えます。
 例えば、父親が東電の社員であるような息子や娘は、原発災害による放射能被害を小さく見積もりたがります。つまり、複数の認知的要素が価値的に整合するように、認知を歪めたり、記憶から外す傾向が、人間にはあります。その結果、現在の認知的フレームに整合しないものは、思い出しにくくなります。

神保 思い出しにくいってことは、なんか引き出しの順番みたいなものがあるってことですかね?

岸見 いや、もっと唐突なものですね。

神保 でも忘れてしまうわけではないんですよね。

宮台 心のどこかにはあります。岸見先生の犬の話は、中国の言い方では「人間万事塞翁が馬」、日本の言い方では「終わりよければすべてよし」に関係します。ところが「どこが終わりなのか」を主観が決めています。噛まれた話で終わったらバッドエンド、おじさんが助けてくれた話で終わったらハッピーエンド。
 でも、これは脳がどこまで思い出すかをランダムに決めているのではありません。自分がどんな現在的リアリティを生きているかによって、思い出のストーリーの終わりをどこに設定するのかが変わるのです。変わる理由は、脳に認知的整合化を行う機能があるからです。脳の機能に注目する必要があります。

神保 それは先ほどの話にもあったように、そのほうが自分にとって都合が良いから、そのようにつくっているということなんですね。

人生の自由を獲得するための
代償とは?

神保 いろいろ話をお聞きしてきましたが、この『嫌われる勇気』というタイトルと、本の帯にある「自由」というのはどのようにつながってくるんでしょうか。そのあたり最後にお聞かせ頂けますか。

岸見 人に合わせていると誰も自分を嫌わないんですよ。八方美人になっているということです。でもそういう人の生き方は非常に不自由だとアドラーは考えます。自分の周りに自分を嫌う人が一人もいない人は、不自由な生き方をしている。逆に、自分のことを嫌う人がいるとすれば、その人は自由な生き方をしている。もっと言えば、それは自由に生きていることの証ですし、自由に生きるためにはそれくらいは払わなければならない代償だと考えます。

神保 でも、自分を嫌う人がいるというのはストレスになりますね。

岸見 うーん、なりますかね? 私はそうは言わないです。

神保 そのようになってみないとわからないということですか?

岸見 そのように思えない人たちはすぐには変身しないでしょう。Facebookですぐに「いいね」を押さないと嫌われると思うわけでしょう。そんなことやってみないとわからない。でも、一度もしたことがないことはできないんですよ。

神保 それも勇気がいるということですね。

岸見 ただ、生きるか死ぬかという話ではないわけですから、さしあたり1週間Facebookを休んでみるくらいのことはできるかもしれない。1週間が無理なら2日だっていいんです。それでどんなことが起こったかを見るようなお試し期間を設けることならできるでしょう。

神保 でもそれで実際に友達の輪から外されたりする人も出てくるかもしれないですね。そういう相談があったらどうされますか?

岸見 カウンセリングなら、それは良かったじゃないかと言いますね。何が良かったんですかと聞かれたら一緒に考えますよ。悪いことばかりじゃないはずです。朝から晩まで、お風呂に入るときまでSNSを見ているわけでしょ、若い人って。でもそんな生活から自由になれたならすごく楽になったと思わないですかと、僕はそんなことを言うと思います。

神保 なるほど、スマホ症候群ってやつですね。

宮台 ちなみに、僕はカウンセラーではないので、相談事を持ち込む学生や取材などで会った人にアドラー的なメッセージを語って、けっこう嫌われます(笑)。「カウンセラーは『君が悪いんじゃない』と言うだろうが、自分で選んでいるんだから君が悪い」と言うと、「もうお前とは話さない」みたいになる。

神保 冷たいよね、とかね。まぁ仕方ないよって言ってあげたほうが相手は喜びますよね。

宮台 僕は「仕方ないよ」とは絶対言いません。何だってやりようはありますから。最近も若い人に「未来に実現したい幸せをイメージして、それを目的にすれば、いろんなことができるよ」と言ったら、「それは恵まれた人が言うことで、自分みたいにトラウマを抱えた人間には無理です」と言われました。

神保 しかもトラウマなんてないっていう話ですからね。それを、自分でトラウマを絶対的なものだと思っている人に言うわけだからね。

宮台 その際「それは言い訳だ。変わりたくない人はトラウマを持ち出す。新しい目的に沿って新しいことをしてみれば『自分は思っていたような自分じゃなかった』となって、ますます新しいことができる」と言って、また嫌われる。僕は短時間の1回しかコミュニケーションできない場合、嫌われても言います。

岸見 そういう場合、カウンセリングだと戻ってくる人もいるんですよ。何年か掛けてね。

神保 やはり先生の言うとおりでしたみたいな感じですか?

岸見 そうですね、ただそういうのは本人に任せるしかないので、こちらからまたおいでとは言わないです。

神保 先生はアドラー心理学のカウンセリングとしてそのようにやってらっしゃると思うんですが、他の流派だとどうなんでしょうか?

岸見 それはわからないですね。もしかするともっと熱いかもしれません。私は自分が冷たいとは思いません。自分では「涼しい」と言っていますが(笑)。ただ、それくらい距離がないと問題は解決しません。カウンセラーも同じように悩んで巻き込まれてしまっては、カウンセラーと患者さんが共依存になってしまいます。だから、カウンセラーも患者さんに嫌われる勇気を持たないと無理だと思います。
 実際の私は、かなり悩むほうですよ。すごく患者さんのことを心配するし関わりたいとは思うけれど、でもやはり距離を置かないとしんどいです。別にその人を切り捨てるつもりは全くないですし、なんとか力になりたいと思っているのが基本なんですが。

なぜ自己のホメオスタシスを
崩す勇気が持てないのか

神保 宮台さん、ここまでのところでもっと深掘りしておきたいこととかありますか?

宮台 僕にとって10年以上前に岸見先生にお会いしたことが重大な転機になっています。岸見先生の『アドラー心理学入門』を読み、僕自身も若い頃にアドラーの強い影響下にある自己啓発セミナーのトレーニングを受けていたことがあって、それが何だったのかをアドラーの枠組みで位置づけ直しました。
 その上で、僕が本や講演で使ってきた概念やフレーズにどう対応するのか考えました。そのプロセス抜きでは僕が今やっている性愛ワークショップも政治ワークショップも成り立たない。だって、いろんな理由を持ち出して「できない」と悩む人が来るんだから。「あなたは悪くない」じゃ話になりません(笑)。

神保 なるほど、やりたいけどできないって言う人に「実は君はやりたくないんだよ」って言うんですね。

宮台 これは優先順位の問題です。本人はやりたいと言うし実際やりたいのだろうが、実はそんなに優先順位が高くない。代わりに「モテたいのにモテるための努力ができない理由は、そういうことだったのか」と納得することのほうが高い優先順位だったりする。その意味では「さしてやりたくない」んです。

神保 やりたいと言っているのにね。岸見先生、なぜ人はそれに気づかないんですか? 実はモテたいとかは二番目か三番目の優先順位のことなのに、主観的にはそれが一番したいことなんだと思ってしまう。実はもっとしたいことがあるのに自分はそれに気づかない。なぜそんなことが起きるんでしょうか?

岸見 それはわからないですね。単純明快なことだと思うんですが。

神保 不思議ですね。それは今に始まったことではなく、ギリシアの時代からそうなんですよね。

宮台 僕がサブカルチャー分析で使うキーワードは「自己のホメオスタシス(恒常性維持)Homeostasis of the Self」です。認知的整合性理論とも関連しますが、「自分はこんな人でこういう生き方をする」というフレームやスクリプトを何だかんだと維持しようとする傾向です。アニメや音楽もそのために使われます。
 こうしたフレームが維持され、自己のホメオスタシスが貫徹できれば、人はいろんなものを免除されます。チャレンジの努力も免除されるし、選択できない自分を責める営みも免除される。「トラウマだからできない」とか「自分は然々の性格だからできない」とか。かくして同一フレームに留まることで楽をする。
 本人がどんなに「辛い」と言っていても、自己のホメオスタシスによって免除されることがすごくたくさんあるので、それら免除の利得を手放してまで今の「辛い」状態から逃れたいと思っているかどうか、「辛い」という科白だけじゃわからない。その意味で「辛い」という科白を真に受けちゃいけません。

神保 いま宮台さんがホメオスタシスという言い方で表現したある種のバランスというか、それを崩すことが人間にとってはものすごく勇気がいることだったり、苦しいことだったりするのが背後にあるんですかね。そのことにあまり自分は気づいていない。少なくとも主観的には気づいていないと。

宮台 ただ、ゲシュタルト(全体性)を維持することでさまざまなものを免除される状態を変えたくないと望んでいる事実は、人から言われないと意識できません。なぜなら「あなたのすべての振る舞いは、ゲシュタルト維持という同一の機能に、意図せずして貢献している」という、潜在機能の問題だからです。
 とはいえ、僕のような下手な人が言うと、意識させることは一瞬できるかもしれませんが、「何だこの野郎!」と反発されて、僕自身が自己防衛の対象──いわば敵──になりがちです(笑)。そうなると、僕の言葉は相手に入っていかなくなります。

神保 そこは岸見先生のように色々と技術的に接することが大切なんですね。

岸見 もう一つは、どう変わるかというイメージがはっきりしていないと変われないですね。変わらないでおこうと決心していることまではわかったとしても、じゃあどう変わればよいかがはっきりしていないとどうしようもない。そこは積極的に私も教えます。「カウンセリングは再教育である」とアドラーは言っていますが、これまで知らなかったことを学んでもらう必要があるわけで、ほとんどの人がそれまで実践したことがないようなことばかりです。だから、まずはそれをやってみましょうよと。まぁいろいろ考えはあるかもしれないけれど、まずこれをしてみたらどうですかと提案する。やってみたらうっかり変われるかもしれないわけです。

神保 となると、1週間くらいとりあえずやってみようというのは一つの結論ですかね。いきなり全部変われと言われても勇気が持てないかもしれないので。

岸見 別に元に戻ってもいいんだよと言っておかないと変われないですね。

神保 なるほど。今日は色々と伺いましたが、まだお聞きできていないことも多いのでもう一度おいでいただくようお願いします。最後に宮台さん何かありますか?

宮台 この『嫌われる勇気』がベストセラーになっているわけですが、アドラー心理学の本が日本でこれだけ売れるというのはまったく初めてのことなので、本当に素晴らしいことだと思います。そのことが「あなたは悪くない」と語るカウンセラーを減らすことにつながれば、もっといい。

神保 この本が20数万部も売れているという背景を宮台さんはどう見ますか?

宮台 やはりニーズはあったということだと思います。多くの人たちは「あなたは悪くない」じゃ済まないことだらけという事実を理解するだけの力を持っていて、自分がどんな責任を負うのかを明確にしたいと思っていたということでしょう。

神保 逆に言うと、それだけ嫌われることにビクビクしている人たちがたくさんいたということなんでしょうか?

宮台 そう思います。「その場の切り抜け」と「最終目標の現実化」を切り分けて優先順位が付けられず、右往左往しがちです。ただし、そうした人じゃなくても、この本は読む価値があります。「変わりたいけれど変われない」とこぼすすべての人に意味がある本だと思うので、ぜひ読んでいただきたいです。

神保 では、今日はありがとうございました。次回またよろしくお願いします。

岸見 こちらこそありがとうございました。


岸見一郎(きしみ・いちろう)
哲学者。1956年京都生まれ、京都在住。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学。専門の哲学(西洋古代哲学、特にプラトン哲学)と並行して、1989年からアドラー心理学を研究。精力的にアドラー心理学や古代哲学の執筆・講演活動、そして精神科医院などで多くの「青年」のカウンセリングを行う。日本アドラー心理学会認定カウンセラー・顧問。訳書にアルフレッド・アドラーの『個人心理学講義』『人はなぜ神経症になるのか』、著書に『アドラー心理学入門』など多数。古賀史健氏との共著『嫌われる勇気』では原案を担当。

宮台真司(みやだい・しんじ)
首都大学東京教授/社会学者。1959年仙台生まれ。東京大学大学院博士課程修了。東京都立大学助教授、首都大学東京准教授を経て現職。専門は社会システム論。博士論文は『権力の予期理論』。権力論、国家論、宗教論、性愛論、犯罪論、教育論、外交論、文化論などの分野で著書多数。主な著作に『制服少女たちの選択』『終わりなき日常を生きろ』『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』『14歳からの社会学』『日本の難点』『「絶望の時代」の希望の恋愛学』などがある。宮台真司オフィシャルブログ

神保哲生(じんぼう・てつお)
ビデオジャーナリスト/ビデオニュース・ドットコム代表。1961年東京生まれ。コロンビア大学ジャーナリズム大学院修士課程修了。AP通信記者を経て93年に独立。99年11月、日本初のニュース専門インターネット放送局ビデオニュース・ドットコムを設立。著書に『民主党が約束する99の政策で日本はどう変わるか?』『ビデオジャーナリズム―カメラを持って世界に飛び出そう』『ツバル-地球温暖化に沈む国』『地雷リポート』、訳書に『食の終焉』などがある。ビデオジャーナリスト神保哲生のブログ

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Posted by nob : 2014年05月20日 17:25