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また旅立つ君へVol.39/人は、何時からでも何処からでもやり直し、また新たに始められる。。。
■嫌われる勇気──自己啓発の源流「アドラー」の教え
トラウマを否定するアドラー心理学が
今なぜ多くの人に求められているのか
鼎談(前編)
宮台真司[首都大学東京教授/社会学者]
神保哲生[ビデオジャーナリスト/ビデオニュース・ドットコム代表]
岸見一郎[哲学者]
社会学者の宮台真司氏とジャーナリスト神保哲生氏が司会を務めるインターネット放送番組「マル激トーク・オン・ディマンド」に、『嫌われる勇気』の著者・岸見一郎氏がゲスト出演した。いまなぜ、日本でアドラー心理学がこれほどまで注目されているのか、その原因をさまざまな角度から徹底的に議論した放送内容を、特別ダイジェスト版として2回に分けてお送りする。前編ではアドラー心理学とは何か、そしてなぜ日本ではこれまで無名だったのかを深く掘り下げる。
ソーシャルメディアの台頭と
嫌われたくない若者の増加
神保 本日はアドラー心理学の日本の第一人者であり、いま『嫌われる勇気』という本が27万部のベストセラーになっている哲学者の岸見一郎さんをゲストに招いています。まず宮台さん、この本がこれだけ売れているのはソーシャルメディアとも関係あるのではということなのですが、それはなぜでしょうか?
宮台 ソーシャルメディアについては、僕が「脳内ダダ漏れ現象」と申し上げているように、本来なら人に見せないような心の内を、無防備なまま書くという傾向が一般に強く、それで人間関係が壊れることも頻繁にあります。
そうしたものがある一方、最近「既読プレッシャー」と呼ばれますが、「相手方に既読マークが見えているのに返事を書かないのはまずい」「すぐに返事を書かなきゃ」といったオブセッション(強迫)があります。
LINEの利用率が半数近くになる昨今、もともと日本人のコミュニケーションにありがちな過剰同調が、ソーシャルメディアの存在ゆえに増幅されています。そうした状況でどんな波及的な事態が起こるかが大きな問題なんです。
「KY(空気が読めない)」という言葉に象徴されることですが、KYだと思われないように絶えず意識しながらポジションを取ることが、以前にも増して重要になっているんです。そのご褒美が、Facebookなら「いいね」。
要は、KYだと思われることなく、承認してもらいたい、というわけです。実際はそんなもの承認でも何でもないけれど、昨今の若い人たちはいったい何を勘違いしているのかという問題があります。
ソーシャルメディアの普及を背景に、KYフォビア(恐怖症)や承認オブセッション(強迫)が異様に高まり、不自由が蔓延しているのが昨今です。そのことへの気づきがようやく拡がって、この本が売れるようになったんでしょう。
神保 「SNS疲れ」なる言葉もあるそうだし、今の時期は「5月病」的なものも出るシーズンでもあるということで、それらも想定して今日のゲストをお招きしたわけですが。
宮台 この2年間、僕は性愛系のワークショップをしています。彼女・彼氏のステディがいる割合が今世紀に入る頃からどんどん下がっているからです。こうした傾向が目立つようになってから、すでに15年ほど経ちます。
いろんなリサーチが示すところによれば、昨今の20歳代独身男性は7割が「将来結婚できない」「将来結婚したくない」と答えます。独身女性もこの傾向を追いかけています。対人関係が構造的に変動しているんです。
特に女子の場合、この5年ほど、つまり2010年代に入って顕著になったのは、「ビッチ」というキーワードです。友だち関係よりも性愛関係を重視する女性を、同性間でビッチ呼ばわりし、それが性愛からの退却を増幅しています。
神保 ビッチって言葉が日本でも普通に出回っているんだ。
宮台 そう。昔は恋人ができれば同性の友だちとは疎遠になるのが普通で、そのことに友だちも寛容でしたが、今世紀に入る頃から違ってきました。友だち間のポジションを失いたくないし、この5年ほどはビッチ呼ばわりを恐れます。
かくして性愛から退却気味になるだけじゃありません。同性の友だちから、「いいね」と言ってもらえない相手(男)を彼氏に選べないんです。自分としてどう思うのか、という感情の発露が閉ざされた状態です。
そういうことも岸見先生との話ではテーマにしたいですね。
日本でアドラー心理学の
知名度が低い理由
神保 なるほど。僕は今日のテーマはとても重要だと思っています。「人は変われる」とか、もっと大きく言えば「幸せとは何か」「自由とは何か」といったテーマです。『嫌われる勇気』という本は、腹にズシンと響くような内容でした。タイトルや帯の「自由とは他者から嫌われることである」というコピーが印象的です。いずれにせよ、アドラーブーム的なものが来そうな予感がしなくもありません。
宮台 今でいうコーチングのルーツは、1970年代半ば過ぎにアメリカで始まったアウェアネス・トレーニング(日本でいう自己啓発セミナー)です。こうした流れのすべてにおいて、アドラー心理学の絶大な影響があります。
ところが、この日本に限っては、アドラー心理学自体の知名度が低すぎるので、コーチングをファシリテイション(推進・実践)する人たちでさえ、ほとんどが、自分たちがアドラーの掌の上にある事実を、ご存じないんですね。
神保 それは驚きです。岸見先生なぜなんでしょうか?
岸見 ひとつは、日本のアカデミズムでアドラーが取り上げられることが皆無と言っていい状態だからです。学校で心理学を専攻するとフロイト、ユングについての講義は受けるのですが、アドラーについては名前と若干の思想を教授が話し、学生は記憶の片隅に置くくらいの扱いですね。まずはそれが大きな原因かと思います。
神保 では、日本のアカデミズムでフロイトとかユングが認知を受けているのに対し、アドラーがあまり普及しなかったのはどのあたりに原因があるとお考えですか?
岸見 アメリカでもやや似たような状況があります。アドラーはウィーンの精神科医ですが、ナチスの台頭に伴って活動の拠点を晩年にはニューヨークに移しました。あるとき、ニューヨークの医師会から講演を依頼されたことがあります。それは精神科の医療にアドラー心理学の考え方だけを採り入れたいという話でした。そこで我々だけにアドラー心理学を教えて欲しいと医師会がアドラーに申し入れたのです。すると「いやそれはできない。私の心理学はみんなの心理学だから」とアドラーは言ったそうです。アドラーの心理学は「個人心理学」と言うのですが、専門家の心理学ではなく、みんなの心理学であるということですね。
同じようなことが日本に紹介された頃にも起こったようです。専門家たちの間で自分たちが優先的にアドラー心理学を学びたいという動きがありました。ところが、日本アドラー心理学会という学会があるのですが、そこは普通の人々、つまり非専門家の集まりだったのです。そうした非専門家と一緒にやりたくないという医療関係者やカウンセラーが初期の頃かなりいたという状況があり、それが最初のつまずきになったのではないかと考えています。
神保 なるほど。僕は心理学とか精神医学の門外漢なのですが、今回『嫌われる勇気』を読ませて頂いて、自分にとって大袈裟に言えば人生の書のように思っているヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』にものすごく多くの共通点を感じたんです。フランクルも心理学者ですが、これは何か接点があったんでしょうか?
岸見 フランクルはアドラーの弟子ではないのですが、のれん分けをしてもらったような感じでしょうか。活動を共にしていた時期があるので、当然、影響を受けているはずです。『夜と霧』はアドラーの考えに近いと私も感じますし、それは偶然ではなく歴史的に見て二人に接点はあったわけです。
神保 やはりそうですか。それで、フランクルの本から多く引用しているのがスティーブン・コヴィーの『7つの習慣』なんですが、やはりそうした人たちもアドラーに通ずるところがあるんですね。
宮台 フロイトもマルクスも19世紀の人です。アドラーもそう。しかしアドラーは19世紀の思想家としては異色です。19世紀は、フランス革命以降の〈反啓蒙の思考〉の時代です。人間は理性的でも合理的でもなく、感情的で非合理的な存在だとします。
そして非合理の理解について〈潜在性の思考〉を展開します。人も社会も、「見えるもの」が「見えないもの」に規定されているとする理解。典型的なものがマルクスとフロイトで、マルクスは、大衆文化から政治思想まで含めた上部構造が、生産関係すなわち所有関係からなる下部構造に規定されるとします。
他方フロイトは、我々の意識は無意識によって規定されるとする。つまり、アドラーが敵視したフロイトは「我々は規定されているがゆえに非合理的だ」とする19世紀的思考の典型です。フロイトを含めた19世紀的な〈潜在性の思考〉は、20世紀、正確には戦間期に入ると、知的先端から否定されます。
具体的には、ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論が典型です。従来、数多ある数学を、論理学(が明らかにする論理)が規定するとされてきました。彼はそれを否定。いろんな数学がまずあり、それを観察するゲームとして論理学がある。論理学が数学を根拠づけるなどあり得ないとしました。
数学という言語ゲームがあり、それとは無関係に、数学を観察する論理学という言語ゲームがある。要は「根拠がある」のでなく「根拠付けのゲームがある」だけ。事物に根拠などなく、さまざまな言語ゲームが存在するという事実性だけがある。根拠なるものは、観察する言語ゲームの内部表現に過ぎないと。
アドラーは20世紀的な〈自己言及の思考〉を先取りします。「見えるもの」が「見えないもの」に規定されるのでなく、規定されているという理解があるだけ。現在が過去に規定されているのでなく、規定されているという理解があるだけ。そんな理解がある種のゲームを可能にしているだけだとします。
知的先端を別にすると、大衆的には19世紀的な〈潜在性の思考〉が残ります。自分が不自由なのは、見えないものに規定されているからだ。見えないものとは、過去のトラウマだ。階級的な所有構造だ。そう言われると、ある種の帰属処理ゲームが始まって、気づきが生じたと錯覚。カタルシスが起こります。
「騙されていたんだ」「規定されていたんだ」と。規定されていた事実への気づきで自由になったと感じますが、実際は、苦痛が説明されて安堵し、敵が見つかり溜飲が下がっただけ。僕も中学時代にフロイトを読み、思春期の苦痛が、トラウマによって構造化された無意識に由来すると「気づき」、安堵しました。
そこでは「見えないもの」を「見る」のが精神科医で、フロイトを学んだ専門家だけが一般の人には「見えないもの」が「見える」。かくして、一般人に解を提供してくれる専門家たる精神科医のアカデミーが、権威を維持できます。ところがアドラーはこうした言語ゲームの全体を見通していたんですね。
アドラーは、19世紀的な〈反啓蒙の思考〉とは異なり、また18世紀的な〈啓蒙の思考〉とも異なる。啓蒙か反啓蒙かというのはメタ万物学(形而上学)、つまり近代哲学の問題設定ですが、岸見先生の本にもあるように、アドラーは、むしろ初期ギリシアの万物学、つまり現代哲学の問題設定なんです。
フロイト 対 アドラーは、〈潜在性の思考〉対〈自己言及の思考〉であり、メタ万物学(近代哲学)対 万物学(現代哲学)であり、ユダヤ的思考 対 ギリシア的思考。ユダヤ教徒フロイトは過去の引力(無意識による規定)を重視しますが、ギリシア哲学を出発点とするアドラーは未来の引力を重視します。
神保 なるほど。しかしこれだけ『7つの習慣』やデール・カーネギーに使われているのに、あまりアドラーの名前が表に出されていないのは何か理由があるんでしょうか?
岸見 アドラーから引いたということをあまり言いたくないんじゃないでしょうか? かなり印象的な考えですから、自分の独創だと言いたくなる人が多いのかもしれません。アドラーの思想のことを喩えて「共同採石場」と呼ぶことがあります。つまり皆がそこからいいところを取っていく、と。
神保 いいとこ取りということですね。アドラーもそれは構わないと考えていたんですか?
岸見 本人は極めておおらかで、アドラー派という学派が存在したことすら忘れられてもいいというような人だったそうです。しかし、それもあって多くの人がアドラーの思想のいいとこ取りをして、しかもその名前を冠しなかったという現実があります。ただ、僕はそれでもまだたくさん原石が残っていると思っています。彼らが持ち去らなかったものがある。まとまりもなく磨かれてもいないけれど、原石のまま光り輝くものがあるので、それをこれから見ていかないといけないと思っています。逆に言えば、そこを持っていかないとアドラーの本当のところが伝わらないと思うのです。表面的にはアドラーの考えに似ているようで、フタを開けると全然違うというような印象を受けることもありますので。
トラウマの存在を認めない心理学
神保 それでは、まずは大枠の入門的なところだけでも、アドラー心理学とは何かということの説明を岸見先生お願いします。
岸見 ひとことで言うと「過去を振り返らない心理学」ということになります。たとえば、カウンセリングに来られる方の過去のことをどれだけ言っても、何ら今の悩みの解決にはならないでしょう。ただ、ある種の安心にはなるかもしれません。自分のせいではなかったのだ、と。たしかに「あなたのせいではなかったんですよ」とか「他の人に責任を押しつけてもいいんですよ」と言われれば安心はするでしょう。けれど、それではカウンセリングの前と後で、その人の人生は少しも変わらないでしょう。現状維持どころかもっと悪くなるかもしれない。過去に何らかの原因があって、いま何かの症状が出ているということが仮に明らかになったとしても、過去にタイムマシンを使って戻れない限り問題は解決しないのです。
たとえば、子どもが学校に行かないというケースでお母さんがカウンセリングに来られたとします。そこで「あなたの育て方が悪かった」と言われても絶望して帰るしかないじゃないですか。それはもう過ぎたことだから、とりあえず問題にせずにおこう、というのがアドラー心理学の立場です。
またトラウマに関して言うと、トラウマによって今の自分が規定されていると考えるのはある意味では楽です。しかし問題の解決がまったく違う方向に向かってしまいかねない。たとえば、ある治療者が大阪の附属池田小学校で無差別殺傷事件が起きたときこういうことを言っていました。自分は怪我などをしていなくても友達が殺されるのを見てしまった子どもたちには、人生の大事な段階において必ず何らかの問題が起こる、と。これはひどいと思います。治療者として絶対に言ってはいけないことでしょう。あのときの子どもたちはそろそろ成人しているはずです。彼や彼女がいたり、結婚したりする年齢です。たとえば付き合っている人とうまくいかないとき、その原因を事件にまで遡るかもしれない。けれど実際には、今目の前のその人との関係が悪いだけであり、それを改善すれば何とかなるはずです。なぜ過去に遡る必要があるのか。過去に遡りトラウマと言い出せば自分の責任が曖昧になります。ある意味都合が良いのかもしれないけれど、そういうことをアドラーは言わないわけです。
神保 過去に原因があるならどうしようもないよね、となりますからね。そのほうが楽ということなのかな。
宮台 「自分は変われない」という人に「それはなぜですか?」と問うと、「私は過去にこういうトラウマを負っているんです。あなたと違って私が変われるわけがないじゃないですか」と自己を免責するんですね。風俗嬢の取材を通じて無数に目撃してきました。
岸見 過去に大きな出来事に遭遇した場合、その影響がまったくないとは言い切れません。もちろんあるでしょう。東日本大震災でも阪神淡路大震災でもかなり悲惨なことがありましたから、影響がなかったとは言いません。ただ、同じ出来事を経験したかたらといって、皆が同じようになるわけではない。そういう決定論から脱している点がアドラー心理学の特徴なのです。
神保 PTSD(心的外傷後ストレス障害)のような症状はアドラー的にはどのように考えるんですか?
岸見 一緒です。トラウマを否定するので、PTSDも否定します。
神保 では、本当にすごいものを見てしまったので、後からそれがトラウマになっていると思っていても、実はそうではないということですか?
岸見 アドラーは「見かけの因果律」という言葉を使います。AというできごととBという現象のあいだには本来因果関係はない、それにもかかわらず、両者に因果関係があるとみなしたがる人はいます。その際、過去のことや過去に心に傷を受けたことを持ち出すのです。
神保 それは『嫌われる勇気』にも書いてありますが、過去がどうだったかではなく、自分がそれにどのような意味を与えるかが問題だということですね。
宮台 たとえPTSDと言われる症状があるとしても、人は基本的にそうしたものから自由になりたい以上、自由になるために必要な枠組みは、「トラウマゆえにそれが起こった云々」ではまったく足りません。アドラーによれば、トラウマへの意識が、自分がこれからどうするかという志向を、束縛するんです。
神保 「だからどうした」ということですね。
岸見 アドラーは「患者を無責任と依存の地位に置いてはいけない」と言っています。しかし「あなたのせいじゃない」と言えば、患者さんを無責任という地位に置いてしまうのです。
神保 一見楽になるように見えるけれど、問題の解決には寄与しないということですね。
岸見 そうです。しかも、過去の出来事を持ち出してこれが今の悩みの原因ですよという治療者に、患者さんは依存してしまいます。患者さん自身は何も言えないのです。治療者から一方的にこうなんだと言われると、依存関係になってしまう。アドラーはそうしたことも明確に否定しています。
アドラー心理学の目標とは?
神保 続けて「アドラー心理学の目標」について教えて下さい。『嫌われる勇気』によれば、まず行動面での目標は「自立すること」「社会と調和して暮らせること」だそうですが、こちらについてはフロイトに代表されるような他の心理学と違いはあるんでしょうか?
岸見 そこについては特に違いはありませんね。
神保 では、次に心理面での目標は「私には能力がある、という意識」「人々は私の仲間である、という意識」を持つことだそうですが、これはいかがでしょう?
岸見 まず「私には能力がある、という意識」ですが、アドラー心理学では、自分が直面する「人生のタスク」というものを考えます。仕事のタスク、交友のタスク、愛のタスクという、避けては通れない課題(タスク)があると考えるのです。そのタスクに立ち向かっていく能力がないと思い込んでいる人に対して、いやそうではない、あなたはタスクを前にして逃げる必要はないし、勇敢に立ち向かっていけるはずだと、それを知ってほしいということです。
もう一方の「人々は私の仲間である、という意識」ですが、世の中には周りの人は私の敵だと考えている人が多くいます。うかうかしていると私を陥れかねない怖い人ばかりだと。しかしそうではなく、周りの人は私が求めれば援助をしてくれる、味方をしてくれる仲間なのだ、と思って欲しいのです。なぜなら、そうでないと他の人の役に立とうとする人になれないからです。誰も敵の役に立とうとは思わないでしょう。他の人の役に立てているという貢献感はアドラー心理学において極めて重要なのです。
宮台 初期ギリシアの思考は[自立/依存]の二項対立です。200年経った紀元前3世紀のストア派になると、マケドニア帝国の支配下で都市国家が単なる都市へと頽落したのを背景に、自立よりも自律、つまりセルフガバナンスやセルフオートノミー、つまり自己決定へと理念が縮退しますが、それとは別物。
自立は、セルフガバナンスでなくインディペンデンス。ディペンド(依存)しないこと。初期ギリシアでは、超越の神に依存するのも、普遍の真理に依存するのも、よくないと考えました。なぜなら、アレをすれば罰ないし損を被るが、コレをすれば賞ないし得が得られる、と損得勘定を駆動させるからです。
そうではなく、自分の内側から理由なく湧く力(ヴィルトゥ)こそが大切だと見做されました。これはアドラーの「私には能力があるという意識」に関係し、現在ならば「自己効力感」と呼ぶところですが、いずれにせよ、損得勘定の自発性よりも、内から湧く力である内発性が大切だと見做されました。
繰り返すと、それが真理だからとか、神が命じたからとかいう理由で、漸くやる気が起こるのは、真理への依存・神への依存です。真理や神に反すればネガティブな報いを受ける。つまり呪いを受ける。呪いから逃れるために何かをする。そんな動機は、初期ギリシアの考え方に従えば、名誉に反します。
知識社会学的には、損得勘定に依存した行動原則では、常時ポリス間戦争がある状況でポリスが生き残れないから、損得勘定の自発性を超えた理不尽な力である内発性が愛でられました。とりわけ重装歩兵らのファランクス(集団密集戦)では内発性が決め手。岸見先生のお話はそんな古い智恵と響き合います。
岸見 アドラーによれば、人が自立するためには2つのポイントがあります。一つは「叱らない」ということです。叱られて育つ子どもは自立しません。何かをする・しないというときに自分で決められず、親や大人に叱られるからやる・やらないということでは自立しているとは言えません。これが一つです。
もう一つは、「甘やかさない」ということ。甘やかされた子どもは自立しません。これはアドラーが何度も繰り返し問題にしている点です。今日では愛情不足の子どもなどあまりいません。親側から言えば愛情過多、子ども側から言えば愛情飢餓の状態です。愛されているのにもっともっと愛して欲しい、と。これは穴の空いた花瓶に水を注ぐようなもので徒労です。私は、井上陽水の「感謝知らずの女」という曲をよく引き合いに出すのですが、彼女にダイヤの指輪を贈ったところもっと大きいのが欲しいと言われた、という歌詞です。今そういうタイプの人が非常に多い。甘やかされた子どもは自立できず、当然自分で考えられない、そういう問題をアドラーは具体的に述べています。
[DIAMOND online]
Posted by nob : 2014年05月20日 17:35