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その時々の人の立場や都合に左右されない原則としての平和憲法の改正自体が愚かしさの、改正手続きを踏まぬ解釈変更など姑息さの極み。。。

■政権ウォッチ

田中秀征 [元経済企画庁長官、福山大学客員教授]


□集団的自衛権は与党協議に注目!

 5月15日の安倍晋三首相の記者会見以来、集団的自衛権問題についての公明党の対応に一段と関心が集まっている。

 その中で、公明党の支持母体である創価学会が報道各社の取材に応えて明確なコメントを発表した。

 このコメント(18日付東京新聞)では、2つの重要な意思が表明されている。1つは、「憲法第9条についての政府見解を支持」していること。もう1つは、「集団的自衛権を限定的にせよ行使するという場合には、本来、憲法改正手続きを経るべきである」と言っていることだ。

 ここで「本来」と言う言葉はいわずもがな。例外を認めると誤解される恐れがある。もしもこれが妥協を予定した小細工ならコメント全体の信頼が失われる。よもやそんなことはないだろう。

「集団的自衛権」と「集団安全保障」
この2つを混合させていないか

 安保法制懇の報告と首相会見後の報道機関の世論調査は、各社によってあまりにも大きな隔たりがあって戸惑うばかりだ。

 例えば、集団的自衛権の行使について、賛成か反対かの中間に「限定的行使」を入れれば、多くの人がそれを支持する。それと全面行使賛成とを合わせて「集団的自衛権行使賛成」の数字を見出しとすれば、6割とも7割ともなって、実感とはかなり離れたものになる。

 その上、この問題はきわめて難解で、正確に理解している人は少ないと言ってもよい。

 1991年の湾岸戦争のときは、初めての論争だったせいか、当初は現職国会議員でも理解している人はわずかと感じたものだ。特に集団安全保障との違いは判りづらかったようだ。

 言うまでもなく、集団的自衛権と集団安全保障は全く異なる概念である。

集団的自衛権は与党協議に注目!

 ①集団安全保障は警察機能。村社会に例えると、村の秩序を乱す無法者をみんなで懲らしめること。②集団的自衛権は、特定の人の暴挙に仲良しと一緒に対抗することだ。

 ①と②に共通している“集団”という言葉がややこしくしていて、違いを理解することを困難にしている。

 端的に言えば、集団的自衛権と違って、集団安全保障は「自国のため」ではなく、「世界のため」の武力行使などの義務を伴っているのだ。

 今回の報告書や首相会見は、この全く異なる概念をごちゃごちゃにして混合し、一層難解にしてしまっている。意図的にそうしたとは言わないが、紛らわしくしている点で著しく不誠実な姿勢と受け取られても仕方がない。

 議論されている例で、米国に向かう(かもしれない)弾道ミサイルの迎撃をめぐる問題とは異なり、PKO活動に関するものなどは①の集団安全保障の枠に入るもの。分けて提示していると言っても同時であれば理解が難しくなるのは当然だ。

集団的自衛権の行使を認めたいなら
堂々と憲法の改正手続きを踏め

 5月19日からいよいよ自民・公明両党間で与党協議が始まった。まるでクイズかパズルのような事例が多いが、個別的自衛権で対応できるものを合意できればよい。どうしても集団的自衛権の行使に当たるものなら堂々と憲法の改正手続きを踏むことだ。憲法の核心部分の解釈を変更すれば千載に大きな悔いを残すことになるだろう。

 与党幹部からは「国民を守ることと憲法を守ることのどちらが大事か」と言うような荒っぽい発言が聞こえてくる。

 確かに日本をめぐる安保環境は厳しさを増しているが、今日や明日の軍事衝突が差し迫っているわけではない。緊張を緩和する外交努力を先行させれば危機は十分回避できるはずだ。

 仮に緊迫しているとしても、国論を二分したり、政権の信用が失墜すれば、そのほうが余程危機対応の意志も力も弱まってしまう。与党協議が誤った合意に達することがないように厳しく見守りたい。


□安倍首相は集団的自衛権問題を棚上げにして
目前の脅威に対応すべきだ

「宮沢内閣が終わる日、私は自民党を離党して、あなたと行動を共にします」

 私が細川護煕氏にそう約束したのは、自民党離党、さきがけ結成の前年、1992年の8月のことだった。

 雑誌(週刊東洋経済)で政治改革についての対談をした後で、パレスホテルに場所を移して3時間近く会談し、私はその場でこの約束をした。

 バブルが弾け、冷戦が終結して日本は歴史的変動の最中にあったが、自民党は構造汚職が次々と明るみに出て、不毛な選挙制度改革論議にうつつを抜かし、直面していた歴史的な課題に取り組むことができないでいた。

 91年当時から既に離党する決意を固めていた私にとって、細川氏の日本新党の立ち上げは鮮烈で、基本的な考えが一致するなら行動を共にするつもりで、その対談の席に臨んだのである。

 会談内容は、(1)憲法観、(2)歴史観(歴史認識)、(3)経済社会観、(4)官僚観(行政改革)、(5)政治制度(選挙制度)についての考えのすり合わせであった。

 このときはほとんどの基本項目で一致していることに驚かされたが、この彼の思想の骨格は今に至るも何ら変わっていない。

 大量生産、大量消費、大量廃棄の経済や生活を転換していくこと。それは細川政権の質実国家の旗として掲げられた。原発事故を文明への警鐘として受け止めた彼が、原発再稼働に抗して都知事選に立ったのも私には必然と思えることであった。

自民党は慎重派も総崩れ
解釈変更すれば“タブー”でなくなる

 折から、自民党は、集団的自衛権行使のための解釈改憲を目指す官邸周辺に引きずられてなすところがない。慎重派も総崩れという印象だ。

 今や私が離党した当時の自民党でも考えられない事態が現出している。

 憲法の根幹部分を少数の専門家の知恵を借りて解釈の変更をするという。20年前なら一笑にふされることだ。なぜ政治家がこんなにも官僚や学者に弱くなってしまったのか。それに、政治家に好んで近づく官僚や学者に高い見識を求めても無理な話だ。

 報道によると、自民党幹部は、今回の解釈改憲でこんなに抵抗があるのだから、今後ころころ変更することなんてできないと語っている。政権が変われば解釈が変わる、という強い批判に答えたものだろう。

 そうではない。ここで解釈を変更すれば、今後は格段に容易に変えられていくのだ。一度タブーが破られればもうタブーではなくなるのである。

急増する“限定”の事例
公明党を巻き込むための誘導か

 現在、自民党と公明党の与党協議が続けられている。

 その一方で、ここぞとばかり限定行使の事例がどんどん増えている。

 何と、集団的自衛権行使容認の閣議決定の前に、“限定”の枠が早くも拡大されているのだ。

 かつてなら、一つ一つが国民的議論を経なければならない対応が、十把ひとからげで一気に大量処理されようとしている。

 ついに政府が与党協議に示す事例は、15に急増し、そのうち8つが集団的自衛権の行使が想定されている。

 かつて、第一次安倍晋三内閣当時、有職者懇は解釈改憲を意図したが、そのとき示した事例は4つに過ぎなかった。それも個別的自衛権の拡大解釈などによって解釈可能なものであった。

 なぜ、事例が15にもなったのか。要するにどうしても「集団的自衛権」の言葉を使いたいだけの話だろう。公明党を巻き込むために手を代え品を代えて非現実的な事例を追加して誘導しようとしているとしか思えない。

 そして、ひと度、限定的にでも集団的自衛権を認めれば、もう全面的行使に歯止めはなくなる。

 今回の流れの行きつくところは、自衛隊を米軍の一師団化するものと受け取られても仕方ない。

 もっと真剣に、もっと広く国民的議論にかけなければ取り返しのつかないことになる。
安倍首相の棚上げの英断を待つ

 国はもちろん、政党も政治家も、基本的なこと、原則的なことについては、安易に妥協すべきではない。それこそ自殺行為である。存在意義さえ問われてしまう。

 宮沢喜一元首相が、陰で細川内閣を全力で支えたことは既に明らかになっている。政局の行きがかりより、基本的なことで細川首相と合致していたからである。音無しの構えでいる旧宮沢派宏池会は、今こそ存在感を示すべきではないか。一貫した憲法観、歴史観こそ宏池会の真髄のはずだ。

 新聞によると、自民党リベラル派の党幹部は「かつての自民党リベラルの役目は、公明党に託すしかない」と嘆いたという。しかし、国が信条と異なる方向に流れるとき、立場を賭してそれに立ちふさがるのが政治家ではないか。

 石破茂自民党幹事長は、このまま進めても集団的自衛権の行使には1、2年はかかるという。

 そうであれば、安倍首相は、この際この問題を棚上げにして、国論を結束させ、緊迫した中国の脅威に対応すべきである。結束した国論、圧倒的な国際世論、とりわけアジア諸国の強い支持が、中国の暴挙を抑止する最強の力である。

 安倍首相の棚上げの英断を待つばかりである。


[いずれもDIAMOND online]

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Posted by nob : 2014年05月31日 10:29