« 言い得て妙。。。Vol.25/幸せ、、、気付きさえすればいつもそこにあるもの。。。 | メイン | 散歩、ひいてはウォーキング、さらにトレッキングは、心も身体も救う。。。 »

言い得て妙。。。Vol.26/幸せ、、、気付きさえすればいつもそこにあるもの。。。Vol.2

■小池龍之介「追い求めると逃げていく。“幸せは副産物”の理由」【2】

小池 龍之介
月読寺住職兼正現寺住職

人類の歴史上、普通の人々がバーチャルな幸福感に浸れるようになったのは、長く見てもこの100年くらいのことです。

それ以前は、身を粉にして働かなければならない日々の中で、快感のスイッチが入る機会は稀にしかありませんでした。収穫祭やたまのお祭りといったハレのとき。あるいは1日の労働を終えて「ああ、ご飯だ」というときに快感が走ったりしたのかもしれませんが、その頻度は現代人に比べてはるかに少なかった。

脳内の快感物質は麻薬のようなものです。快感を連続して入力するということは、麻薬を絶えず脳内に分泌している状態なので、中毒化します。言ってみれば慣れが生じて、同じ分量の快感物質では同じ気持ちよさを感じられなくなる。同じ気持ちよさを感じるためには、より多量の快感物質を必要とします。それができないと、現状維持をしているだけで“前より状況が悪くなってはいないのに”、「自分は不幸だ」と感じるようになる。

ときどき快感が走る程度の生活なら、中毒になることはありません。ましてや畑で鍬を振り下ろす、薪で火を起こすというような反復運動に集中していると、快感物質が抜けて心が落ち着いてきます。昔の人々の生活は快感をどこまでも追い求めるのではなく、自然に絶えずリセットする習慣になっていた。快感に身を委ねて暮らしていられたのは王様や貴族などひと握りで、そうした人々はドーパミン中毒になって心の病に陥りやすかったのですが、一般庶民は幸いにして日々を穏やかに過ごしやすかったはずです。

翻って現代では、年収200万円で負け組と言われている人でさえ、その多くは困窮しないで、昔の王様並みの生活ができます。ちょっとお金の使い方のバランスを変えれば、豪華な食事もできる。デジタルツールで瞬時に他人とつながることもできます。

お金を出せばいくらでも自分の欲を満たせて脳内麻薬を生み出せる。歴史上、大半はそういう状況にない中で人間は自己形成されてきました。快感スイッチを連続入力するような現代の生活は、人間の生き物としての仕組みを壊してしまう気がします。

たとえばしょっちゅう携帯電話のメールチェックをしないと気がすまない人は、誰かとつながっていることを確認して快感を覚える、ある種の快感中毒といえます。携帯電話やパソコンで頻繁に情報にアクセスするのは、ドーパミンを連射しているようなもの。依存症やうつ病など精神的な疾患が増えているのは、そのあたりにも関連がありそうです。

快感を得ることがすべてダメと言うつもりは毛頭ありません。快感とのつき合い方を考えるべきであり、快感を入力しない時間が必要だと思うのです。一時の快感で偽の幸福感を得て脳をいわば“ドーパミン漬け”にしてきた現代人の支払うツケは、ドーパミンの効果が薄れて気持ちがそわそわしたり、イライラしたり。実は、苦しみのもとでしかない。仏教の言葉で壊れる苦しみのことを「壊苦(えく)」と言いますが、快感はまさに壊苦そのものです。

本当の幸福とは何か。ブッダは「褒められても心が浮つくことなく、非難されても決して落ち込むことなく、心が平静でいられるのが幸せである」と言っています。心が波打つ苦しみから解放されて、穏やかに安らいでいる状態。それが万人に共通しうる最高の幸せだと言います。

「心が安らいでいる」と言うと何もしないでボーッとしているイメージがあるかもしれませんが、そうではありません。むしろ意識がシャキッと目覚めて、背筋が伸びているような感じ。緊張したり余計なことを考えたりしないで、目の前のことに集中できている心の状態を「安らいでいる」と言います。

脳内物質の働きでいえば、抗重力筋(腹筋や背筋など重力と反対方向に働く筋肉)を管理するセロトニンの神経回路が活性化して、暑さや寒さ、痛さなどに対する耐性が高まり、外界からの刺激に影響を受けにくくなった状態です。この神経回路を活性化させるコツは、快感を入力せず、いわば麻薬抜きをする時間をつくることです。起き抜けに携帯電話をチェックする生活は、朝から快感物質を発射するようなもので、1日中、心が快感や不快感にゆらぎやすくなります。せめて起床後の30分や1時間は、心の平静に努めたい。

セロトニンの神経回路を活性化するもう1つのコツは、目的意識を持たないことです。目標を立ててそれに向かって突き進むと、「ああまだ達成できていない……」という苦しみが、達成したときに緩和されて快感物質が発射される。これを避けるには、ゴールに向かって走るという意識を捨てて、いま目の前で行っていることに意識を振り向けることが大切です。慣れていない人は、短い単位で同じことを反復する行為に集中することから始めましょう。

たとえば手を動かして掃除をしてみる。皿を洗う。前述のように農作業に没頭するのもいい。歩くのでも、部屋の端から端へ行ったり来たりするなんて無目的の極みです。最初は「何やっているんだろう」と思うかもしれませんが、それを無視してひたすら歩く。すると体の感覚に意識が集中し、リラックスしているのに冴えているような感覚になってきます。

心安らかな状態が継続的に維持できれば、「何々があるから幸福」ということではなく、何をやっていても幸福でいられると思います。しかし、穏やかな気持ちを保つのはそう簡単なことではありません。たとえば今回の震災のように、ふいに訪れる不幸な出来事や悲しみに感情が揺さぶられることもあります。

些細なことですが、私は自転車を盗まれることがよくあって、昔はそのたびにイライラしていました。「あそこに置かなければよかった」「また新しい自転車を買わなきゃいけない」と後悔や落胆の念をしばらく引きずってストレスを抱えていたのです。

それがあるときから、気にならなくなりました。これは平素から「現実」と「頭の中で起きる反応」を仕分けるトレーニングをしてきた成果で、自転車が盗まれたという現実と、自分の心の中に湧き起こる悲しいという感情が交じり合わなくなったのです。

何か不幸な出来事、悲しい出来事が起きたときに、それが1本目の矢として心に突き刺さります。しかし多くの人は降りかかった現実を元にそれを脳内で編集し、後悔や不安を交えながら不幸や悲しみを増幅させてしまう。いわば自分で自分の心に第2の矢を突き立てて、いつまでも気に病むのです。

第1の矢と第2の矢を区別して、「あ、いま、自分の頭の中で編集している」と気づくと、気持ちは鎮まってくる。誤解を恐れずに言えば、震災で全財産を失ったり、家族を亡くしたときでさえ、ある程度の訓練を積めば同じことが可能です。

無論、これができない人は大勢います。できない人に対しては、比較的できている人、心が落ち着いた状態にある人が寄り添ってあげましょう。反対に心が落ち着かない人に寄り添われるとイライラが増します。「被災した人はかわいそう」「自分が役立たなくては」と気負ったり、涙ぐんでボランティアに参加されても迷惑なだけです。

仏教で言う「慈悲」とは他者の苦しみに共感するということです。感情的に自分も涙するというのではなく、心を鎮めて相手の苦しみ、痛みにそっと手を当て、「苦しいんだね」と理解し、受容する。

自分の苦しみに自分で寄り添うこともできます。私の道場では「慈悲の瞑想」という指導もしています。まずは不安や恐怖を洗い出し、「そうか、苦しいんだね」と目を閉じて心の中で唱えて自分の苦しみを慈悲の温情で抱きとめる。すると、とても心が柔らかくなり、苦難に立ち向かう勇気も湧いてきます。

[PRESIDENT Online]

ここから続き

Posted by nob : 2014年12月15日 20:38