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最善の主治医は自分自身、、、すべては自らのファイナルジャッジのためのセカンドオビニオン。。。Vol.4

■近藤誠氏の「抗がん剤全否定」は間違っている
「がん患者放置」は、あまりに無責任だ

高野利実
虎の門病院臨床腫瘍科部長

「抗がん剤に延命効果はなく、ひどい副作用で命を縮めるだけ」

「抗がん剤が有効だという根拠があったとしても、それは、人為的に操作されたものなので、信用してはいけない」

「医者に殺されないよう、がんは治療せずに放置すべき」

――以上が、放射線治療を専門とする医師、近藤誠氏の主要なご意見だ。

近藤氏の武器は「わかりやすさ」

近藤氏は1996年に著書『患者よ、がんと闘うな』(文藝春秋)で話題を呼んで以来、抗がん剤を否定する主張を展開。ここ数年は、『抗がん剤は効かない』(文藝春秋)、『がん放置療法のすすめ』(文春新書)、『医者に殺されない47の心得』(アスコム)などの本を出した。刺激的なタイトルもあって、よく売れているようだ。

もともと、抗がん剤に良いイメージを持つ人はあまりいないので、「抗がん剤なんて受けちゃダメだ」という、大学病院の医師によるわかりやすい主張は、多くの人にすんなりと受け入れられたように思う。

実際、近藤氏の影響を受けて、「抗がん剤は絶対にやりません」と言う患者さんが増えている。

しかし、連載の第1回でお伝えしたように、抗がん剤には、副作用というマイナス面がある一方、それによって症状が楽になり命が延びるプラス面もある。大事なのは、プラスとマイナスのバランスを考えて、適切な治療を選択することなのだ。

私は医者になりたての2000年ごろに、近藤氏と論争する機会があった。当時の近藤氏にはまだ、抗がん剤のプラス面とマイナス面を論じる姿勢があり、きちんと議論になっていた。若造の私の意見にも耳を傾けてくれたことに対して、それなりの好感を持っていた。

しかし、最近は、どんどん主張が過激になり、今や、抗がん剤を全否定するだけでなく、医療そのものも否定するようになっている。プラスとマイナスのバランスを考えようという姿勢はなく、ただ、原理主義的な信念をもって突き進んでいるだけのようだ。

批判的な主張に対しては、揚げ足をとるような反論ばかりして、本質的なところは取り合おうとはせず、不毛な議論だけが展開されている。

思考停止と偽装、そして...

近藤氏の主張には、3つの問題がある。

一つ目は、「抗がん剤は絶対ダメ」で思考が停止してしまっている点だ。この大原則は全く揺るがないため、抗がん剤の有効性を示す科学的な根拠があったとしても、その根拠が間違っているという話になる。これでは、科学的な議論は成り立たない。

臨床研究で得られたデータ(科学的な根拠)は「エビデンス」と呼ばれ、今の医療は、信頼度の高い「エビデンス」に基づいて行うのがルールなのだが、このルールが通じないのだ。

近藤氏に共感する患者さんは、「抗がん剤についてこれ以上考えなくてよい」という部分に惹かれ、同じく思考停止してしまっているのかもしれない。確かに、がんという病気と向き合い、人生の目標や自分の価値観に照らして、プラスとマイナスの微妙なバランスを考えるのは楽ではないが、それを避けて安易な結論に流れてしまうのは得策ではない。

近藤氏の二つ目の問題点は、エビデンスを偽装していることだ。同氏は、自分の主張と合わないエビデンスを「腫瘍内科医が人為的操作を加えた結果なので信頼できない」と否定した上で、他のエビデンスを、自分の主張に沿うように都合よく解釈し、しばしば偽装して提示する。これは重大なルール違反と言わざるをえない。

偽装例を1つ挙げよう。近藤氏の著作『がん放置療法』(文春新書)には「進行肺がんを治療しないで様子を見た場合の予想生存曲線」が紹介され、1年後の生存率は100%となっている。この曲線は「抗がん剤を受けたりしなければ、すぐに死ぬことはない」という思い込みを形にしている。

近藤氏は、この思い込みの曲線を、抗がん剤の臨床試験で示された現実の生存曲線と比較して、抗がん剤を受けた方の多くが1年以内に亡くなっているのは、抗がん剤で命を縮めたせいだと主張している。「思い込み」と「現実」を比べるのは科学的ではないのだが、同氏の本には、このような「エビデンスの偽装」が多数登場する。

数年前、バナメイエビを「芝エビ」、ブラックタイガーを「車エビ」と表示するなどの「エビの偽装」が社会問題になった。「エビデンスの偽装」は、多くの人の運命を左右するという意味で、「エビの偽装」よりもずっと重大な問題である。私たちは、この問題にもっと敏感になるべきではないだろうか。

小保方氏は厳しく糾弾されたのに...

科学の世界では「エビデンスの偽装」は厳しく取り締まられる。わかりやすい例は、「STAP細胞」を作製したという小保方晴子氏の研究である。科学誌に掲載された論文に捏造や改ざんがあったとして厳しい対応がとられ、マスメディアも過剰なまでに糾弾した。

近藤氏の「エビデンスの偽装」は、STAP細胞と比べても決して軽いものではなく、影響力はむしろ大きいのだが、偽装の舞台が科学誌ではなく、一般向けの雑誌や書籍だったため、何のおとがめもなく、今も野放しの状態だ。小保方氏と近藤氏へのマスメディアの対応が正反対なのは、この社会が、科学的なルールではなく、雰囲気やイメージに流されていることを象徴しているようだ。

近藤氏の三つ目の問題点は、がん患者を放置していることだ。同氏は抗がん剤を使わず、手術なども行わない「がん放置療法」を提唱している。私の患者さんの中にも、抗がん剤を使わず過ごしている方は多数いるので、それを「がん放置療法」と呼ぶのであれば、私も、「がん放置療法」を積極的に実践していることになる。

だが、私は、がんを放置することがあったとしても、患者さんを苦しめている症状や患者さん自身を放置することは、けっしてない。緩和ケアを積極的に行いながら寄り添っていくのが、腫瘍内科医の大事な仕事だ。

近藤氏は「病院には近付かない方がよい」と言って、ほとんどの医療を否定している。その言葉を信じて、病気を抱えながらも医療を遠ざけ、家に引きこもっている患者さんも多くおられるようだ。病状が進み厳しい状況に陥ったところで、救急車で病院に搬送される例も増えている。これは、「がん放置」というよりも「がん患者放置」で、あまりにも無責任だ。

家に引きこもっている患者さんの中には、不安を募らせながらも、「こんな状況で病院にかかったら、医者から怒られそう」と、受診できずにいる方もおられると思う。だが、これまでの選択を咎めたり、受けたくない治療を無理やり勧めたりする医者はあまりいないので、怖がらずに、早めに受診してほしい。

不毛な論争に終止符を

近藤氏の主張が広まったことで、思考を停止させてしまう患者さんが増え、「抗がん剤は善か悪か」という不毛な神学論争だけが展開され、医療不信はさらに深まり、患者さんと医者の距離はさらに広がっている。

でも、この状況は、近藤氏を批判すれば解決するようなものではない。世の中が彼のような存在を求めていた事実もきちんと理解した上で、私たちは、医療不信を払拭するための取り組みをしていかねばならない。

今のマスメディアは、感情を煽る「センセーショナリズム」や、白黒をはっきりさせる「善悪二元論」をもてはやしすぎている。近藤氏の主張は、この風潮にうまく合致したため、重宝されたのだと思う。

だが、生老病死の現実と向き合う医療現場では、センセーショナリズムよりも、科学的な根拠(エビデンス)と一人ひとりの価値観に基づく議論が求められる。善悪二元論でスパッと割り切るのではなく、リスクとベネフィットのバランスをぎりぎりまで判断しながら、前に進まなければならないのだ。

いつの日か、近藤氏とも、エビデンスに基づいてリスクとベネフィットの微妙なバランスについて語り合えるときが来ることを願っている。

[東洋経済ONLINE]

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Posted by nob : 2016年05月12日 13:58