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かねてより私も真剣に人生120年計画を立てています。。。

■50歳程度で「引き算」の人生をしてはならない

松下幸之助は「160歳まで生きる」と考えた

江口 克彦 :故・松下幸之助側近

松下が「160歳まで生きる」と言いだしたのは80歳のときであった。誕生日にある人からお祝いをもらったところ、その熨斗(のし)に「半寿」と書いてあった。「半」という字を分解すると「81」になる。満80歳は数えで81歳だから、それで半寿という。言葉の遊びにすぎないが、80歳が半分ならば「全寿」は160歳。それでは自分は全寿をまっとうしよう、と言いだしたのである。

松下がこのようなことを言いだしたのは、これが初めてではなかった

130歳まで生きると言い出したことも

その前には106歳まで生きるのだ、と言ったこともある。106歳まで生きると、19世紀から21世紀までの足かけ3世紀にわたって生きることになるからであった。あるいはそののち、130歳まで生きると言ったこともある。日本の長寿記録が124歳だから、その記録を破りたい。125歳まででもいいけれど、まあ、切りのいいところで130歳までにしようということであった。

130歳まで、と松下が言いだしたころ、私は京都・大徳寺の立花大亀老師に呼びだされたことがあった。「松下さんが130歳まで生きるとか言っておるようだが、もし生きれんかったらみっともない。ああいうことを言わないように伝えてくれ」ということであった。

しかし私はそれを松下に伝えることはしなかった。なぜなら、松下はたとえそれより早く死ぬことになったとしても、そのぎりぎりまで全力を尽くして生きぬくだろう。しかしもし、死ぬのが明日かもしれない、1年先かもしれないなどと考えていれば、その生き方も必然、力弱いものになってしまう、と思ったからだ。

実際、松下は満94歳で亡くなったが、そのぎりぎりまで全力を尽くして生きぬき、最後まではっきりとした意識でその人生をまっとうすることができた。

160歳まで生きるという強い気持ちがあるから、亡くなる直前であっても精神が前向きであった。だから松下は、息を引き取る寸前、松下病院の横尾院長が「これから管を入れます。ちょっと苦しいですが、どうぞ我慢してください。よろしくお願いします」と言ったところ、病床で横になりながら、「いやいや、お世話になるのは私のほうだ。私のほうこそお願いします」 と言った。

「まだまだ成功したとはいえん」

最後の瞬間まで、相手の気持ちを思いやる、はっきりとした意識を持っていた。最後まで人を思いやることができたのは、松下が「106歳まで生きる、いや130歳まで生きる、いやいや160歳までも生きるんだ」という気持ちを持っていたからだと思う。

たった3人で始めた事業が、最後には関係先まで含めると数十万人の大きな会社になったとき、人びとは松下を成功者、今太閤、経営の神様とほめたたえた。しかし松下自身は、決して成功とは考えていなかった。

「人間として生まれてきた以上は、人間としての成功が大事や。そういう意味ではまだまだ成功したとはいえん」と思い続けていた。松下は、人よりも高い山を極めた人であったが、しかし、その先にはもっと高い山を見ていた。

亡くなる年の正月のことだった。1月4日、私は伊勢神宮にお参りに行き、その夜、御札と御神酒を持って松下の自宅を訪問した。正月料理をすすめてくれた松下は、大学建設の夢について話しはじめた。それも、その大学の理事長になるということではなく、自分が第1号の学生になりたいという夢であった。

「まだまだ勉強せんといかんもんが、いっぱいあるわけや。勉強しようと思うんや。それでまず時間割な、あれを考えてみたらどうやろな」。学ぶ姿勢、そして熱意は最後までとどまることがなかった。

人は誰でも50歳を過ぎると、引き算の人生になりがちである。保身に走りやすくなる。70歳を越えると、桜の花をあと何回見ることができるだろう、もう最後も近い、と思う人が多いらしい。そう考えれば、生き方も消極的にならざるをえない。元気もなくなるし、弱気になる。

しかし、160歳まで生きるのだと思えば、引き算の人生どころではない。まだ80年も生きるのだと思えば、やりたいこと、やらなければならないことが、つぎつぎと湧き起こってくる。気力も出てくるし、ぼけている暇もない。実際、松下は晩年までたくさんの夢を抱き、その実現のために行動を起こし続けた。

「松下政経塾」を創ったのは、85歳のとき

松下が政治家を養成する「松下政経塾」を創ったのは、85歳のときであった。いままでにその政経塾から十数名の衆議院議員が誕生し、活躍している。また、結局は実現しなかったとはいえ、新政党の結成を最終的に意図したのはなんと90歳のときであった。多くの人びとが、そのように精力的かつ積極的な松下の提案と実行に驚嘆した。

松下が最後までいろいろな発想と実行ができたのは、ひとつには160歳まで生きるのだという強い意志があったからだということを、私は間近に見てきた。そして、目標を大きく設定することによって、松下は最後まで死にとらわれることがなかった。

だから、満80歳のときに160歳まで生きようと思った松下の決意は、さまざまな形で実を結んだと言っていいと思う。そして、人間としての成功も見事に果たした、と言っても、おそらく誰からも許していただけると思う。私もまた、同じようにありたいと思っている。

[東洋経済ONLINE]

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Posted by nob : 2016年08月12日 17:50