« 後ろ向きな他者への否定はまた新たな自らへの否定を生みだすだけ、、、私もトランブ政権の起爆効果に大いに期待しています。。。 | メイン | 物事の実を知ることがすべてのはじまり。。。 »

病状は千差万別、、、自分自身を主治医とする医療専門家や家族・友人など、周囲との信頼関係で結び付く共闘チームを如何に築き上げるかということ。。。

■故・川島なお美さんの「選択」に惜しむこと
医師への「反発」でも「従属」でもない関係とは

加藤眞三
慶應義塾大学看護医療学部教授

川島なお美さんが2015年9月24日に胆管がんのために亡くなって、もう1年以上が経ちます。同年12月には、ご主人でパティシエの鎧塚俊彦さんとの共著として『カーテンコール』が出版されました。その本の中には、川島さんがご自分の病気に対して正面から真剣に向かい合ってきた様子が詳細に書かれています。

「納得のいく」療養生活を続けたことには意味がある

川島さんが亡くなられた後に、マスコミは川島さんのがんの闘病生活に関して、あれこれと報じていました。がんの手術後に抗がん剤治療を受けなかったこと、発酵玄米や豆乳ヨーグルトを中心とする食事療法をしたり、ビタミンCの濃縮点滴治療・電磁波などを使った民間療法を受けていたことなどが、主な批判の内容です。

私はこれらの民間療法に効果があると思っていません。それでも川島さんが療養生活について自分で一生懸命に調べ、納得しながら続けてこられたことを高く評価します。亡くなられる直前の9月7日、シャンパンの発表会でご夫婦がそろってにこやかにテレビカメラの前に出ることができたのは、このような療養生活を送っていたからこそではないかと考えます。

悔やむべき点があるとすれば、最初にMRI検査で1.7センチの腫瘍が見つかったときに早く手術を受けていれば、ということです。その決断をしていれば、もしかしたら現在も再発することなくお元気に舞台生活を送ることができていたのではないでしょうか。

では、なぜ手術に踏み切れなかったのか。闘病記の中には、医師から100%がんであるとの言質を得られなかったから、がんであることを信じたくないから、女優として・楽器としての体に傷をつけたくないから、舞台の仕事を中止できなかったから……など、いくつもの理由が挙げられていました。

一方、同じく俳優の渡辺謙さんは、2016年のニューヨーク・ブロードウェーでのミュージカル「王様と私」が3月1日に開幕するという直前の2月上旬に人間ドックで胃がんが発見され、2月8日に内視鏡手術を受けました。ブロードウェーの開幕を延期してでも直前に手術を受けるということは、大変な決断であっただろうと想像できます。

渡辺さんの場合、それ以前にも白血病を患った経験があり、夫人の南果歩さんも乳がんの経験があります。こうした経験の中で「患者力」を身につけていたことが、勇気ある決断につながったのかもしれません。医師と十分に対話し、自分の中での優先順位をつけることは、「患者の力」としての大きな要素です。

川島なお美さんも、腫瘍が見つかった段階で生検(直接体内のがんの一部を取って調べる検査)を受け、がんであることを確信できていれば、舞台を中止してでも手術にもっと早く踏み切れたのではないでしょうか。そして、そのための対話を医師との間で最初からうまくできていたならば、川島さんの決断も違ったものになったかもしれません。科学的思考を持つ医師が、画像だけを見て100%がんであると断言することはまずない、ということを知るだけでも、川島さんの対応は違っていたかもしれません。

医師に言われたことに従うだけ、あるいは反発するだけではなく、患者が医師とうまく対話をできる協働作業の関係を創りあげていくことが、これからの医療に望まれます。

これからの医療に必要な「コンコーダンス」って何?

「コンコーダンスの医療」という言葉を耳にしたことがあるでしょうか。医療者の間にもまだ十分に浸透していない用語ではありますが、私はこれが、これからの時代に必要な新しい医療のキーワードだと考えています。患者と医療者の関係性を表す医療用語のトレンドは、「コンプライアンス」から「アドヒアランス」、そしてこの「コンコーダンス」へと移り変わってきました。そういっても、多くの方には何が何やらわからないでしょう。そこで、これらの用語の普及に関して、歴史的な変遷をたどってみましょう。

患者と医療者の関係性において、最初に問題になったのは、「患者コンプライアンス」の問題でした。コンプライアンスとは一般的に、「法令順守」と訳され、企業の活動の中で法令に従って行動するという意味で使用されます。しかし、医療の中でコンプライアンスといえば、通常「医療者の処方や服薬指導、療養生活の注意に従わない」という意味で使われます。たとえば、医師が「あの患者はコンプライアンスが悪い」と言ったとき、「あの患者は医師の言うことに従わない、困った患者だ」という意味が含まれています。

病棟や自宅などで医療者の期待に背き、療養生活を勝手に(自由に)行動する患者の場合も「病識がない患者」と呼ばれてきました。病人であることの意識が欠如しているという意味です。患者に病識があれば、医療者の言うことに従うのが当然であり、病識がないからコンプライアンスが悪いという論理です。

ここでは、患者は医療者の指示や命令に従うことが当然であるという、上下関係が前提とされています。「医療者の指導に従わないのだから、従わない患者がいけない。従わないのは患者側の問題である」といった考え方がされてきたのです。こうした患者に対して医療者はあきらめの境地に至り、いずれ責任を放棄する態度で接することになります。

医療者たちがこのような考え方をする背景には、患者は医療を提供される、あるいは学校や仕事を休むことが許されるという恩恵を社会から受けるのだから、患者は医療者のいうことに従い、自分の楽しみなどは我慢するのが当然であるという社会全体の意識もありました。まさに、我慢(patience)するのが患者(patient)の務めであったわけです。

しかし、現代の社会では病気が多様化し、慢性病が多くなっています。患者であるからと働かないことが許されるわけではなく、病気を抱えながら生活することが要求されます。また、社会の成熟とともに患者の教育レベルが高まり、自律心が高まっています。多様性を重んじることの必要性が社会全体に認識され、患者中心の医療が進められてきた過程の中で、欧米諸国の医療ではコンプライアンスがアドヒアランスに置き換わってきたのです。

アドヒアランスは、固守、執着などと訳される単語です。医療においては、処方された薬を処方どおりに服薬するという意味で使われます。しかし、その前提として、いくつかの選択肢の中から患者が主体的に選び、納得・同意したうえで、服薬する意思を固守し継続するという意味が含まれます。したがって、治療の決定権がより患者側にあります。患者自身が納得したうえで治療を続けようとする気持ちがアドヒアランスと表現されるのです。

私が専門とする飲酒に関連する身体問題のある患者に対しても、私はあえて「禁酒」ではなく「断酒」という言葉を使います。禁酒と断酒の間には、コンプライアンスとアドヒアランスに似た違いがあると考えているからです。

アドヒアランスを重視する医療では、医療者側のやるべき仕事が増えてきます。アドヒアランスの悪さは、単なる患者側の資質の問題ではなく、治療者側の要因、薬物側の要因、周囲の人や環境の問題なども挙げられ、それぞれの要因への対処が要求されるのです。

アドヒアランス向上のために、たとえば、患者へ病気や治療に関する十分な情報提供を行い、処方の簡便化や剤型の工夫を進め、家族や周囲の人の協力を得るように調整し、患者が持つ固有の服薬に対する不安について一緒に考え、援助することなどが必要となります。

患者にも努力と責任が要求される

一方で、患者の側にも、それなりの努力と責任が要求されます。自分の病気について理解し、療養生活や治療についても十分の知識を備え、自ら決定することが要求されるのです。アドヒアランスを重視する医療は、患者がより主体的・能動的になることが要求され、患者側にも責任が生じます。同時に医療者の側も、情報提供などやるべき仕事が増え、それに対する責任も生じるのです。

アドヒアランスを高める医療が欧米諸国で普及する中で生まれてきた概念がコンコーダンスです。コンコーダンスは、一般的には一致や調和と訳されます。1996年に、英国の保健省と薬学会でつくられた薬剤パートナーグループ(Medicines Partnership Group)は、コンコーダンスを「病気について十分な知識をもつ患者が病気の管理にパートナーとして参加し、医師と患者が合意に至った治療を協働作業として行うプロセスである」と定義しています。

コンコーダンス医療では、医療者と患者が対等の協働する関係性にあります。医療者が処方を一方的に決定し、それに患者を説得して従わせるのではなく、患者も自分の状況や希望を医療者に説明し、医療者はそれに基づき、いくつかの案を提案するなど、対話と合意が大切にされます。

はたして、このようなコンコーダンス医療がわが国で可能となるでしょうか。私は楽天的に考えています。青山学院大学の駅伝チームも、原監督の業界の常識を疑うチーム作り、選手の自主性と対話の重視により優勝に導かれました。わが国の医療においても、業界の常識の先にあるのがコンコーダンス医療であり、遠からず(今後10年以内?)徐々に普及し始め、20年後にはそれが当たり前になるだろうと信じています。

“患者側”の意見が「治療ガイドライン」を変えた!

コンコーダンス医療につながる一つの兆しを、日本高血圧学会の「高血圧治療ガイドライン」に見ることができます。2004年版で使われていた「コンプライアンス」という用語は、2009年版では「アドヒアランスとコンコーダンス」に置き換わっています。その後に改訂された2014年版においても、「コンコーダンス」の医療を続けるための方法が詳細に書かれています。

たとえば、治療の有益性について話し合うこと、わかりやすく情報提供すること、患者の合意、自主的な選択を尊重すること、処方の単純化をすること、患者による血圧測定(家庭血圧)を励行し、それに基づいて処方すること、家族を含めた支援体制を作ること、服薬忘れの原因や理由について話し合い、不安があれば必要に応じて薬剤の変更を考えることなどが挙げられています。

高血圧症は、わが国において最も頻度の高い疾患の一つであり、その治療ガイドラインは当然多くの医師の目に触れます。また、医学教育にも今後大きな影響を与えるだろうと考えられます。

実は、高血圧学会がコンコーダンスをガイドラインにとりあげるきっかけとして、患者の自立・成熟を目指すNPO法人「COML」の理事長であった辻本好子による提言があります。ガイドラインの策定過程において、辻本さんから「コンプライアンスは医者目線でパターナリズム(父権主義)の言葉であって、コンコーダンスの概念を採り入れるべき」との発言があり、まさに鶴の一声によって、コンプライアンスを服薬アドヒアランスに改め、コンコーダンスの重要性が加えられたというのです〔萩原俊男(2009年版ガイドライン作成委員長)「私と高血圧」〕。こうして作られた高血圧治療ガイドラインは他の領域のガイドライン作りにも大きな影響をもたらしました。

新しい時代が要求する医療は、その医療の専門家だけで創るものではなく、専門家に反対する医師や市民などからの多様な意見が反映されて開かれていくのです。エンドユーザーである患者が社会で声を上げること、医療者と対話をしていくことが、そのための第一歩でもあるのです。

[東洋経済ONLINE]


■小林麻央さんの「後悔」から一体何が学べるか
医療の不信を煽る週刊誌で患者は進化した?

加藤眞三
慶應義塾大学看護医療学部教授

医者に治療方針を丸投げする患者からはもう卒業して、「協働」の関係を築くべきです。

小林麻央さんのオフィシャルブログ、「KOKORO.」 が注目を集めています。以前、ニュースキャスターを務めていたことや、人気歌舞伎俳優、市川海老蔵さんの夫人であることもその一因でしょう。

ただ、注目されている最大の理由は、進行性乳がんという大病を抱えながらも、敢えてそのことを公表し、病気とわかってからの日々の思いを赤裸々につづっていることで、感性豊かな麻央さんの言葉の中に多くの人がハッと気付かされ、共感を覚えていることにあるのではないでしょうか。

小林麻央さんがつづった「患者としての後悔」

特に、9月4日の「解放」と題する記事には、患者としての気持ちが見事に表されており、心が揺さぶられます。
私も
後悔していること、あります。
あのとき、
もっと自分の身体を大切にすればよかった
あのとき、
もうひとつ病院に行けばよかった
あのとき、
信じなければよかった
あのとき、、、
あのとき、、、          
「KOKORO.小林麻央のオフィシャルブログ」byAmeba 9月4日

病気であることが発覚すると、その日から突然色々な問題に巻き込まれ、各局面で決断を迫られます。しかも、それらは普段考えてもいなかったことであり、てきぱきと判断するだけの心の準備も十分ではありません。

病気発覚後の患者には、次から次へと疑問がわいてくるのです。「わたしの病気は、一体どんなものなのだろう」「私の状態はどの程度なのか。その病気に対してどんな治療法があり、それにはどんな副作用がある?」「これからの経済的な負担はどうなるのか」「仕事は続けられるのだろうか」「安静にしていた方がよいのだろうか。あるいは、身体を動かしてよいのだろうか。動かしてよいのなら、どの程度まで?」「食事は制限されるのか」「医師にこんなことを質問して聞いてもよいのだろうか。自分の希望を伝えて、生意気だと思われないだろうか」「他の医療職の方に相談できる機会はあるのだろうか」「一体、どこの病院で診療を続けるのが良いのだろうか」「あの時の決断があるいは間違っていたのかもしれない。もう、手遅れだろうか。あるいは、もっといい方法があるのでは」…。

われわれは、「患者学」で武装するべきだ

このように、患者としての悩みはつきません。そして、これらの問題に対して時間の猶予なく決断していかなければならないのです。いや、決断することに時間の猶予があるのかないのかさえ、よく判らないかもしれません。 

そんな患者さんに対し、私は「患者のための患者学」を学びませんか、と呼びかけてきました。患者学の前に「患者のための」とわざわざ付けているのは、医療者が患者から学ぶ患者学、すなわち「医療者のための患者学」と区別するためです。患者と医療者の双方が患者学を学ぶことにより、よりよい医療が実現するのではないかと、考えているからです。

そして、小林麻央さんの後悔を知ると「患者のための患者学」は患者になる前からしっかりと身につけておく必要性があることに気付かされます。ですから、むしろ「市民のための患者学」と名付けて、一般市民の方にも準備してもらいたいと考えるようになりました。

「市民のための患者学」で身につけるべき内容を、わたしは以下の3つに分類してみました。
(1)患者と医療者の関係性
(2)医療情報の集め方・読み方(医療情報リテラシー)
(3)病気を抱えた自分の生き方の決断
3つの分野はお互いに関連し合いますし、これだけを学んでおけば完璧だというものではありません。しかし、少しずつでも前進できていれば、いざ患者になった時に役立つことは間違いありません。そこで、ここから「市民のための患者学」の入門編について、解説し紹介していきたいと思います。

現在、医療の現場では、医療者に対する患者さんの不信感が募っています。週刊誌などで、医療の不信を煽る特集記事が頻繁に組まれているからです。

「高血圧の薬は飲まない方がよい」、「がんになっても手術は受けてはいけない、抗がん剤治療は受けてはいけない」――。こうしたセンセーショナルな特集を組めば、その雑誌がよく売れ、よく売れるから次号にも特集記事を続けるという状況が続いているのです。そして、一つの雑誌が医療の特集で売れると、それを見た他の週刊誌もこぞって同様の特集を組むという現状です。

週刊誌の医療特集に「煽られる」のも1つの進化

実際、私の外来にも、これまで副作用の症状が現れていないのに「高血圧のこの薬は飲んでいて大丈夫ですか」と心配してたずねてくる患者さんがいました。「この高コレステロール血症の薬は、週刊誌に筋肉が壊されると書いてあり、怖いのでやめたい」と言われたこともあります。医療機関に助けを求めて訪れた患者さんが、医療者を信用できないとしたら、それはとても不幸なことです。何とかしなければなりません。

ただ、医療の歴史を俯瞰的に眺めてみると、このような対立は生じるべくして生じていることがわかります。この対立を経ることで、次の時代の医療に移らなくてはならないのです。

それでは、今までの医療はどんなものだったのでしょうか。それは専門家に患者が「お任せ」する、依存的な医療であったということができます。患者は受け身で説明を受け、ただ同意をするだけ。医師のいうことには逆らえません。「先生にすべてお任せしますから、魔法の薬で治して下さい」。そんな気持ちで医療機関を訪れる患者も多いのも事実です。

実際、ある程度治療方針の決まった病気なら、専門家に判断を委ねて患者は受け身となっているだけでも、問題はさほどありません。たとえば、肺炎になったり、膀胱炎をおこしたりすると、診療により投与される薬で菌が排除され、病気が軽くなります。骨折を起こしても、医師に任せて固定してもらったり、手術をうけることで、具合が良くなります。

ただ、自覚症状に乏しい慢性病の場合は、患者さんの療養生活が大きな鍵を握ります。たとえば、糖尿病や高血圧などの生活習慣病では、日々の生活をどう変えられるかが大切なのです。あるいは、がんやその他難病になったときの療養生活でも、患者さんの意志が大きくその経過を変えてしまいます。

1956年に、米国のサッシュ博士とホレンダー博士が論文に発表した医師(医療者)と患者関係のモデルによれば、病気の種類や状況に応じて、医師と患者関係は変わってくることを予言しています。

この表が作られたのは、60年も前のこと。それにもかかわらず、日本では現時点でやっと「説明ー協力」の関係の医療が出来つつある段階であり、まだ「協働作業」の医療は実現できていないことに驚かされます。しかも、60年前と比べて、今はメタボリック症候群などに代表される慢性病が一般的になっています。がんも、診断されてから5年以上生存する人が多くなっています。こうした病気の療養生活では、医師と患者の協働作業こそが大切なのです。

しかし、患者の側も医療者の側もその準備が充分にはできていないのが、現在の状況ではないでしょうか。

[東洋経済ONLINE]


■日本全国で「がん難民」が生まれる深刻な理由
「専門医を見つけたから安心」という勘違い

加藤眞三
慶應義塾大学看護医療学部教授

専門医だから安心して任せられる。そう思っていませんか?

「がん難民」という言葉をご存知ですか。全国各地のがんセンターや大学病院などの高機能病院で、治療ができなくなったがん患者が、医師から見放されてしまい、行き場をなくしてしまうという問題です。

がんセンターで「がん難民」が発生している?!

高機能病院には、一般的な病院にはないような高度な治療機器があり、専門医がいます。一見治療が困難な患者を受け入れてくれそうなイメージがあるのにも関わらず、患者が「難民」になってしまうのはなぜなのでしょうか。その理由を理解するには、専門医の思考法を知ることが必要になります。

現代の医師が患者を診療するとき、その思考法にもっとも影響を与えているのは、言うまでもなく「科学」です。言い換えれば、医師は科学者として教育され、働いているのです。

科学者としての医師に期待されるのは、①論理的である(理屈が通る)、②実証的である(科学的手法により確率・統計的に証明できる)、③普遍的である(世界のどこでも、誰にでも当てはまる)、④客観的である(冷静である)ことです。そして、そのような医師を育てる医学教育が行われます。このことによって、ある一定以上の医療水準を維持することにつながっている面もあります。客観的である(冷静である)ことであり、そのように医学教育がなされます。これによって、ある一定の医療水準を維持することにもつながっている面もあります。

こうした科学を主とする現代医療は、「医学モデル」と呼ばれます。医学モデルでは、病気には(1つの)原因があり、その原因の結果として病気が生じていると考えます。そして、病気の原因を見つけ出して、それを取り除くことが医療の目標となります。感染症であれば、細菌やウイルスを薬により除去すること、がんであればがんの組織を手術で切り取ったり、放射線でたたいたり、薬でつぶすといった具合です。そして、このモデルにおいて医療を行う主体は、専門家である医療者となります。

こうした科学的な医学においては、専門分化が進んできました。医学の進歩とともに、知識と技術の範囲が広くなり、奥が深くなってきたための当然のことです。医学全般を1人の医師で全てをカバーすることなど、とてもできません。専門医として、専門分野を決めてカバーする範囲を狭くすることで、その専門分野における知識と技術に精通することができるのです。

専門医は専門分野に対して責任を持つ

専門医は、自分が専門分野とする病気に対して責任感を持ちますが、専門でない分野の病気に対しては、自分には関係ないし、責任もないと考えがちになります。そして、専門分野の病気であっても科学的に治療効果などのエビデンス(科学的証拠)が積み上げられた問題の範囲内で、医療をしようとします。治療法が確立していない病気や治療が望めない進行度になると、どうしても興味を失いがちになります。

例えば、私が過去に経験したこんなケースがあります。ある日救急外来に来た患者さんは、主に心不全の症状が見て取れました。そこで、私は循環器内科の医師に、この患者さんを診てくれないかと依頼しました。しかし、その医師は、一般内科で診てもらえばよいと、その依頼を断りました。彼の発想はこうです。心臓カテーテルなどによる治療が必要な心筋梗塞や狭心症であれば、その専門である自分の出番だけれども、そうでないならば自分が診なくても良い、という考え方をするのです。

話だけ聞くと、ずいぶん了見の狭い医師のように見えますが、これは専門医にとってけっして珍しい考え方ではありません。患者が専門医を受診すると、専門医はまず、自分の専門分野の対象となる患者かどうかを判断するものです。そして、対象から外れてしまうと、関心を失ってしまいます。専門外のことはよく解らないから、なるべく関わりたくないと逃げ腰になるのです。

自分の専門の範囲内の患者であることが解れば、次に、命に関わる病気かどうかを判断します。そして、命に関わらないものであれば、まあ放置しておいて良いのではないかと考えがちです。専門医は、原因を明らかにして対処する「原因療法」を第一と考えますから、症状を抑えておくだけの治療は「対症療法」として軽視しがちになります。

したがって、血液検査や画像検査で異常が見つからなければ、とりあえずは命に関わる病気ではないと判断し、「検査をしたけれども、どこも悪いところは見つからない」と答えてしまいます。

また、専門の範囲内ではあっても、自分が治せない、あるいは治せなくなった患者とは関わりたくないという気持ちが働いても不思議ではありません。医師にとって、治せないことは「敗北」となるからです。

医師という職業は、自分が提供した医療によって治すことのできる患者が相手であれば、治療が成功したあかつきには喜ばれ、感謝されます。しかも、医師不足の状態が続いていますから、治療の可能な患者がいつも沢山待っている状態にあります。そんな状況の下で診療をしていると、治せない、あるいは治せなくなった患者とは関わりたくないという気持ちがはたらいても不思議とは言えません。

冒頭で紹介したように、現在全国各地のがんセンターや大学病院などでは、治療ができなくなって患者が医師から見放されてしまうという「がん難民」の発生が問題になっています。これは、上に述べてきたように治すことのできない患者が医師の「自己効力感」を打ちのめすことを避けようとする、医師側の心理の問題でもあるのです。

治せる患者を優先して診療、という使命感の裏返し

ただ、これは単に医師が敗北を嫌うだけではなく、治せる患者を優先して診療しなくてはならないという使命感の裏返しでもあります。重装備の医療機器を備えた急性期病院であるほどそう考えるでしょう。また、重装備の病院では、重装備を必要とする医療を行わなければ無駄が出てしまう、という医療経済や保険診療上の問題もあるのです。つまり、「がん難民」の発生はある程度仕方がない面があるのです。

では、それを避けるためにはどうすれば良いのでしょうか。高機能病院がその規模を大きくして、治療ができない進行したがんや難病の診療を行う部門をつくることは解決法の1つです。しかし、それはおそらく医療経済的にも実現は難しいと思います。また、進行したがんの患者が、家族のいる自宅から離れた場所で医療を継続して受けなければならないという問題も生じます。私は、その様な方向に医療が進んでいくことは理想ではないと考えています。

それに代わる解決法は、患者ががんセンターや大学病院などの医師に頼りすぎず、「かかりつけ医」をほかに持つことです。高機能病院はあくまで、その機能を患者が利用するだけの場所であると割り切ってしまい、自分が心から頼りにできる主治医は別に持つのです。そうすれば、高機能の病院での医療の対象とならないような病状になっても、その後の医療について相談できることができます。

つまり、高機能病院から離れることになっても、自分は「がん難民」とは感じないような仕組み作りをすることが必要なのです。高度な専門医は、その機能を利用するだけだ、と患者側が見限ることが1つの解決法です。

さて、ここまで専門医に頼りすぎないようにということで話は進めてきましたが、もちろん専門医の中にも素晴らしい医師が沢山いることは事実です。治療の難しい病気であればなおさら、専門医の中からよい人を見つけることが一番大切になります。

『治るという前提でがんになった』(幻冬舎)の著者、高山知朗さんは、40歳代前半に悪性脳腫瘍と白血病という2つのがんを発症しましたが、IT関連会社を立ち上げたその経験と能力、そして人脈をフルに活用して、両者を克服してこられました。患者学を自然に身につけているお手本となる方です。

高山さんは、治療法に関する情報の収集を行い、どの病院が良いかを的確に判断し、良い主治医に巡り会っています。脳腫瘍を治療した脳外科医も、白血病を治療した血液内科医も、専門医でありながら高圧的な態度をとることはなく、患者の自律性を重んじ、患者の気持ちをとても大切にしておられるようです。

両方のがんが治ったからこそ、「がん難民」にならなかったと言うこともできますが、おそらく高山さんなら高度機能病院での治療法がなくなったときでも、その病院にしがみつくことなく、別の道を探されるのではないかと思います。

専門医の悪口(本当は悪口を書こうとしているのではありませんが、悪口のように聞こえる人もいるでしょう)をさんざん書いていながら、専門医にもこんなに人間的な医療を提供する医師がいることを知ることで、ホッと胸をなでおろす気持ちになりました。

患者が医者を見限ることも大切

加えて、わたしが研修医だった30年以上前にはごく当たり前な存在だった患者に高圧的な医師は、今では少数派になっています。時代とともに医師の側も変化してきています。

そのような変化の時期だからこそ、自分に合った医師を主治医として選択することが、よい医療を受ける上で決定的に大事となるのです。

医療者に変化を促すのも患者の力です。高圧的な医師は見限ってあげれば次第に絶滅機種となっていくのですから。

[東洋経済ONLINE]

ここから続き

Posted by nob : 2017年01月17日 13:37