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ライフスタイルと社会構造を(縮小)変革せずして未来はない。。。

■人類は環境問題から逃れられない
はるか古代からあった森林の大規模伐採と再生可能エネルギーの限界
石井 彰

 人間以外の動物の生活は、当然のことながら、食物から得る熱エネルギーが、利用エネルギーのすべてである。体内に摂取した食物の分解熱によって、細胞の低エントロピー状態(秩序)を保ち、生命活動で増大するエントロピー(拡散された無秩序・汚れ、すなわち排泄物や廃熱)を体外に捨てて活動を行っている。夏に熱中症で死ぬというのは、外部気温が上昇して廃熱できなくなった、すなわちエントロピーの流れを維持できなくなったということである。

 生命というのは、ノーベル化学賞を受賞したプリゴジンの言う「散逸構造」(物質やエネルギー/エントロピーの流れの中にのみ存在し得る渦などの一時的な構造:例えば台風など。動的平衡とも表現される)そのものであり、エネルギーの流れが止まると細胞内のエントロピー(無秩序)が増大して死んでしまう。高度に秩序化された大人口社会システムも散逸構造であり、低エントロピーのエネルギーを外部から注入し続けないと、たちまち崩壊してしまう。

工業化、技術革新とはエネルギー源の低エントロピー化

 産業革命前の狩猟採集社会や農業社会という伝統社会では、1人当たりのエネルギー消費、例えば薪炭による炊事・暖房・鉄器/土器製造、牛馬による農耕・土木工事、水車・風車による脱穀等を含めたエネルギー使用量は、食物自体を含めて食事で得るエネルギーの2〜3倍レベルであり、このレベルが概ね普遍的、かつ長期不変であった。

 産業革命でこれが、食事で得るエネルギーの5〜10倍、すなわち伝統社会の3〜4倍に急増している。しかも、比較的高エントロピーの薪炭等から、低エントロピーの石炭にエネルギー源が革命的に変化している。これが産業革命の本質であり、社会自体も生命体のように高度に秩序化されたシステム、すなわち高度な散逸構造になった。

 工業化、技術革新とは、本質的に1人当たりエネルギーの多消費化であり、同時にエネルギー源の低エントロピー化という事である。エネルギーの問題は、カロリーやジュールといった単位で示されるエネルギーの量だけでなく、エントロピー値で表されるようなエネルギーの質の両面を考える必要がある。単にエネルギー量が多いだけでは、役に立たない。例えば、体育館内の25度の空気は、大量のエネルギー(カロリー)を持っているが、エントロピー値が高くて何の役にも立たない。

人口よりエネルギー消費量の増加率の方が大きい現在

 現代の日本は、1人当たり食事エネルギーの約40倍のエネルギーを消費して生活しており、米国はなんと100倍の生活である。現在、日本でも世界でも、エネルギー消費の9割以上が、低エントロピー源、すなわち高効率・高温の石油、石炭、天然ガス等の化石燃料と、原子力である。

 産業革命開始時と現在では、世界人口は約8倍に、エネルギー消費は約30倍になっており、1人当たりエネルギー消費は産業革命前の約4倍になっている。人口増加率よりも、エネルギー消費量の増加率の方がはるかに大きい。この点が肝である。

 現代文明、すなわち高度に組織化・秩序化された大人口維持システムは、高効率、高温のエネルギー源を大量に投入しないと維持不能なのだ。贅沢を止めたり、省エネに邁進したりしても、おのずから限界があり、60億人超の経済・社会システム、すなわち高度な散逸構造は、エネルギー問題と環境問題から原理的に逃れられない。

 この辺の現代文明に関する根本的な構造理解は、19世紀半ばの英国の経済学者ジェボンズが嚆矢であり、それを受け継ぐ形で20世紀前半にアイソトープ研究でノーベル化学賞を受賞した英国のソディが思索を深めた。さらに、20世紀半ばに米国の数理経済学者レーゲンが、明確にエントロピーと経済活動の関係の定式化を行った。日本では、1980年代に東大の経済学者玉野井芳郎氏が先駆的な研究を行っている。

 しかし、これら文明の本質的理解は、主流の経済学でも自然科学の分野でも、現在に至るまで等閑視されている。

 エネルギー源と人口と環境の相互矛盾の関係史をもう少し具体的に見ておこう。

人口増加を決定的にした火の使用

 一般に人類の歴史は約200万年前のホモ・ハビリス、ないし180万年前のホモ・エレクタスの時代に遡るとされるが、いずれにしても50万年前頃まで(150万年前との説もある)に火の使用が一般化する前の「人口」は、アフリカに限定され、非常に小さく、せいぜい数万程度ではないかと言われている。

 しかし、火の使用が一般化した結果、それまで食料にならなかった堅果類やイモ類、腐りかかった肉、さらには危険な寄生虫を含む動物が食用になり、人口と生存域は大きく拡大したと考えられている。だから、ホモ・エレクタスの骨はアフリカ以外でも多数発見されている。焚火という外部エネルギー使用が、人類の繁栄、すなわち人口増加を決定的にしたのである。

 それ以前は、いかに石器など道具を使用したと言っても、食料はほかのサル類と同様に、果物と、腐っておらず、しかも危険な寄生虫を含まないシカ類など安全な動物種の生肉に限られていたので、ほかの肉食獣や草食獣に比べて肉体的に非力で、広範囲の寄生虫と共存関係を築いていなかった人類は、個体数も生存域も大きく拡大することはできなかった。

 今から1万年前頃になると、今度は火、すなわちエネルギーを大量使用して製造された土器によって、さらに人口は格段に増大したと考えられる。土器で煮炊きが初めて可能なったため、食用の対象物がさらに大きく広がったのである。

 これら火の使用によって、既に述べたように、約1万年前の農業革命直前には、世界の人口は1000万人程度にまで増加していた。串焼き、石蒸し、煮炊き等の調理技術は、人類史にとって決定的な重要性を持つ。

料理は人類史における最大重要事

 料理が人類史の最大重要事と言うと、グルメ志向ではない“体育会系”の人や「武士は食わねど高楊枝」的な人の中には、何かピンとこない面が多いかもしれない。しかし、それは甚だ認識不足というものである。この火による調理技術は、長年のダーウィン的淘汰でDNAに組み込まれたのか、単なる文化伝統かは判然としないながらも、世界のどんな未開民族にも深く刷り込まれている。

 例えば、日本の生食文化に接触したことがない、アフリカ奥地の人間も、アマゾンの原住民も、刺身や生卵を差し出されると、例外なく怖気づく。文化人類学の巨星、レヴィ・ストロースの集大成である「神話学」の中でも、各地の神話の最重要テーマの一つとして、火で調理されたものとそうでないもの区別が、野性と文化の2項対立を象徴するものとして挙げられている。

薪炭採集による森林破壊で滅亡した二大文明

 人類最古の文明であるメソポタミアでは、当初の約1000年間は、建造物に日干し煉瓦が使用されていたが、5000年前頃からは、より堅固な素焼き煉瓦が使用され始め、3000年前頃にはピークに達し、多くのモニュメントや大型建築に驚くほど莫大な量が使用された。

 その結果、レンガ製造の燃料として、周囲の森林は大規模伐採されて枯渇し、雨期に大洪水が多発するようになる。この辺の事情は、人類最古の記録された叙事詩と言われるギルガメシュ叙事詩に記され、森林伐採による度々の大洪水の記述は、後のユダヤ教の聖書にある「ノアの箱舟」伝説のもとになったのではないかとも指摘されている。

 メソポタミア文明の中心であった都市国家、ウルとウルクは、最盛期に20〜30万の人口を抱えていたとされるが、森林伐採による土壌流失と、その間接的影響による灌漑地の塩害によって農業の人口支持力は激減し、やがて文明は崩壊した。

 約4000年前に栄えたモヘンジョダロの遺跡で有名なインダス文明では、都市自体が素焼きレンガで建設されていたために、その膨大な量のレンガ製造のための薪炭用に、周辺の森林が徹底的に破壊し尽くされた。結果、雨による土壌流失と交易港が土砂で埋まった事に伴って、滅亡したとの説が有力である。過度な薪炭採集による森林破壊で、人口が激減したのだ。

はげ山だらけの風景画が物語る森林消滅

 暖房・調理・土器製造・冶金用等の熱源としては、産業革命直前まで、世界中で薪炭がほとんどであった。薪炭の最大の問題は、容易に手に入るので、容易に資源枯渇しやすいことであった。

 欧州では、次第に興隆してきた製鉄産業や、窯業、レンガ製造、暖房・炊事の燃料として、18世紀までに森林を大規模破壊してしまった。産業革命の直前には、欧州の薪炭消費量は年間2億トンに達し、スイスやオランダの全面積に相当する森林が4年毎に消滅していた(年間約1万平方キロ)。

 これは、建築用や造船用の木材需要を除外した数字である。だから、当時の風景画や人物画の背景は、はげ山が多い。

 このままでは、メソポタミアやインダス文明のように、砂漠化の進行が必至であった。英国ではほぼ森林が消滅し、価格高騰で木炭を使えなくなった製鉄業が存亡の危機に瀕するようになったので、やむなく「汚い」石炭の使用を思いつく。

牛馬という人口と競合する再生可能な動力源

 今から約5000年前に、藁などの廃棄農産物を飼料に、牛を動力源として利用する事が始まったと考えられている。灌漑用の水汲みや、犂(すき)をつけて耕作、粉ひき、物資の輸送に使用された。約4000年前には、馬を移動用に使用し始めたと考えられている。

 しかし、馬引き戦車のシャリオを除いて、乗馬用、荷駄用以外にはほとんど使えなかった。欧州の中世になって肩幅が狭い馬にも牽引できるような馬具が開発されて初めて、馬車など運搬用や耕作用に使用できるようになった。

 一方、牛は馬ほど神経質ではなく、かつ肩幅が広くて牽引具が容易に装着でき、移動速度も遅かったので扱いやすかった。また必要な食料も少なくてすみ、馬よりもずっと有用であった。牽引馬具の発明前、動力としての馬の利用は、人間の4倍の荷を背負うことができるが、同時に人間の4倍の穀物を食べるため、農民から見ても為政者から見ても、軍事用以外ではほとんど意味がなかった。

 ところが、牽引馬具と蹄鉄の発明によって、馬車など牽引に使用すると人間の約15倍の荷を運搬することが可能になり、一気に馬車文化が興隆した。アナール派歴史学の代表格、ブローデルによると、15〜18世紀の欧州において、牛馬の牽引力は全体でほぼ1000万馬力、すなわち、仮に牛馬が労働者の 15倍効率的とすると、約1億5000万人分の労働力、すなわち当時の欧州人口の約2倍に相当した。

 当然、牛馬の飼料用の農地は莫大な面積を占め、人間の食料用の農地と激しく競合した。従って、牛馬を増やして農耕の効率を上げても、人口支持力は容易には上がらない。英国では、約350万頭の馬が年間400万トンの穀物と干し草を食べ、それに必要な農地面積は6万平方キロと、英国全面積の約3割をも占めることとなった。これでは、人口が急増しようがない。

使い勝手の悪い再生可能な動力源、水車と風車

 紀元前後のローマで数馬力程度の水車が発明され、灌漑や製粉に使用され始める。

 面白いことに水車は、これらの仕事を奴隷から奪ってしまったので、一時ローマ皇帝が奴隷制度保護のために使用を禁止している。川だけでなく、欧州の中世には海岸で潮汐水車も発明されて実用化されている。水車は次第に大型化、効率化され、産業革命時までには、数十馬力のものまで現れた。

 用途も大いに拡大され、金属の鍛造や皮なめし、旋盤、鉱石の粉砕等にも利用されるようになったが、決定的だったのは、12〜13世紀から紡績に大規模に使われだしたことである。これが後に石炭利用の蒸気機関に置き換わり、産業革命となる。

エネルギー不足だった産業革命前

 ブローデルは、15〜18世紀の欧州では、50〜60万基あった水車の能力は150〜300万馬力と推定しており、すなわち先の変換率では労働者 2000〜4000万人相当であった。ただ、水車の欠点は、川などに立地が制限されるだけでなく、冬の川の凍結、夏場の渇水、大水の際の破壊等で、定常的な稼働が困難であった事だ。

 一方、風車は3000年前のエジプトから灌漑用に使用されだしたが、水車と同様の種々の用途に本格的に使用されだしたのは7世紀のイスラム圏であり、欧州では十字軍が中近東から風車を持ち帰った12世紀からである。中国でも一部で使用されていたが、大規模なものではなかった。

 欧州では数百馬力の大型のもの作られたが、水車に比べると、文字通り「風任せ」のため、さらに使い勝手が悪く、低湿地のために水車がほとんど使えないオランダ周辺以外では、あまり普及しなかった。ドン・キホーテが、巨人と間違えて風車に突撃したのは、滅多にお目にかからなかったからである。

 ちなみに、ブローデルは15〜18世紀の欧州で、資源が枯渇しかかった薪炭について、おそらく400〜500万馬力、すなわち6000〜7000万人分の労働力に匹敵したと推定している。

 彼は、産業革命以前の経済の最大の制約は、以上のような低効率の再生可能エネルギーに全面的に頼っていたので、なんといってもエネルギー不足というという事であったと述べている。(参考文献:田中紀夫『エネルギー環境史』、フェルナン・ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀 日常性の構造2』、槌田敦『資源物理学入門』、室田武『エネルギーとエントロピーの経済学』)

[日経ビジネス]

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Posted by nob : 2009年11月11日 15:39