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自らへの納得と相応の余裕の分だけでしか、、、人は他人を思い遣れない。。。

■他者と自分を比較していがみ合うのではなく
小さな違いを前提として共存する姿勢を

被災地に生まれた「小さな違い」で一体感が揺らいでいる

 最近、仕事で東日本大震災の被災地に行く機会がありました。

 自治体の人や支援に携わる人たちの話を聞くと、震災から1年近く経って被災者の状況に変化が起こり始めているといいます。

 震災から時間が経つにつれ「小さな違い」が顕著に現れてきました。たとえば仕事の面だけを考えても、早い時期に仕事が見つかった人がいる一方で、なかなか見つからずに今でも求職を続けている人がいます。

「あの人だけ見つかってずるい。私だけ損をしている」

 こんな不満をあからさまに口に出す人はいないようですが、ちょっとした違いに不満を抱える人も増えてきているようです。

 特に福島では「小さな違い」が目立っています。原発事故で家に戻れない人や、別の場所へ行ったきりの人は別にして、事故発生直後や夏休みの間など一時的にそこを離れた人とそのまま居続けた人の間に、何かぎくしゃくとした空気が流れているというのです。

 医療関係者の例で言うと、一時的に被災地を離れた医療関係者と、現地に残って医療に従事した人がいます。特に医療従事者としての強い使命感をもって残った人は、あまりはっきりとは言わないにせよ、一時的に離れた人に対して複雑な感情を抱いています。反対に、一時的に離れた医療関係者にも負い目を感じている人がいるようです。

 震災から1年が過ぎようとしている今、こうした「小さな違い」が顕著になればなるほど、震災初期にあった「被災者全員が何事も共有し、みんなで一緒に頑張ろう」という雰囲気が揺らいでいきます。

人間は比較した相手を憎んでしまう生き物

 逃げたほうがよかったのか、残ったほうがよかったのか。どちらが正しいと断定できる問題ではありません。家に戻れない人は別にして、福島の状況をどう捉えるかについては人それぞれとしか言いようがないのです。

 よく考えれば、同じ被災者でもまったく同じ条件の人は誰もいません。

 私はこうなのにあの人は違うなどと比較しても意味がないのに、人は人、私は私と振る舞うことが、なかなかできないものです。

 自分と他人を比較して「小さな違い」に一喜一憂するのは、被災地に限った話ではなく人間の根源的なことかもしれません。

 旧約聖書「創世記」に出てくるカインとアベルの兄弟の話を覚えておられるでしょうか。カインとアベルは、ヤハウェという神に収穫物を捧げます。兄カインは農作物を、弟アベルは羊を差し出しました。しかし、ヤハウェはカインの捧げ物を無視してアベルの羊だけに関心を示します。すると、嫉妬にかられたカインはアベルを殺してしまうという話です。

 興味深いのは、ヤハウェに不当な扱いを受けた兄カインが、弟アベルを殺すという行動に出る点です。普通に考えれば、なぜ私の捧げ物に関心を持ってくれないのかとヤハウェに文句を言うべき話にも思えます。

 しかし、旧約聖書に書かれているのは、自分の状況を他人と比較して理不尽な思いをした人は、背景(この場合はヤハウェ)にあるものではなく比較した他人(この場合はアベル)が憎くなってしまうということです。

 被災地では、全員が地震による災害に遭遇したという共通点があります。

 共通点があるなかでの比較から生じる「小さな違い」のほうが、より複雑な問題になることが多いようです。たとえば、企業で働く女性を例に取りましょう。

 職場で働く女性という共通項はあるものの、「結婚して子どもがいる女性」と「シングルの女性」の間には、埋めがたい溝が横たわることがあります。

 子どもがいる女性は、育児をしながら働いている自分はたいへんだと思っています。一方のシングルの女性は、子どもがいる女性が定時に帰ってしまうので、その分の仕事を押し付けられて自分のほうがたいへんだと思ってしまいます。

 外から見ると働く女性としてひとくくりにされてしまいがちですが、両者の間にある温度差は目に見えないだけに深刻だという報告も出されています。

 同じようなことは、不妊治療のために通院する女性にも言えます。不妊外来には不妊症に悩む女性が来ているのだから、同じ悩みを抱える者同士が和気あいあいとしていると見られがちです。

 それは必ずしも事実ではありません。「治療の結果妊娠した人」と「治療をしてもまだ妊娠していない人」の間に生じる違いもあれば、「子どもが1人もいない人」と「2人目にチャレンジしている人」との違いもあるのです。

 こうした違いにナーバスになり、何とも言いようのない冷たい空気が流れているばかりか、直接対面しないインターネットの掲示板では攻撃し合うこともあるといいます。

 被災者、職場の女性問題、不妊に悩む女性すべてに言えることですが、お互いがまったく理解し合っていないわけではありません。それぞれが共感し合い、抱えるたいへんな状況にエールを送る場合も多いものです。

 ただ、同じ状況だから悩みを共有して仲良くやれるというほど、単純にはいかないものです。むしろ、人間は同じ状況だからこそ「小さな違い」を敏感に感じ取り、それに苦しんでしまうことがあるのです。

共通することと小さな違いを使い分ける姿勢を

 同じ悩みを抱えた者同士は、みんな同じでなければならない。違うとなったら何も一緒にできない。人はそう考えてしまう傾向があります。

「小さな違い」だから乗り越えられるという考えには無理があります。反対に、「小さな違い」に目をつぶっていると気がつかないうちにストレスを溜めてしまいます。

 同じ体験をしたのですから、共通する部分があるのは紛れもない事実です。

 被災者としての共通の話題や共有できる基盤はあるのですから、そういう部分は一緒に考えたり行動したりして、つながりを深めることは大切だと思います。

 その一方で、家族の状況や仕事の状況は人それぞれ違って当然です。価値観のすべてを共有できるわけではないということも正しく認識しておく必要があるでしょう。

 共通の基盤のなかにも「小さな違い」があることを前提として、共有すべきところと個人がそれぞれ対処すべきところをほどほどに使い分けていく。こうした姿勢を持つことによって、お互いの理解が深まるのではないでしょうか。

[DIAMOND online/香山リカの「ほどほど論」のススメ]

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Posted by nob : 2012年02月23日 06:33