« 寂しくて悲しい。。。 | メイン | 利害は善悪の判断をも捩じ曲げる。。。 »

それそれ、、、生涯労働社会の構築こそこれから進むべき途。。。Vol.2

■98歳ガール、パリに出張撮影
人生三転の女性報道写真家、笹本恒子氏

 2012年9月1日、フォトジャーナリストの笹本恒子さんは98歳の誕生日を迎えた。「60歳で還暦を祝うなんて早すぎるわよね。お祝いはもう少し先でもいいんじゃない?」と笹本さんは笑う。そう言うのも無理はない。笹本さんは、普通なら引退を考えそうな71歳という年齢から写真家としての人生を再スタートさせ、何度目かの「大輪」を咲かせたところだからだ。

 2012年8月中旬、笹本さんは東京・蔦谷書店にいた。写真集『恒子の昭和』の出版記念ミニ・トークショーとミニ写真展が開かれたからだ。歴史上の人物や出来事を独特の構図と目線で写した傑作写真の数々を、スライドで見せながら笹本さんが解説するこのイベントには、開始の数時間前からファンが押しかけ列をなした。

 ここ1年ほど毎日、メディアの取材やトークショー、講演などに引っ張りだこで、本業の撮影に取り組む暇がないのが悩みだ。「忙しすぎて、撮影の仕事をする暇がないの」。少女の頃から香水が好きで、笹本さんに近づくと、このところ愛用しているジバンシィの香水がほのかに優しく香る。

自伝が5万部の大ヒット

 笹本さんは日本で最初の女性報道写真家とされ、98歳の今も愛用のライカを手に仕事を続けている。「最近になってデジタルカメラも使い始めたの」。以前から総合誌や生活情報誌などに写真を掲載したり寄稿したりしていたが、2010年に開いた写真展「恒子の昭和」が話題を呼んだのをきっかけに人気がブレーク。2011年に出版した自伝的著作『好奇心ガール、いま97歳』(小学館)は5万部のヒット作品となった。

ph01.jpg
トークショーで話す笹本恒子さん

 勢いに乗り、多忙なスケジュールを縫いながら、2012年9月下旬にはパリの撮影出張に旅立つ。国籍を問わずフランスに貢献した芸術家が入居できる、郊外の老人ホームを取材・撮影するという。「年相応に見られるなんて、損よね。ありがたいことに私はいつも20〜26歳ぐらい若く見られるのよ」。穏やかな笑顔を浮かべる笹本さんだが、写真家、洋服の仕立て、フラワーデザイン講師など、まさに時代の空気を読んで「手に職」をつけながら、困難をものともせず、長い道のりをこつこつと歩んできた。

 笹本さんは現在、規則正しい生活を守っている。毎朝5時に自然に目覚める。テレビをつけて英会話の講座を見る。その後「みんなの体操」で硬くなった体をほぐして、しゃきっと体を目覚めさせる。新聞の朝刊に目を通す。取材したい人を見つけると切り抜き、1980年頃から毎日の出来事や考えたことなどを書き留めてきたメモ帳に挟む。時には、新しく覚えた英会話のフレーズを書き込むこともある。

 実は、英語は女学校時代に習って以来、独学で学び続けている特技の1つだ。社会の中で女性に対する偏見が強かった時代に、「職業婦人」として生き残る上でも、大きな武器になった。8時頃に自炊する朝食は、毎日、カフェオレとパン。女学生時代から、無類のパン好きなのである。そして、化粧をして身だしなみを整える。数年前まではテニスも楽しんでいた。

 「かつては女人禁制の神域と思われていた職業の分野すらも、ぢりぢりと女性の侵蝕を蒙っている」。後に日経連初代専務理事となった前田一氏は1929年(昭和4年)、自著『職業婦人物語』にこんなことを記していた。そもそも女性が働くこと自体が煙たがられた時代だったが、少女のころの笹本さんは「絵描き、小説家、新聞記者」のどれかになりたいと本気で夢見ていた。長い人生の中ではいったん写真から離れざるを得なくなった時もあった。「自殺を考えたことも2度ありました」(笹本さん)。だが、持ち前のガッツで新しい技術を次々と吸収して世の中を渡り、幾度も職を変え、2度の結婚を経験した。時代を全力で駆け抜けた笹本さんの姿に、とりわけ中高年女性は熱い視線を送る。

 そんな笹本さんが報道写真家の仕事に携わるようになったのは、ごく身近な出会いがきっかけだった。

「お嬢さんカメラマン」の意地

 笹本さんは、東京の呉服商「豊田屋」の番頭の次女として生まれた。「恒」は、両親が「恒久平和」の願いを込めて付けた。生家では1920年代後半、自宅の離れを報知新聞記者である小坂新夫さん夫婦に貸していた時期があった。

 「当時、作家や新聞記者は社会の中で格下の仕事とされていたので、家を借りるのが大変だったようでした」(笹本)。この小坂氏が後年、高等女学校を中退して絵の勉強に励む笹本さんに、新聞の社会面でカットを描く仕事を紹介してくれたのだった。

 さらに1939年、小坂さんが林謙一さんというジャーナリストを笹本さんに紹介した。内閣情報部などを巻き込んだ日本の宣伝のための「写真協会」を立ち上げた人だ。

 「戦争でも、日本は写真による宣伝戦に負けている。日本はもっと正しく自分の国を宣伝しなければいけない」と力説する林さんの言葉に、「イラストの仕事でもいただければ」という軽い気持ちで事務所を訪れた笹本さんは感銘した。林さんはさらにこう言った。「日本にはこうしたフリーの報道写真家が少ない。女性は1人もいない。女性の報道写真家になりませんか?」。

 技術革新が進む中で、カメラの世界ではライカが登場し、これまでにない社会派の「グラフ誌」が次々と生まれた。先鞭をつけたのが1936年、写真でニュースを伝える雑誌として登場した米国の「ライフ」誌だ。創刊号の表紙は、マーガレット・バーク=ホワイトさんという女性写真家が撮った写真だった。笹本さんは、兄が時々買っていたライフ誌で見た彼女の作品を思い浮かべながら、幾度か逡巡しながらも「女性でもきっとできる」と、報道の世界に身を投じる決意をした。27歳の時のことである。

 小柄な笹本さんが写真を撮る姿は、当時、好奇の目で見られることも多く、周囲からは「お嬢さんカメラマン」と呼ばれた。だが休日返上で仕事に臨み、夜の撮影も引き受けた。そして外国人に対しても得意の英語を生かして臆さず話しかけてシャッターチャンスをとらえる笹本を、周囲はやがて一目置くようになった。

 終戦後には結婚し、地方紙や婦人紙での記者経験を経て、1947年にはやはり写真家だったと夫と2人でフリー写真家としての活動を始めた。国民が活字を渇望した戦後の出版ブームに乗ったことで、自分から売り込みをしなくても、仕事が舞い込んでくるほど多忙だったという。

 「仕事ができる人間は大いに仕事をするべきだ」。そう考えた夫は仕事の面でも数々の助言をしてくれ、理解のある人だった。だが後、あまりの忙しさに、笹本は後に、自ら夫婦関係に終止符を打つことになった。「とても立派な人でした。でも、仕事も家のことも、忙しくて忙しくて、どこかに逃げ出したくなっちゃったの」と、笹本さんは言う。

 順調だったかに見えた仕事も転機が訪れた。毎日、現場に通ってトラックに乗り、撮影したという「60年安保闘争」が終わった頃、長年写真を提供してきた雑誌が次々と廃刊になったのだ。この頃、皇太子夫婦の成婚パレードをきっかけに、テレビが一般家庭に普及しつつあった。また写真家の数が増え、競争は激しくなる一方だった。気がつけば積極的に売り込まないと、仕事が得られない時代に突入していた。

 写真だけでは食べていけない。そこで、確実な収入を得るため1962年、49歳の時に開いたのが注文服のサロン「ササモト・デザイン・ルーム」だ。女学生時代に学んだ洋裁の腕を生かした。「芸は身を助けるって本当よ。お勤めしながらだって、何か勉強していれば絶対に将来役に立つ」。景気も上向き、2人の従業員を雇って3年ほど経営は順調だったが、既製服が大量に市場に投入されると、利益が薄くなってきた。

 そろそろ次の仕事を探さなければ。そこで笹本さんは52歳からデザイン学校に通い、欧米から入り込んだ「フラワーデザイン」の勉強にゼロから取り組んだ。「人の3倍は勉強したのよ」(笹本さん)。やがて教えてほしいという友人が現れ、1967年、53歳の時に『フラワーデザイン教室』という本を出版するまでになった。

 フラワーデザインがブームになったこともあり、講師の仕事が増えていった。やがて、写真の撮り方からカラーコーディネートまで、教える仕事を10年近く続けることになった。フラワーデザインが下火になると、今度はアクセサリーなどを作って稼ぐなど、次々と稼ぐ技術を身につけていった。気づくと1970年以降、写真の世界からは完全に遠のいていた。

パリ出張や被災地支援にも意欲

 とはいえ、45歳ごろからの約20年間は、再婚した夫をめぐる人間関係や家庭の事情などで精神的につらい時期だったという。1980年には恩人である林謙一氏が死去。笹本さんが写真家としての復活を遂げるきっかけは、夫が末期がんで亡くなった後の71歳の時、1985年のことだった。昭和時代に撮りためた写真を素材にした写真展開催の話が、にわかに持ち上がったのだ。

 貴重な写真の数々を紹介した写真展は新聞でも紹介されて大成功。それをきっかけにフリーの写真家として再始動した笹本さんは、やがて明治生まれの女性がまだ健在である間に、撮影していこうと思うようになった。「昔の女性は、男尊女卑の厳しい時代に、すべてをこなしながら才能を開花させていった。本当にすごいと思います」。1992年には写真集『輝く明治の女たち』を出版、同名の写真展も開くこととなり、思いを形にした。東日本大震災の後は復興が遅れていた大船渡まで足を運び、被災者のため、持ち前の洋裁の技術を生かした洋服作り教室を開いた。

 さて、98歳の今。笹本さんの頭の中は、出発準備を進めているパリ郊外の芸術家向け老人ホームを撮影する海外出張をはじめ、今後の撮影計画でいっぱいだ。「地方でいい仕事をしている、無名の方々を撮影させていただき、たくさん紹介したいの」。その視線は、平和だが不確実な時代を彩る、新たな出会いへと向けられている。

[日経ビジネス]

ここから続き

Posted by nob : 2012年09月14日 12:58