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死に方は生き方の帰結、、、心の中では死は別離ではなく、ただ隣の国に移るだけのこと。。。

■親を幸せに死なせるために、今考えておくべきこと
秋山 知子

超高齢化社会で多くの人がいつかは直面する「高齢の親の最期」。いかに看取るか、末期医療の何を選択し、何を選択しないかの知識と準備が親の最期を大きく左右する。医師・作家の米山公啓氏に、親も家族も納得する「死なせかた」を聞いた。(聞き手は、秋山知子)

米山 公啓(よねやま・きみひろ)氏
1952年生まれ。作家、神経内科医。聖マリアンナ医科大学第2内科助教授を98年に退職。米山医院(東京都あきる野市)での診療の傍ら執筆や講演活動を続け、著書は250冊以上に上る。

近著の『親の死なせかた 医者が父母の最期を看取って考えたこと』(PHP研究所)で、家族を看取る人が終末期医療について何を考えなければならないかを、個人的な体験に触れながら医師としての立場から率直に語っておられます。

 読んでつくづく思いましたが、終末期医療について通常は、例えば親がそうした局面にならないと考えないですし、かと言ってその真っ最中には考える余裕も選択肢もほとんどなく、後になってからああすればよかったかと後悔する。でも結局どうするのが良かったのかは分からない、ということが多いのではと思います。

 ただ、40代50代のビジネスパーソンは、他人には言わなくても親の介護や終末期医療の問題を抱えている人がとても多いのは確かで、知らなかった、考えてなかったでは済まないですね。ちょうどお盆の時期で、帰省して親の顔を見ることも多いでしょうからこの機会に考えておきたいと思いました。

米山:終末期医療は、家族の立場から言えばある意味、葬式に似てるんじゃないかな。死んだら葬儀屋が来て、祭壇だの食事だのいろんなリストを見せられてあれこれ決められて、どんどん流れていっちゃうのでそこでは何も考えられない。

 終末期医療も同じで、後から考えればこうすればよかったと思うことがいっぱい出てくるんだけど、その時は判断力もきかなくて、医療サイドにずーっと押し切られていっちゃうみたいなね。なおかつ、当の本人、親なら親の死への意識がどうなのか、どういう最期が望ましいのかということがなかなか聞けていないことが多い。分からないまま終わっていってしまう。

 医者も、患者をいかに死なせるかなんて教育は受けてきていないから、仕方ないんです。診断と治療がすべてだったから。

お葬式は、最近は生前に自分で決めておく人が増えましたね。私も一度だけ「生前葬」に参列したことがありますがとても盛況(?)で、かなり事情が変わってきたようです。

米山:死に対する感覚は、この10年ほどでずいぶん変わってきたと思います。

 終末期医療も、最近では積極的に取り組んでいる病院が週刊誌に取り上げられるとか、事情はどんどん変わりつつある。介護保険制度が始まってから、介護については社会的にも認知や改善が進んできたので、今度はどういう最期を迎えるかということに焦点が当たってきたんだと思います。

ご両親の個人的なことについて、これまであまりお書きになったことはなかったんですね。

米山:僕の母親の「死なせかた」を考えてみると、当時はまだ介護保険制度はなかった。自宅で、父と僕で最期まで看取るつもりだったけど、2人とも現役の医師だったのでなかなか大変で、最終的には病院に入れました。もう少し、あと2、3週間家で看ていればそのまま看取れたのに、鼻に管を入れられて動けないままの9カ月間はかわいそうだったし、きっと母も望まなかっただろうと。それを悔やんでいます。

 父の場合は肺にリンパ腫がありましたが、ぎりぎりまで自宅で普通の生活をさせて、最期に病院に入院して3日で亡くなりました。病院とは事前に何度も話し合いをして、治療は一切しない、血圧上げたり人工呼吸器つけたりもしないと決めていた。何もしないというのもなかなか難しいんですが。それで父は、人間として尊厳を保った死に方というのかな、そういう最期だったので父については悔いがないんです。

その、「何もしない」という選択ですが、高齢者で口から食べられない、つまり飲み込めないとか、認知症で食べるという行動自体ができないという場合の点滴や中心静脈栄養や胃瘻による栄養投与を、海外ではしないところが多いと。それはつまり、餓死させてしまうということですね。それでいいわけですか。

米山:それでいいと考えているんですね。回復する見込みがない病気の患者に対して、延々と生かし続けるのは本人に対する虐待だという考えです。薬も口から飲めなければ与えない。点滴も何もしなければたぶん1週間ぐらいで亡くなってしまうでしょう。非人道的だと思うかもしれないけど、クオリティの高い死を迎えるにはそうするという考え方です。

生物学的には、例えば動物であれば口から食べられなくなったらもう寿命だとは思います。経管栄養にしたら、管を自分で外してしまわないように手足を拘束されたりもしてしまう。それでも、点滴すればまだ生きていてくれると思うと、家族にはなかなか受け入れがたい場合があると思いますが。

「親を2年で死なせてくれるのがいい病院」

米山:それを受け入れるのはすごく大変だと思う。管から栄養を入れてやればまだ生きてるし反応もするのに、何もしないでくださいと言うのはかなりの勇気が必要でしょう。ただ、意味のない延命治療や蘇生をやらない病院が日本でも増えてきています。

増えてきてるんですか。

米山:増えてきています。ただ一方では相変わらず、意味のない治療で稼いでいるところもいっぱいあります。

 患者が口から食べられなくなったら、鼻から管を入れて鼻腔栄養にすることが多い。でも、鼻からでも誤嚥の危険性があるから、胃瘻(いろう)を作りましょうという施設がまだまだ多いですね。胃瘻にしないとうちには入れませんという施設も結構ある。その意味が、一般の人にはなかなか分からないんです。

そうですね。胃瘻を作るのがここまで一般的になっているというのは知りませんでした。要は寝たきりでも栄養を手軽に入れられると。

米山:管理するほうも楽なんです。だから胃瘻を作ると、そのままずーっといっちゃうんです。それを家族は知らないから、よく分からずに病院に任せちゃうと、寝たきりの期間が長くなってしまう。

 海外で寝たきりの老人がいないというのは、介護が手厚いとかいう以前に、口から食べられなくなったら治療しないということも大きいと思います。

 先日、僕の患者さんと話していたら「2年間で親を死なせてくれる病院がいい病院だ」と言うんです。親御さんを今、有名なとてもいい病院に入れているんだけど、最終的にどのくらいお金がかかるのか分からないので経済的なことがすごく不安だと。例えば2年間と限定されていたら、家族は親のことを考えていろいろなことをしながら過ごせる。もちろんそんな病院はないんだけど。どこまで続くか分からないというのが経済的、肉体的に最大の不安なんですね。

 だから家族側は、病院側と何度も話し合いを持って、共通の認識を持っておくべきなんです。

そうは言っても、例えば親が倒れた時に運び込まれた病院が、患者や家族が最期について決められるところか、それとも医療サイド主導の治療をするところなのかは、選べないですよね。

米山:救急の場合はそうだけど、症状が落ち着いた状態で、どういうところに入れるかは選択できます。病院に対して終末期医療をどうしてくれるんですかと聞くケースはまだ少ないけれど、それは聞くべきです。

そもそも、末期がどういう状況になるのかというのが、あまり想像できないと思うんです。例えば認知症になったらどれぐらい永らえて、最期はこういうパターンで亡くなるという知識がないと思うんですが、これは知っておかないといけないことですね。

米山:どういう最期があるのかというのは知っていないといけない。例えばガンの場合は、終末期は何をやっても半月しか持たない。非常に短期決戦になるので、介護はほとんど問題になりません。ところが高齢者の場合、死因がガンなのは1割ほどで、脳卒中や認知症などの慢性症状が大半です。寝たきりになって口から食べられなくなっても、経管栄養だけやっていればずっと生きていってしまうケースがある。

 消極的安楽死という言葉があるかどうか知らないけど、オランダやベルギーのように積極的安楽死を認めている国も、実際にはなかなかうまくいっていないようですね。医者が拒否したりとか。でも消極的安楽死は臨床の場では実際に行われているわけですよ。点滴を絞って栄養を次第に減らしていくとか、管を抜いてしまうとか。

 一方では、自宅で看ていても、肺炎起こして救急車で救急病院へ行って処置して、下手したら人工呼吸器を着けてそのまま外せなくなってしまうというケースもある。

人工呼吸器を着ける着けないも大きな分かれ目の1つだと。

米山:点滴は曖昧に、少しずつ絞っていくというのができるけど、呼吸器は外せなくて延々と着けられてしまうので。

 さすがに今は認知症や脳卒中の最期の場合、心臓マッサージや人工呼吸などの蘇生はやらなくなっている。ただ、慢性でずっと寝たきり状態だったのが急変して、急に呼吸が止まった時、一応蘇生しなきゃという場合はある。その時にも何もしないというのは家族とよっぽど同意ができていないと無理でしょう。

日本の病院でも事前にそうしたことを決めておくケースは増えますか。

米山:増えるでしょう。最期をどうしますかということを聞く病院も既にあります。口から食物や薬が入らなくなったら一切やりませんという病院もある。

 今のように海外に比べて寝たきりが非常に多くて、延命のためだけに医療費をかけ続ける、そういうのはやめるべきです。もっと救える人たちにお金をかけるべき。そういうこと言うとすごく反論があるんだけど、それが現実なんだから。その方が本人の尊厳を尊重できるし、死のクオリティも高まると思う。

 もちろん、絶対延命してほしい、生かしておいてほしいという人もいる。それはそれで認めなくてはいけない。それは相続の問題もあるかもしれないし。

元気なうちに「最期」について話しておく

米山:末期にどういうことが起こりうるのかという知識、それから本人の意思を確認しておくことは家族にとって必要ですね。認知症になってしまったら確認しようもないので、本人が元気なうちにやっておかないといけない。

でも、親が元気だとこういう話題を持ち出すのはなかなか難しいですね。親のキャラクターにもよるでしょうが。

米山:僕も親父にどうするんだとかは聞かなかったけどね。親がまだはっきりしているうちに意向を聞いておく、あるいは文書に残しておけたら理想的です。たいていの人は、子供には「何もしなくていいから」と言うんだろうけど、統計を取ってみると実は治療してほしいという人も少なからずいるようで。まあ、病気が慢性になってもう回復の見込みがないとなったら何もしないでほしい、ということを聞いておく、あるいは一筆書いてもらっておくだけで家族の負担はだいぶ楽になるんだから。

そのためにはやはり普段からどういうコミュニケーションを取っているかが問われますね。

米山:うちの親父なんか、最後に入院する時に遺言書を書いたか確認したら書いてないと言うので、びっくりして、入院する日に簡単な遺言書を書かせて、入院して状態が安定してから病院に司法書士を呼んで正式な遺言書を書かせた。

 そこまではなかなかできないかもしれないけど、そういう話をできるぐらいの親子のコミュニケーションが必要じゃないでしょうか。金の話はしづらいとか何とか、そういうのを突破してこそ、安らかな死を迎えられるんじゃないかと。

最近だと、ケア付きマンションのような所で暮らす高齢者の方も多いですが、終末期医療はどうなるんですか。

米山:施設によっていろいろだけど、関連の施設に移りますとか病院に行きますという場合もあるので、きちんと確認したほうがいい。下手したら、そのマンションよりも別の場所で暮らす年月の方が長くなったりしかねない。

現在は、病院で死ぬというのがあまりに一般的になっています。

米山:病院の本来の機能からは、死というものが切り離されてるんです。つくづく、病院は死ぬ場所じゃないと思う。自由のないところで死んでいくのは楽しくないでしょう。ただ、家で死ぬことはすごく難しい。家での介護はもちろん大変でしょうが、家での看取りは医者との連携がないとできない。とはいえ、家での看取りを 24時間体制でサポートする医者も増えてきてはいます。まだ少ないけどね。

 もしも夜中に亡くなったら、かかりつけの医者を翌朝呼んで死亡診断書を書いてもらえば法律上は問題ない。そういう知識があればそんなに慌てることはないでしょう。

 とにかく相続のことも含めて、納得できる死に方を相談しておかないと後で大変な思いをしたり面倒なことになりますよということ。そしてよくあるのが、たまに来る親戚が騒ぐというケースなので、そういう人たちにもちゃんと話をして共通認識を作っておくことですね。

[日経ビジネス]

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Posted by nob : 2013年08月12日 14:45