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遅きに失するも、まずは東電を破綻処理、国が前面に出て事故のすべてに責任を負うことから。。。Vol.2

■「東電処理スキーム」と「貸付債権の簿価買取」は正当化できるか~今こそ問われる銀行界の良識

 東日本大震災から3ヶ月を経ようとしているが、政治の混乱もあってか、様々な面で軸足の定まらない対応が続いている。

 金融経済面だけで見ても、東電処理の問題と、いわゆる「二重債務者」の問題は相変わらず議論が錯綜している。いずれも初めに政治主導で「軸」を定めておけばこのようなことにはならなかったはずである。

東電処理の問題

 まず、前回の連載で簡単に触れた東電処理の問題は、原子力損害賠償法(原賠法)第3条ただし書き、すなわち「原子力損害が異常に巨大な天災地変または社会的動乱によって生じたものであるときは原子力事業者は免責される」という規定が該当するかどうかだけの判断である。その「軸」さえ固まれば、議論の迷走はあり得ないことである。

 政府は、当初からこの免責規定が適用されないと決めたのであるから、今回の損害賠償による巨額の負債に直面して、痛みを取るのは、株主→一般債権者→担保付債権者→優先債権者の順であることは前回述べたとおりである。通常は、被害者への損害賠償は一般債権となるが、これは原賠法の規定に従って、国が最終的にしかるべき措置を講ずることになっている。したがって、原理原則から言えば、まず上記(被害者への損害賠償分を除く)の順に痛みを取り、しかる後に、被害者への損害賠償に不足する金額(≒東電の債務超過額)について政府が責任を持つというのが唯一の正解となる。

 つまり、議論の「軸」さえしっかりしておれば、議論は単純なのである。なお、上記の手続きを最も公明正大にやろうとするならば、東電を法的整理とし、その枠組みの中で東電の事業(東電ではない)を円滑に引き継ぐ事業主体に営業譲渡することになろう。

 こうした議論をすると、「社債市場が混乱する」「新規融資が受けられなくなる」といった反発が出てくる傾向がある。しかし、「リスクを取ったはずの投資家や銀行が実はノーリスクであった」というような処理は、投資家の自己責任を原則とする資本主義市場では、好ましいことではない。また、法的整理にすれば、新規融資を受けるのは東電ではなく、東電の事業を引き継いだ、健全なバランスシートを持つ新規事業者なのだ。

 ただし、筆者が上記で述べたことには、若干の「のりしろ」があるのも事実である。仮に東電という会社を今のまま残したいのであれば、法的整理ではなく、企業再生の世界でよく使われる私的整理の枠組みで処理することもあり得るだろう。その場合でも、痛みを取る順番は原則として上記と変わらない。

 違うのは、新しい電力事業の債務者が新規事業者ではなく、今後の偶発債務が多数隠されたままの現・東電になるということ、そして、一部の融資は免除せずにそのまま存置できるかもしれないということだ(ただし返済能力はゼロに等しいので、その融資は不良債権に分類される)。銀行にとって実はどちらが良い選択肢なのかは、長期的な視点で良く考えてみればわかることだ。

 蛇足ながら、以上の議論はすべて原賠法第3条ただし書きが適用されないということを前提としている。しかし、私企業である東電は、このことについて政府と争う余地がある。また、将来、東電の株主がこの点について株主代表訴訟で争う可能性も残されていることは頭に入れておく必要があろう。また、補償の範囲を早期に明確にしないと、結局莫大な国民負担が発生することにもなりかねないことにも留意が必要だ。これらは、すべからく明確な政治的リーダーシップがなければ決断できない問題なのだ。

二重債務者の問題

 被災地には、事業借入や住宅ローンを抱えたまま、その事業所や家屋を失った方々が数多くおられ、大変にお気の毒なことである。この問題も、政治主導で迅速な対応が求められるのだが、軸を定めていないゆえに遅々として進まないのである。この場合の「軸」とは、「誰を、誰の負担で救済するのか」というポリシーのことである。

 まず、こうした融資を行なった銀行の一部からは、政府に、貸付債権を簿価で買い取るように要望する声が出ているという(5月11日付日本経済新聞1面)。言うまでもなく、これら貸付債権は、既に担保価値を大きく滅失した事業または家屋を対象とするものであるゆえ、その実際の価値は大きく毀損しているはずである。例えば、当初1億円だった貸付債権の価値は、今はほぼ無価値というケースもあろう。通常であれば、銀行はこの貸付債権を回収不能債権(実質破綻先)に認定し、ほぼ全額を引き当てるか償却することになるだろう。その結果、銀行によっては大きな損失を蒙り、自己資本を毀損し、結果的に所定の自己資本比率規制を守ることが出来なくなってしまうところも出てくるだろう。だから銀行界はこれら貸付債権を簿価(先ほどの例では1億円)で国に買い取らせ、自行の損失を極小化しようとしているのであろう。

 実は、不良債権を簿価で国に買い取らせようという動きは今回に始まったことではない。2002年当時、整理回収機構(RCC)に対して銀行が不良債権を譲渡する価格について、銀行界の意向を受けた政府・与党(自民党)がこれを簿価にしようと動いていたことがある。同年9月27日の日本経済新聞1面トップには、「金融庁がRCCによる不良債権買取価格を<実質簿価>にする方針を決めた」旨の記事が掲載されている。「実質簿価」とは、銀行の貸付債権の簿価から、銀行が決めた貸倒引当金を差し引いたもの、すなわち、銀行にとっての貸付債権の簿価である。要するに不良債権の簿価買取によって、銀行に一銭の追加損失も発生させないというスキームであった。

 その後、この案は、(当然のことながら)お蔵入りとなり、実際には貸付債権は債務者のキャッシュフローや担保価値などから算出される、本当の「時価」で売買されるようになり、それによって日本の銀行の不良債権処理と債務者の企業再生は大きく前進したのである。元々、貸付債権に流動性が乏しいことが銀行の機動的なALM(資産負債の総合管理)上のネックとなっているのであるから、貸付債権の時価売買市場を発展させることは長期的には銀行のためなのであるが、銀行はどうしても目先の利益に目を奪われ、「簿価買取」などという都合のいいロジックを考え出しがちである。

 今回の動きは、またも「簿価買取」が日経の1面に観測気球気味に掲載されたものであり、10年近い年月が経っても変わらぬ銀行の甘えが垣間見える。銀行の不良債権を国が(時価ではなく)簿価で買い取るということは、国、すなわち納税者が銀行に寄付金を払うことと同義である。

 もう一度、このケースでの「軸」(誰を、誰の負担で救済するか)を考えてみたい。本来、「誰を」は、言うまでもなく被災者である。そして、「誰の負担で」は、法の順序、原理原則以外のものはあり得ない。ところが、今回の一部銀行の主張である債権の簿価買取に従うならば、「誰を」が銀行であり、「誰の負担で」が納税者である。しかも、簿価で国に買い取られた被災者の事業借り入れや住宅ローンは、そのまま国の機関で塩漬けになるだけで、国が改めて債権放棄でもしない限り、被災者は何ら救済されないのだ。

 結論から言おう。もし「軸」が「被災者を、法の原理原則で救済する」というまともなものに定められているのであれば、これも単純明快な結論しかあり得ない。

 まず、被災者が持つ事業借り入れや住宅ローンは、返済可能性を勘案した時価まで銀行が債権放棄をするしかない。或いは、企業再生ファンドなどにその時価で売却してもいい。いずれにしても銀行には大きな損失が計上され、自己資本が毀損する。したがって、銀行は、まず自助努力で自分たちの固定費の削減などに取り組み、しかる後にまだ不足する自己資本分について、自力で、または国に頼って資本増強を行なう。

 ここで、本件に特有の事情に照らして講じなければならない例外的な政策措置が幾つかある。第一に、銀行の債権放棄は、債務者の法的整理を前提にしなくても実施すべきということであり、これは国(国税庁)が債権の無税償却の基準を例外的に緩めることで容易に達成される。第二に、仮に本件の結果、銀行が国からの資本注入を求める場合でも、銀行の経営者の責任は一切問わないことである。第三に、その結果注入した公的資金に将来損失が発生しても経営責任は問わないことである。第二・第三の点については、5月27日に、金融機能強化法にこれらの措置を盛り込んだ「震災特例」を設けるとの閣議決定が行なわれ、国会審議を待っている状況である。

 こうした措置が行なわれれば、銀行は心おきなく債権を放棄することができ、結果的にそもそもあるべき「軸」に沿った形で被災者も救済されるのである。「債権の簿価買取」などという、裏口から納税者のカネを銀行に寄付するような発想は10年古いと言われても仕方あるまい。銀行界においては、東電処理の件と併せ、何が長期的に被災者や銀行界のためになるのかという観点で、良識的な判断が行なわれることを期待したい。

[DIAMOND online]

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Posted by nob : 2013年11月22日 10:51