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人は今日生きているように明日死に往くもの、、、生きるも死ぬも自らの生を救えるのは自分自身のみ。。。Vol.4

■感動ドキュメンタリー 生命は不思議なり治らないものも治ることがある 医者は見捨てた—しかし神は見捨てなかったかくて奇跡は起きた!

「余命は3ヵ月です」「もう手の施しようがありません」—突然突きつけられる医師からの宣告。死は確実に目の前に迫っていたはずなのに、それを乗り越えた患者がいる。彼らはなぜ生還できたのか。

治療もしていないのに

 茨城県つくば市で在宅医療専門のホームオン・クリニックつくばを経営している平野国美医師の元に、父親が通う病院の院長から電話がかかってきたのは、2009年12月のことだ。

「お父さんが胃がんです」—院長はそう告げた。話を聞いて、平野医師は、父親の余命は3ヵ月もないだろうと判断した。

「もう次の桜を見せることはかなわないと思いました。ならば人生の最後は、せめて苦しまずに逝かせてあげたいと思い、延命治療のすべてを断り、引き取る旨を院長に伝えました」

 引き取った父親のためにマンションを借り、頻繁に顔を出して買い物や食事をともにした。多少の抗がん剤は用いたが、根治療法は一切なし。それでも病状は不思議と安定し、桜の時期を乗り越える。奇跡のような日々は3年ほど続いた。

「けれど、昨年の12月から体調が急変したんです。意識が常に飛ぶようになり、何度も『オレ、大丈夫だよね?』と私に聞くようになりました。私も、心構えだけはして、葬儀の準備も進めていました」

 そして今年1月、平野医師は自身が運営する看取りのできる有料老人ホームに父親を移した。プロである息子から見ても、2度目の奇跡はさすがに起きないと覚悟したのである。寝たきりの日々が続いたが、入居後10日ほど経つと、目を疑うような変化が起こり始めた。

「徐々に体調が回復し、歩けるようになったのです。『いやあ、治っちゃったよ』と本人が言うくらいで、トンカツをぺろりと平らげるくらい食欲も出てきた。今では毎朝、ホームの仲間たちと散歩をし、自転車を買いたいと言い出すまでになりました」

 余命3ヵ月の見立てから、3年6ヵ月。その父・國雄さんは、友人に囲まれ、好きなものを食べ、ホームの主のような顔をして楽しく日々を過ごしている。がんの治療は、変わらず受けていない。

「がんじゃなかったんだよね、胃潰瘍だったんだよ」

 國雄さんはこう笑い飛ばす。もちろん、がんという診断が誤りだったわけではないが、すでに過去のことになっているようだ。いまでは検査も受けていないので、がんがどのような状態になっているかはわからない。だが、がんが発覚したときよりも明らかに元気になった姿がそこにある。

医学的には説明できない

 平野医師はこう話す。

「医学的な説明は思いつきません。『こういう人もいるんだな』としか言えない。がんと共存しているのでしょう。最初に父の世話をした医師も、父を見て思わず『お元気なんだ……』と絶句しました。何が起こっているのか、私のほうが聞きたいくらいですが、父の楽天的な性格が幸いしているのかなとは思います。病は気からと言うけれど、父はがんであること自体を否定していますから」

 医者にも理解できないような奇跡的な回復—なぜこのようなことが起きるのか。誰にも説明はできない。けれど、「もう打つ手はない」と宣告された患者が生還を果たすケースは、少ないながらも存在する。

 千葉県在住の加藤公子さん(70歳)も、そうした一人だ。加藤さんを襲ったのは肝臓がん。'07年の発見時にはすでに末期だった。主治医は、本人には余命までは明かさなかったが、加藤さんの娘には、「もってあと3ヵ月から半年」と宣告していた。

 加藤さんが振り返る。

「娘が急に優しくなりましてね。何かおかしい、と感づいて、問い詰めました。すると涙ぐみながら、私に打ち明けたんです。言葉が出ませんでした。でも、私は20年前に乳がんもやっている。いつ死のうと仕方がないと思い、何があってもうろたえることだけはしまいと覚悟を決めました」

 けれども、諦めたわけではなかった。主治医からは「治療しても効果は期待できない」と言われたが、ラジオ波焼灼術、カテーテルを入れて抗がん剤をがんに直接注入する動注化学療法など、打てる手はすべて打った。そして半年後—。

「信じられないのですが、私のがんは跡形もなく消えました。治療してくれた先生自身が、退院時に『信じられない、信じられない』と言うほどでした」

 それから6年が経過。再発の兆候はまったくない。「治療が私に完璧にマッチした」、加藤さんはそう信じている。

「生存率0%」でも諦めない

 青森市で弁護士として活躍する小野允雄さん(74歳)は、'02年にステージⅣの大腸がんが発覚した。がんは腹膜播種(腹膜に散らばった状態)を起こしており、手術をしても再発の可能性は非常に高かった。

「ダメなんじゃないか、と本当に不安でした。術後の抗がん剤の副作用も相当苦しかった。でも、それに耐えられたのは、とにかく生きたかったからなんです。今は死ねない、子どもたちのことをもっと見届けたいと思い続けていました」(小野さん)

 だが、その思いも虚しく、3ヵ月後、肝臓にがんが見つかり、その後脾臓へと転移する。

「2度目の手術をする前、家内と一緒に医師から病状の説明を受けたのですが、『がんが腹膜に広がっている可能性が高い』と言われました。そのときは家内もひどく落胆し、二人で手を取り合って泣きました」

 幸いにも腹膜への転移はなく、手術で肝臓の一部と脾臓を摘出。その後は再発の恐怖と闘いながらも、弁護士としての仕事に打ち込む日々を送った。それから10年。いまも再発はない。

「最初の手術が終わったとき、『再発して手術ができない場合は、 2~3ヵ月しか持たない』と医師から言われていたそうなのです。そして、私の病状は5年生存率が0%という状況だった。それは後から知ったのですが、もし最初からその事実を知っていたら、がんと闘う気力が失せていたでしょう。私にとっては、『知らない』ということが良かったのだと思うんです」

 逆に、本当のことを全部知ったからこそ、乗り越えられることもある。悪性度の高い子宮絨毛がんの末期から生還し、がん治療のまっただ中で双子の出産まで成し遂げた長友明美さん(64歳)がその人だ。

 1981年、長友さんは夫の赴任先のアフリカで第1子を死産した。その後、体調が悪化する。

「最初は産後の肥立ちが悪いのだと思っていましたが、病院に行っても一向によくならない。そこで友人のいるアメリカへ行き、病院で子宮がんが見つかりました。すでに肺にも転移しており、『余命6ヵ月』と宣告されたのです。そのときは頭の中が真っ白で意味がわからず、受け入れることもできませんでした」

 抗がん剤治療が始まると、身体はどんどん衰弱していく。死の予感は日々迫ってきた。それなら母国に帰りたい。だが、死を覚悟して訪れた日本の病院で、医師からこう告げられた。

「もうがんで死ぬ時代は終わりました。やることをやれば治りますよ」—この言葉に強く打たれた。

「自分では、生きられるのはあと3~4ヵ月と思っていたんです。両親はお墓まで用意しました。でも先生は、『がんになったのはあなただから、あなたが治して帰るんですよ。私たちはそのお手伝いはできるけど、治すことはあなたじゃないとできないんです。がんと向き合ってください』とおっしゃった。びっくりしました。だって死ぬつもりだったんですから」

 この医師との出会いが、諦めかけていた長友さんを死の淵から引き戻した。

「この先生に付いていって、やれるだけやってみよう。闘わずに死ぬのは悔しいと思いました」

 ただ病院の治療に身を任すのではなく、長友さんはがんと闘うための猛勉強をした。抗がん剤や温熱療法といった治療に加えて、自分でできる治療法を探求して実践を重ねていった。

 そんな治療の最中に、生理が止まった。「生理が止まったら再発の可能性が高い。そのときは子宮を取ります」、医師にはそう言われていた。しかしそれは、再発ではなく、妊娠だった。

「しかも、お腹に宿ったのは双子でした。自分の身体が持つかも心配でしたし、子どもへの抗がん剤の影響など不安で一杯だった。健康に生まれてこない可能性のほうが高い。ものすごく悩みました。でも、『産もう、仮に障害があったとしても、すべてを引き受けよう』と心に決めたのです」

 '84年5月、双子が無事に誕生した。二人の女の子は無事に成長し、長友さんのがんは、30年以上たった今も再発していない。

 厳しい病に冒された患者を見放すのも医師だが、最後まで共に闘おうとする医師もいる。

 上井孝さん(39歳・仮名)は、そんな医師に巡り会い、現在、末期の大腸がんと闘っている。当初は「半年くらい」との医師の見立てだったが、それを大きく超え、がんの発覚から1年7ヵ月を迎えた。

 上井さんの主治医である半蔵門病院の平岩正樹医師は、細かい病状から今後の目標まで、すべてを本人に伝え、治療法を一緒に考えているという。

「真実を告げることで患者さんは病気と向き合うことができるのです。自分でなんとかしようという気持ちが一番大事で、それがなくては医者は何もできませんから」(平岩医師)

 上井さんは現在、平岩医師の診察を受けるために、自宅のある大阪から東京まで毎週1回、通っている。

「平岩先生の治療を受けたいという一心からです。先生は私がわかる言葉を選びながら、何でも答えてくれる。不安も取り除いてくれます。がんには追い込まれるイメージがありました。でも今は、広がっていくような気がします。身体は不自由になっても、失った分、得るものがある。話もできる。目も見える。ご飯がおいしいとうれしい。太陽が気持ちよいとか、風が心地よいとか、病気になる前まで見過ごしていた日常が、今は大きな喜びなのです」

 一日、また一日と、上井さんは「奇跡の記録」を更新し続けている。

神様に選ばれる条件

「どんな状況になっても、明日を人生で最良の日にすることは可能なんです。そうすれば、その翌日はさらに良い日にできる。そして、そうやって大きな病に立ち向かっている姿が、他の人を救うことがたくさんあるのです」(平岩医師)

 もう一人、がんとの闘いを続けている人物がいる。ドラマ『スケバン刑事』『宮本武蔵』などで活躍した俳優の中康次さんだ。公表はしていなかったが、中さんは昨年2月に直腸がんが見つかった。ステージは末期のⅣ。肝臓転移もあり、6~7cm大の腫瘍が4~5個あった。医者からは「あと6~8ヵ月」と宣告された。

「開腹手術はできない。いつ死んでもおかしくない状態でした。ただ、直腸が詰まって便が出ないので、腸閉塞対策のために人工肛門の手術だけはしてもらいました。あとは抗がん剤治療です。がんの宣告を受けても、まったく落ち込みませんでしたね。

 ドラマの台本だと、ガーンと落ち込んだりするじゃないですか。僕は違った。だって、余命6ヵ月と区切られたからといっても、みんな区切られているじゃないですか。死なない人はいないんだから。『俺の人生、こういうドラマ展開できたか』と思っただけでね。自分でも『なんだ、この落ち着きは』と思ったくらいです」

 そんな中さんのがんは、抗がん剤治療後、目に見えて小さくなってきた。いまは3~4週間に1度、入院して抗がん剤治療を続けている。

「余命宣告から1年3ヵ月以上たっているけど、小さくなった状態をずっとキープしています。女房があれこれ工夫して、おいしくて身体にいいものを毎日食べさせてくれるんです。おかげで毎日食事がおいしい。抗がん剤をやっているのに食欲が落ちなくて太ってしまい、減量しているくらいです。『まだ逝くはずがないな。こんだけ食事が美味しいんだから』、そう思っています」

 中さんがこうして前向きでいられるのには、ひとつ理由があった。

「僕の信条は『奇跡は必ず起きる』。ただし、信じる者にしか起こらない。この考えは、病気になる前も今も同じです。またこういう取材を受けて、『中さん、本当に治っちゃいましたね』と言われるようになっていれば最高だね。そのときは、『この前言ったでしょう、奇跡は起きるんだよ』って言うからね」

 宣告された余命を乗り越え、奇跡を起こすには、さまざまな要因があるだろう。だが、もし神が存在するのなら、「生きたい」と強く願い、必ず治ると信じた人にだけ、手を差し伸べるに違いない。

[現代ビジネス]

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Posted by nob : 2014年01月26日 23:39