« 私もかつて唐突にこの真実に気付き、以来自他すべてをあるがままに受容し、自らの満足を目指す過程での日々の納得を積み重ね、好きなものだけに包まれた幸せな毎日を過ごせています♬ | メイン | バランスの取れた食事と規則正しい当たり前の暮らし、、、に尽きます。。。 »

好きな他者になら途は示すも、引きも押しもしない、、、利害という色眼鏡を棄て、一切の執着や依存心から脱却できれば、そこから愛と信頼に満ちた世界を拡げていける。。。

■第1回
人生の迷いを断ち切る
アドラーの思想とは?

欧米ではフロイト、ユングと並び「心理学界の三大巨頭」と称され、絶大な支持を誇るアルフレッド・アドラー。名著『人を動かす』のデール・カーネギーら自己啓発のメンターたちにも多大な影響を与えた彼の思想は、日本ではまだあまり知られていない。

そこで今回、日本アドラー心理学会顧問の岸見一郎氏とライターの古賀史健氏がタッグを組み、哲人と青年の対話篇形式によるまったく新しい古典『嫌われる勇気——自己啓発の源流「アドラー」の教え』を刊行した。いったいアドラーとはどんな人物で、どんな思想の持ち主なのか、共著者の古賀史健氏が解説する。

時代を100年先行した
知られざる巨匠

「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」

 20世紀の初頭、そんなことを唱えはじめた心理学者がいました。欧米でいまなお絶大な支持を誇り、フロイト、ユングと並ぶ「心理学界の三大巨頭」と称されるオーストリア出身の精神科医、アルフレッド・アドラーです。

 欧米におけるアドラーの受け入れられ方は、フロイトやユングとは若干違います。たとえば、世界的ベストセラーの『人を動かす』や『道は開ける』で知られるデール・カーネギーは、アドラーのことを「一生を費やして人間とその潜在能力を研究した偉大な心理学者」と紹介し、彼の著作にはアドラーの思想が色濃く反映されています。また、スティーブン・コヴィーの『7つの習慣』でもアドラーの思想に近い内容が語られています。つまりアドラー心理学は、堅苦しい学問としてではなく、人間理解の真理、または到達点として、広く受け入れられているわけです。

 しかし、「時代を100年先行した」といわれる彼の思想には、まだ時代が追いつききれていません。日本における知名度も、フロイトやユングと比べたらかなり限定的なものでしょう。彼の考えは、それほど先駆的なものでした。

 本書『嫌われる勇気』は、そんなアドラーの画期的な思想を、架空の「哲人」と「青年」による対話篇のかたちを採りながら解き明かしていく一冊になります。それでは具体的に、アドラーはどんな思想の持ち主なのでしょうか?

 もし、彼の思想をひと言で要約するなら、次のようになるかもしれません。

「世界」を変えるのは、他の誰でもない「わたし」である。

 アドラーの思想を理解し、実践することができれば、確実に「世界」が変わります。そして「世界」を変えるのは、どこかの国の大統領でもなければ一部のエリート層でもなく、ただただ「わたし」なのです。

 本書の中で哲人は、こんな話をしています。

哲人 いま、あなたの目には世界が複雑怪奇な混沌として映っている。しかし、あなた自身が変われば、世界はシンプルな姿を取り戻します。問題は世界がどうであるかではなく、あなたがどうであるか、なのです。

青年 わたしがどうであるか?

哲人 そう。もしかするとあなたは、サングラス越しに世界を見ているのかもしれない。そこから見える世界が暗くなるのは当然です。だったら、暗い世界を嘆くのではなく、ただサングラスを外してしまえばいい。そこに映る世界は強烈にまぶしく、思わずまぶたを閉じてしまうかもしれません。再びサングラスがほしくなるかもしれません。それでもなお、サングラスを外すことができるか。世界を直視することができるか。あなたにその“勇気”があるか、です。

青年 勇気?

哲人 ええ、これは“勇気”の問題です。

 人は誰しも客観的な世界に住んでいるのではなく、自らが意味づけをほどこした主観的な世界に住んでいる。それがアドラーの考え方です。つまり、たとえば過去のつらい出来事に対しても「なにがあったか」が問題なのではなく、「どう解釈するか」が問題なのだと考えます。ニーチェ的にいえば「客観的な事実など存在せず、主観的な解釈のみが存在している」とすることもできるでしょう。

 この発想は、アドラー心理学の大きな特徴である「目的論」という考えのなかで、より鮮明になります。

 たとえば、自室にずっと引きこもっている人がいたとき、フロイト的な発想では「不安だから、引きこもっている」というように考え、「両親に虐待を受け、愛情を知らないまま育った。だから他者と交わるのが怖いのだ」と結論づけるなど、その人が引きこもるに至った「原因」に注目します(原因論)。

 しかしアドラー心理学では、その人が隠し持つ「目的」を考えていくのです(目的論)。再び本文から哲人と青年の対話を引きましょう。友人が引きこもりになっているという青年に対して、哲人は次のように語ります。

哲人 アドラー心理学では、過去の「原因」ではなく、いまの「目的」を考えます。

青年 いまの目的?

哲人 ご友人は「不安だから、外に出られない」のではありません。順番は逆で「外に出たくないから、不安という感情をつくり出している」と考えるのです。

青年 はっ?

哲人 つまり、ご友人には「外に出ない」という目的が先にあって、その目的を達成する手段として、不安や恐怖といった感情をこしらえているのです。アドラー心理学では、これを「目的論」と呼びます。

青年 ご冗談を! 不安や恐怖をこしらえた、ですって? じゃあ先生、あなたはわたしの友人が仮病を使っているとでもいうのですか?

哲人 仮病ではありません。ご友人がそこで感じている不安や恐怖は本物です。場合によっては割れるような頭痛に苦しめられたり、猛烈な腹痛に襲われることもあるでしょう。しかし、それらの症状もまた、「外に出ない」という目的を達成するためにつくり出されたものなのです。

青年 ありえません! そんな議論はオカルトです!

 引きこもりの人は「外に出ない」という目的をかなえるために、不安や恐怖などの感情をつくりあげている。これは即座に納得できる議論ではないでしょう。作中の青年も、すぐさま反発します。

青年 そこまで強くおっしゃるのなら、しっかり説明していただきましょう。そもそも、「原因論」と「目的論」の違いとはどういうことです?

哲人 たとえば、あなたが風邪で高熱を出して医者に診てもらったとします。そして医者が「あなたが風邪をひいたのは、昨日薄着をして出かけたからです」と、風邪をひいた理由を教えてくれたとしましょう。さて、あなたはこれで満足できますか?

青年 できるはずもないでしょう。理由が薄着のせいであろうと、雨に降られたせいであろうと、そんなことはどうでもいい。問題は、いま高熱に苦しめられているという事実であり、症状です。医者であるならば、ちゃんと薬を処方するなり、注射を打つなり、なにかしらの専門的処置をとって、治療してもらわなければなりません。

哲人 ところが原因論に立脚する人々、たとえば一般的なカウンセラーや精神科医は、ただ「あなたが苦しんでいるのは、過去のここに原因がある」と指摘するだけ、また「だからあなたは悪くないのだ」と慰めるだけで終わってしまいます。いわゆるトラウマの議論などは、原因論の典型です。

青年 ちょっと待ってください! つまり先生、あなたはトラウマの存在を否定されるのですか?

哲人 断固として否定します。

青年 なんと! 先生は、いやアドラーは、心理学の大家なのでしょう!?

哲人 アドラー心理学では、トラウマを明確に否定します。ここは非常に新しく、画期的なところです。

トラウマを否定する
「目的論」とは

 そう。いまや日常語になった感さえある「トラウマ」という言葉、そこから受ける影響を、アドラー心理学では明確に否定します。これがどれだけ斬新で過激な主張であるかは、おそらく心理学を専門に学んでこなかった方々(わたしもそのひとりです)にも理解していただけるでしょう。哲人はこう続けます。

哲人 たしかにフロイト的なトラウマの議論は、興味深いものでしょう。心に負った傷(トラウマ)が、現在の不幸を引き起こしていると考える。人生を大きな「物語」としてとらえたとき、その因果律のわかりやすさ、ドラマチックな展開には心をとらえて放さない魅力があります。
 しかし、アドラーはトラウマの議論を否定するなかで、こう語っています。「いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗の原因でもない。われわれは自分の経験によるショック――いわゆるトラウマ――に苦しむのではなく、経験の中から目的にかなうものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自らを決定するのである」と。

青年 目的にかなうものを見つけ出す?

哲人 そのとおりです。アドラーが「経験それ自体」ではなく、「経験に与える意味」によって自らを決定する、と語っているところに注目してください。
 たとえば大きな災害に見舞われたとか、幼いころに虐待を受けたといった出来事が、人格形成に及ぼす影響がゼロだとはいいません。影響は強くあります。しかし大切なのは、それによってなにかが決定されるわけではない、ということです。われわれは過去の経験に「どのような意味を与えるか」によって、自らの生を決定している。人生とは誰かに与えられるものではなく、自ら選択するものであり、自分がどう生きるかを選ぶのは自分なのです。

 トラウマなどない。われわれは過去の経験に「どのような意味を与えるか」によって、自らの生を決定している。それがアドラーの主張であり、目的論です。

 それでは具体的に、引きこもりの人はどんな「目的」を持って自室に引きこもっているのでしょうか。

青年 どうして外に出たくないのですか? 問題はそこでしょう!

哲人 では、あなたが親だった場合を考えてください。もしも自分の子どもが部屋に引きこもっていたら、あなたはどう思いますか?

青年 それはもちろん心配しますよ。どうすれば社会復帰してくれるのか、どうすれば元気を取り戻してくれるのか、そして自分の子育ては間違っていたのか。真剣に思い悩むだろうし、社会復帰に向けてありとあらゆる努力を試みるでしょう。

哲人 問題はそこです。

青年 どこです?

哲人 外に出ることなく、ずっと自室に引きこもっていれば、親が心配する。親の注目を一身に集めることができる。まるで腫れ物に触るように、丁重に扱ってくれる。
 他方、家から一歩でも外に出てしまうと、誰からも注目されない「その他大勢」になってしまいます。見知らぬ人々に囲まれ、凡庸なるわたし、あるいは他者より見劣りしたわたしになってしまう。そして誰もわたしを大切に扱ってくれなくなる。……これなどは、引きこもりの人によくある話です。

 引きこもることによって、周囲(特に家族)の注目を集め、特別な存在になろうとする。もし引きこもりをやめてしまったら、自分は誰からも注目されず、どこにでもいる「その他大勢」になってしまう。アドラー心理学の目的論は、過去の「原因」ではなく、いま現在の「目的」から人間理解を進めていくのです。

過去になにがあったかなど関係ない

 引きこもりの事例だけでは納得できない方のために、もうひとつの事例を挙げておきましょう。不登校やリストカットなどの問題行動についての考察です。

哲人 親から虐げられた子どもが非行に走る。不登校になる。リストカットなどの自傷行為に走る。フロイト的な原因論では、これを「親がこんな育て方をしたから、子どもがこんなふうに育った」とシンプルな因果律で考えるでしょう。植物に水をあげなかったから、枯れてしまったというような。たしかにわかりやすい解釈です。
 しかし、アドラー的な目的論は、子どもが隠し持っている目的、すなわち「親への復讐」という目的を見逃しません。自分が非行に走ったり、不登校になったり、リストカットをしたりすれば、親は困る。あわてふためき、胃に穴があくほど深刻に悩む。子どもはそれを知った上で、問題行動に出ています。過去の原因(家庭環境)に突き動かされているのではなく、いまの目的(親への復讐)をかなえるために。

青年 親を困らせるために、問題行動に出る?

哲人 そうです。たとえばリストカットをする子どもを見て「なんのためにそんなことをするんだ?」と不思議に思う人は多いでしょう。しかし、リストカットという行為によって、周囲の人――たとえば親 ――がどんな気持ちになるのかを考えてみてください。そうすれば、おのずと行為の背後にある「目的」が見えてくるはずです。

青年 ……目的は、復讐なのですね。

 フロイト的な原因論を否定し、トラウマの影響を否定し、自分の行動を目的論の立場でとらえなおすことは、かなり厳しい作業だと思います。

 極端な話、原因論に立てば「いまの自分がこうなのは、親のせいだ」とか「生まれ育った環境のせいだ」と、責任転嫁することができます。

 一方、アドラー的な目的論は、責任転嫁を許しません。「こんな自分」を選んだのは他ならぬ自分であり、なんらかの目的――たとえば努力をしたくないとか、失敗して恥をかきたくないとか、「やればできる」という可能性を残しておきたいとか――をかなえるために「こんな自分」であり続けている、と考えるのが目的論だからです。正面から受け止めるには、かなりの時間と勇気とを必要とする議論でしょう。

 しかし、こう考えてください。アドラーの目的論は「これまでの人生になにがあったとしても、今後の人生をどう生きるかについてなんの影響もない」といっているのです。過去など存在しないし、トラウマも存在しない。あなたは「いま」、ここで自分の人生を選ぶことができるのだと。

 われわれはタイムマシンで過去にさかのぼることなどできません。原因論の立場に立って「あんな家庭に生まれ育ったから」とか「あんな大学しか出てないから」と考えていたら、物事は一歩も前に進まないはずです。

 原因論を切り捨て、目的論を受け入れる勇気を持ちえたときにこそ、はじめて自分を変えるチャンスが出てくるのです。

 前編となる今回は「目的論」の話だけで紙幅が尽きてきました。次回の後編では、冒頭に紹介した「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」という言葉を出発点に、人生の悩みを一気に解決させる具体的方策を紹介していきたいと思います。


■第2回
他者の期待を満たすために
生きてはいけない

「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」と語るアルフレッド・アドラー。われわれは対人関係から解放されれば、すべての悩みを消すことができる。けれども対人関係をゼロにするなど、絶対にできないだろう。そこでアドラーは、対人関係の悩みを一気に解決する具体策を提示する。いったいなぜ「すべて対人関係の悩み」なのか? そしてどうやって「対人関係の悩み」を断ち切るのか?

人は社会的な文脈においてのみ
「個人」になる

 人は誰しも、なにかしらの悩みを抱えて生きているものです。仕事がうまくいかないとか、失恋をしてしまったとか、自分の容姿が嫌いだとか、いろんな悩みがあるでしょう。こうした現実に対して、アドラー心理学では「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」と考えます。あらゆる悩みは「対人関係の悩み」に還元される。個人だけで完結する悩み、いわゆる内面の悩みなどというものは存在しないのだと。

 はじめてこの考えに触れたとき、わたしは大きな違和感を覚えました。おそらく、みなさんも同じではないでしょうか。『嫌われる勇気』に登場する青年も、驚きながら反発します。

青年 いま、なんとおっしゃいました!?

哲人 何度でもくり返しましょう。「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」。これはアドラー心理学の根底に流れる概念です。もし、この世界から対人関係がなくなってしまえば、それこそ宇宙のなかにただひとりで、他者がいなくなってしまえば、あらゆる悩みも消え去ってしまうでしょう。

青年 噓だ! そんなものは学者の詭弁にすぎません!

哲人 もちろん、対人関係を消してしまうことなどできません。人間はその本質において、他者の存在を前提としている。他者から切り離されて生きることなど、原理的にありえない。「宇宙のなかにただひとりで生きることができれば」という前提が成立しえないのはおっしゃるとおりです。

 アドラー心理学では、人間は「社会的な生き物」であると考えます。

 もし仮に、われわれが「宇宙のなかにただひとり」で生きていたら、孤独は感じないでしょう。孤独を感じるのは、われわれが「ひとり」だからではなく、自分を取り巻く他者、社会、共同体があり、そこから疎外されていると実感するからこそ、孤独なのです。われわれは孤独を感じるのにも、他者を必要とします。人は社会的な文脈においてのみ、「個人」になるのです。

 そんな「社会的な生き物」だからこそ、人間の悩みはすべて対人関係の悩みである。アドラーはそう主張するわけです。もちろん、この考えを素直に受け入れる青年ではありません。彼は激しく噛みつきます。

青年 先生、それでもあなたは哲学者ですか! 人間には、対人関係なんかよりもっと高尚で、もっと大きな悩みが存在します! 幸福とはなにか、自由とはなにか、そして人生の意味とはなにか。これらはまさに古代ギリシア以来、哲学者たちが問い続けてきたテーマではありませんか!
 それがなんですって? 対人関係がすべてだと? なんと俗っぽい答えでしょう、哲学者が聞いて呆れますよ!

哲人 なるほど、もう少し具体的に説明する必要がありそうですね。

青年 ええ、説明してください! もしも先生がご自分を哲学者だとおっしゃるのであれば、ここはしっかり説明していただかなければ困ります!

他者との比較が劣等感を生む

 なぜ「すべての悩みは対人関係」なのか。そう問われた哲人は、自身がかつて思い悩んでいた、身長についての劣等感を語りはじめます。

哲人 では、わたし自身の劣等感についてお話ししましょう。あなたは最初にわたしと会ったとき、どのような印象を持ちましたか? 身体的な特徴という意味で。

青年 ええっと、まあ……。

哲人 遠慮することはありません、率直に。

青年 そうですね、想像していたよりも小柄な方だと思いました。

哲人 ありがとう。わたしの身長は155センチメートルです。アドラーもまた、これくらいの身長だったといいます。かつてわたしは——まさにあなたくらいの年齢まで——自分の身長について思い悩んでいました。

 身長が高いのか低いのか。一見するとこれは対人関係とは無縁の、内面的な悩みのように思えます。しかし、そうではないというのが哲人の、つまりアドラー心理学の考えです。哲人は友人から聞かされた「お前には人をくつろがせる才能がある」という言葉をきっかけに、そのことに気づきます。

哲人 わたしが自分の身長に感じていたのは、あくまでも他者との比較――つまりは対人関係――のなかで生まれた、主観的な「劣等感」だったのです。もしも比べるべき他者が存在しなければ、わたしは自分の身長が低いなどと思いもしなかったはずですから。あなたもいま、さまざまな劣等感を抱え、苦しめられているのでしょう。しかし、それは客観的な「劣等性」ではなく、主観的な「劣等感」であることを理解してください。身長のような問題でさえも、主観に還元されるのです。

青年 つまり、われわれを苦しめる劣等感は「客観的な事実」ではなく、「主観的な解釈」なのだと?

哲人 そのとおりです。わたしは友人の「お前には人をくつろがせる才能があるんだ」という言葉に、ひとつの気づきを得ました。自分の身長も「人をくつろがせる」とか「他者を威圧しない」という観点から見ると、それなりの長所になりうるのだ、と。
 もちろん、これは主観的な解釈です。もっといえば勝手な思い込みです。ところが、主観にはひとつだけいいところがあります。それは、自分の手で選択可能だということです。自分の身長について長所と見るのか、それとも短所と見るのか。いずれも主観に委ねられているからこそ、わたしはどちらを選ぶこともできます。

 われわれが抱える劣等感とは、他者との比較から生まれるものであり、「対人関係の悩み」である。そして、もしもこの世界に自分以外の誰ひとりも存在しなければ、あらゆる悩みはなくなってしまう。言葉も、論理も、コモンセンスも必要なくなる。「価値」そのものが存在しなくなる。逆にいえば、人間の悩みはすべてが対人関係に端を発することになる。それがアドラーの考えです。

 ちなみに、「劣等感」という言葉を現在語られているような文脈で使ったのは、アドラーが最初だとされています。

人生の悩みを吹き飛ばす
「課題の分離」とは

 そして対人関係の悩みを一蹴するために登場するのが、アドラー心理学独自の「課題の分離」という発想になります。「課題の分離」がどんなものであるか、再び哲人と青年の対話を引きましょう。

哲人 わかりました。それでは、アドラー心理学の基本的なスタンスからお話ししておきます。たとえば目の前に「勉強する」という課題があったとき、アドラー心理学では「これは誰の課題なのか?」という観点から考えを進めていきます。

青年 誰の課題なのか?

哲人 子どもが勉強するのかしないのか。あるいは、友達と遊びに行くのか行かないのか。本来これは「子どもの課題」であって、親の課題ではありません。

青年 子どもがやるべきこと、ということですか?

哲人 端的にいえば、そうです。子どもの代わりに親が勉強しても意味がありませんよね?

青年 まあ、それはそうです。

哲人 勉強することは子どもの課題です。そこに対して親が「勉強しなさい」と命じるのは、他者の課題に対して、いわば土足で踏み込むような行為です。これでは衝突を避けることはできないでしょう。われわれは「これは誰の課題なのか?」という視点から、自分の課題と他者の課題とを分離していく必要があるのです。

青年 分離して、どうするのです?

哲人 他者の課題には踏み込まない。それだけです。

青年 ……それだけ、ですか?

哲人 およそあらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むこと――あるいは自分の課題に土足で踏み込まれること――によって引き起こされます。課題の分離ができるだけで、対人関係は激変するでしょう。

 たとえばアドラー心理学のカウンセリングでは、相談者が変わるか変わらないかは、カウンセラーの課題ではないと考えます。カウンセリングを受けた結果、相談者がどのような決断を下すのか。これまでの自分を変えて、新しい一歩を踏み出すのか。それとも、このまま踏みとどまるのか。これは相談者本人の課題であり、カウンセラーはそこに介入できないのです。

 もちろんカウンセラーも、精いっぱいの援助はします。ある国に「馬を水辺に連れていくことはできるが、水を呑ませることはできない」ということわざがあるそうですが、まさにアドラー心理学のカウンセリング、そして他者への援助全般もそういうスタンスだと考えてください。

 課題の分離という発想に納得できない青年に対し、哲人はこんな言葉をぶつけます。

哲人 あなたは大きな勘違いをしている。いいですか、われわれは「他者の期待を満たすために生きているのではない」のです。

青年 なんですって?

哲人 あなたは他者の期待を満たすために生きているのではないし、わたしも他者の期待を満たすために生きているのではない。他者の期待など、満たす必要はないのです。

青年 い、いや、それはあまりにも身勝手な議論です! 自分のことだけを考えて独善的に生きろとおっしゃるのですか?

哲人 ユダヤ教の教えに、こんな言葉があります。「自分が自分のために自分の人生を生きていないのであれば、いったい誰が自分のために生きてくれるだろうか」と。あなたは、あなただけの人生を生きています。誰のために生きているのかといえば、無論あなたのためです。そしてもし、自分のために生きていないのだとすれば、いったい誰があなたの人生を生きてくれるのでしょうか。われわれは、究極的には「わたし」のことを考えて生きている。そう考えてはいけない理由はありません。

 われわれは「他者の期待を満たすために生きているのではない」。そして同時に、他者もまた「あなたの期待を満たすために生きているのではない」。自分を曲げてまで相手の期待に合わせる必要はないし、相手が自分の思うとおりに動いてくれなくても、怒ってはいけない。それが当たり前なのだと考えるのです。哲人は一気に畳みかけます。

哲人 われわれはみな、対人関係に苦しんでいます。それはご家族との関係かもしれませんし、職場での対人関係かもしれません。そして前回、あなたはいいましたね? もっと具体的な方策がほしい、と。
 わたしの提案は、こうです。まずは「これは誰の課題なのか?」を考えましょう。そして課題の分離をしましょう。どこまでが自分の課題で、どこからが他者の課題なのか、冷静に線引きするのです。
 そして他者の課題には介入せず、自分の課題には誰ひとりとして介入させない。これは具体的で、なおかつ対人関係の悩みを一変させる可能性を秘めた、アドラー心理学ならではの画期的な視点になります。

自由とは他者から
嫌われることである

 本書のタイトル『嫌われる勇気』が、どのような思想に基づくものか、少しずつ見えてきたでしょう。最後に、「他者から嫌われること」をめぐって交わされる対話を引用して、この記事の終わりにしたいと思います。

哲人 何度もくり返してきたように、アドラー心理学では「すべての悩みは、対人関係の悩みである」と考えます。つまりわれわれは、対人関係から解放されることを求め、対人関係からの自由を求めている。しかし、宇宙にただひとりで生きることなど、絶対にできない。ここまで考えれば、「自由とはなにか?」の結論は見えたも同然でしょう。

青年 なんですか?

哲人 すなわち、「自由とは、他者から嫌われることである」と。

青年 な、なんですって!?

哲人 あなたが誰かに嫌われているということ。それはあなたが自由を行使し、自由に生きている証であり、自らの方針に従って生きていることのしるしなのです。

(中略)

青年 ……先生はいま、自由ですか?

哲人 ええ。自由です。

青年 嫌われたくはないけど、嫌われてもかまわない?

哲人 そうですね。「嫌われたくない」と願うのはわたしの課題かもしれませんが、「わたしのことを嫌うかどうか」は他者の課題です。わたしをよく思わない人がいたとしても、そこに介入することはできません。

 今回は、本書『嫌われる勇気』の中から、「目的論」と「課題の分離」にポイントを絞ってお話を進めました。もちろんアドラーの思想はこれだけにとどまるものではありません。われわれにとって仕事とはなにか、愛とはなにか、われわれはいかに生きるべきか、人生とはなんなのか、そして幸福とはなんなのか、などありとあらゆるテーマについて、哲人と青年が存分に語り尽くしています。

 アドラー心理学は「勇気の心理学」です。われわれの人生を決めるのは、生まれ育った環境でもなければ、先天的な能力(才能)でもない。変わろうとする「勇気」があるか。前に進もうとする「勇気」があるか。それだけだと考えます。

 もし前後編にわたってお送りしたこの記事に少しでも興味を抱かれたなら、ぜひ『嫌われる勇気』を手に取ってみてください。アドラーの厳しくも希望に満ちたメッセージは、必ずやわれわれの人生を変えてくれるものだと確信しています。


古賀史健 (こが・ふみたけ)

ライター/編集者。1973年福岡生まれ。1998年出版社勤務を経てフリーに。これまでに80冊以上の書籍で構成・ライティングを担当し、数多くのベストセラーを手掛ける。20代の終わりに『アドラー心理学入門』(岸見一郎著)に大きな感銘を受け、10 年越しで『嫌われる勇気』の企画を実現。


[いずれもDIAMOND online]

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Posted by nob : 2014年02月17日 16:52