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「愛川欽也パックイン・ジャーナル」私も観て共感していました、、、合掌。。。

■世の中の軸が右に 愛川欽也さんが募らせた危機感

 ひょうきんで優しく、共演者や後輩から慕われていた愛川欽也さんが肺がんで亡くなった。うつみさんとは「おしどり夫婦」として注目を集めていた。そんな愛川さんには、こんな緻密な面もあったという。

「欽也さんはとにかく自分をどう売ればいいかを気にしている人でした。アドバイスを求められ、どの局のどの時間があいているとか、キャスターが代わる情報などを教えたことがあります」(放送局関係者)

 もうひとつ、近しい人たちは口をそろえて、愛川さんには常に「反戦」というテーマがあったと言う。鞄に入れて持ち歩いていたのは「日本国憲法」だった。

 98年から始まったCS放送「朝日ニュースター」の討論番組「愛川欽也パックイン・ジャーナル」では、徹底して反戦、反権力の姿勢を貫き、「地上波では放送できない」ものを出した。

 毎週土曜11時からの放送を前に、愛川さんは9時45分ごろにはスタジオに到着していた。一番乗りになることもあった。当時、朝日ニュースター報道制作局長だった朝日新聞の岡崎哲也さんはこう話す。

「一番やりたいのは映画、2番目にやりたいのはこの番組だと言っていました。2時間の放送でギャラは他と比べると決して高くはないけれど、テーマやタイトルまで自分で決めて、パッションがものすごかった」 番組はCSチャンネル中でも「最強コンテンツ」で、他の番組を軽く10倍は超える視聴率だったという。

 その中でも、愛川さんには疎開した戦争体験の影を感じたという。

「原動力はやはり反戦でした。政治のことはよく取り上げました。言い合いになると、口をワナワナさせて怒る。コメンテーターの人選など、意に沿わないことは曲げなかった。生放送でしたが私が担当していた間は一度も欠かさず、遅刻もなかった」

 コメンテーターとして同番組に参加していたジャーナリストの山田厚史さんも、こう話す。

「朝日ニュースターでの放送が終了した際、番組をテレビ局に持っていくという話がありました。ところが、2時間の生番組だったものを、1時間にして生ではなく編集したものにする、とテレビ局が言ったので、愛川さんは『権力を恐れて、ハサミを入れるようなところには出られない』と断った。それでインターネットテレビを立ち上げたのです」

 愛川さんと同じ昭和9年生まれで、男性芸能人の親睦会「昭和九年会」などで公私ともに付き合いが長かった大橋巨泉さんが言う。

「彼の場合、反戦とか平和を発言するようになったのは菅原文ちゃんもそうだけど、晩年ですよね。11PMで一緒だったとき、そういう話をしたことはない。文ちゃんもキンキンにしても日本の世の中の軸が右のほうへぶれてきたので、危機を感じたんじゃないかな。僕もキンキンも戦時中、疎開してさんざんいじめられた体験がある。この戦争は負けるなんて言うとすぐに憲兵にひっぱられる時代だったからね。そんな時代に絶対、なってはいけないという思いが2人とも強かったと思います」

 巨泉さんが最後に愛川さんと会ったのは昨年秋、「アド街」のゲストで出演したときだという。

「そのときは全然変わった様子はなかったが、今年に入り、番組を見る限り元気がないかなという気はしました。ケロンパ(うつみさん)とは番組で共演し、一時期、毎週のように会ってましたし、うちの家内とケロンパもずーっと友達です。今、僕が一番心配なのは、ケロンパが体調を崩すこと。一人でおいとくのは危険だから、ずーっとそばにいてあげる人がいたら、いてあげたほうがいいと思う」

(本誌・上田耕司、山岡三恵)

[週刊朝日]

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Posted by nob : 2015年04月22日 18:34