« 何者でもない、何者にもなりうる自らを全面的に肯定する絶対的価値基準が、他者による客体的価値基準という根源的要因を霧散させる。。。 | メイン | 彼の真意がどこにあれども、、、脱原発への影響力に期待。。。Vol.43/明日のこの国を創るのは私たち一人一人。。。 »

そのとおり!!!Vol.49/私たちが闘わなければならない本当の敵は、「既得権益」などという架空の敵ではない。「どうせ変わらない」という、私たち自身の中にある意識である。

■橋下徹が「引退」できない3つの理由

都構想はあの住民投票で終わったのか?

――政治ジャーナリスト・松井雅博

史上最大の住民投票を振り返る
橋下徹は政界を引退すべきなのか?

 5月17日、大阪都構想の住民投票否決――。

 橋下徹大阪市長が提案した「大阪市を廃止し、5つの特別区に分割する」という壮大な行政区の改革は、反対70万5585票、賛成69万4844票という僅差で否決された。

 政治生命を懸けた橋下徹大阪市長は、敗北記者会見で政界からの引退を表明。国政政党である維新の党の江田憲司衆議院議員も、代表を辞任した。

 この敗北により、「維新」の存在感が著しく低下することは免れない。看板政策である「都構想」が頓挫し、党の顔であった橋下徹市長が引退することで、政党としての存立基盤が崩壊してしまうからだ。維新の党の代表には、23年前、政界再編の先駆けとなった日本新党のリーダー・細川護煕元総理大臣の秘書でもあった松野頼久氏が就任した。いわば、1990年代から続く政界再編の闘争を見続けてきた政治家であるが、そのわりに頼りなさは否めない。

 橋下徹や「維新」を批判するのは簡単である。「それ見たことか」「やっぱり失敗か」「責任をとれ」と騒ぎ立てる人も多いかもしれない。しかし、大きな改革に挑戦した政治家に対して、その態度は有権者としてあまりに不誠実ではないか。

 明治維新以来、市町村合併を除けばほとんど変わらなかった行政機構を変えることは、それだけ難しいことだったのだ。武力や戦争で物事を決する時代ではなく、投票や論争で物事を決める民主主義の時代では、抜本的に制度を変えるということは極めて難しいとも言えるのではないか。

 都構想を問う住民投票から1ヵ月が経った今、改めてその意義を振り返ると共に、維新と橋下徹市長が歩むべき道、そして私たち有権者がなすべきことについて、筆者なりに提言したい。

 170万人もの大阪市民が参加した史上最大の住民投票から、我々は何を学んだのか、あの住民投票は無駄だったのか、それとも意味があったのか。そして、橋下徹大阪市長は本当に政界を引退すべきなのか。だとしたら、それが何の「責任」をとることになるのだろうか――。

 結論から言うと、橋下徹市長は政界から去るべきではない。それについて3つの理由を提示していこう。

 ちなみに、筆者はマッキンゼーでコンサルタントとして働いた後、国会議員政策担当秘書として政治の世界へ飛び込んだ。与野党の国会議員事務所で2年半働いた後、兵庫県第10区(加古川市、高砂市、稲美町、播磨町)より衆議院議員選挙へ出馬し、5万1316票を獲得するも落選。一民間人の感覚で政治の現場や裏側を見た経験を活かし、政治をできる限りわかりやすく面白く読者にお伝えする。

橋下徹が引退できない理由【その1】
都構想否決は「民主主義」の宿命だから

 まず、橋下徹が引退できない第一の理由は、都構想の否決は、橋下氏の責任というより「民主主義」の宿命によるところが大きいと思うからだ。

 大阪都とは、ひとことで言えば「大阪市をなくして5つの区に分ける」というもの。そのことにより、大阪府と大阪市の権限争いに終止符を打ち、「大阪」を1つに統一することで無駄をカットすると共に、都市計画を一元化しようという行政の仕組みの改革だ。政令指定都市を解体し、都道府県の名称まで変えてしまおうというのだから、明治維新以来の大改革と言っていいだろう。

 だが、この改革によって「得をする」のは誰なのだろう。

 政令指定都市を解体して特別区を設置してしまえば、当然「大阪市」としての行政上の一体感はなくなるし、権限・財源も大阪府へ移行する。つまり、大阪市民にしてみれば、どちらかと言えばマイナスの改革なのである。ただ、そのことによって「大阪」が全体として効率的になり、いわば「グレーター大阪」(大きな大阪)が東京都と並ぶ大都市として存在することになるというのが、大阪都構想だったはずだ。

 大阪市に納められていた税金(固定資産税など)は、大阪市が廃止されれば大阪府に納められ、特別区に再分配される仕組みとなる。反対派の論客は、特別区の財源の多くを占めることになる「財政調整交付金」の20%(おおよそ2200億円)ものお金が広域サービスの名の下に特別区の外に使われることになる、と指摘していたが、これはその通りだろう。

 この批判に対して、大阪維新の会は「特別区内の広域サービスに使う」「府に移る広域行政の事務や市債の返済にあてる」と説明したが、特別区内にとどまるならば、そもそもそれは「広域サービス」とは呼ばない。もし、大阪市以外にお金が流れないなら、それこそ大阪市を廃止する意味がない。

 橋下徹市長も、街頭演説などで懸命に「大阪市のお金は外に流出しない」と説明したものの、それはちょっと無理がある話だ。つまり大阪都構想は、大阪市民にとって「直接的には」損をする話だということは否定できない。

「グレーター大阪」(大きな大阪)が、大阪府、ひいては日本全体にとって得になる話だとすれば、「直接的には」大阪市民にとっては損だと感じる人が多くて当然のことだ。「あなたにとってマイナスのことをしますが、いいですか?」と尋ねて「はい、どうぞ」と言う人は少ない。その時点で、「大阪市廃止」を大阪市民に問うことは、相当に分が悪い戦いと言えよう。

 この不利な状況の中で、69万4844人の支持を集め、僅差に追い詰めたというのは、責任をとるどころか、むしろあっぱれなことではないか。

 この民主主義の下では痛みを伴う改革を実行することが極めて難しい現象、言うならば「民主主義のジレンマ」とも呼べる現象は、国政にも存在する。たとえば、グローバル都市東京に世界の企業を誘致すべく法人税を大胆に下げようとしても、東京の税収の再分配の恩恵を受けている地方がなかなか納得してくれない。若者の負担を下げるために年金支給額をカットしようとしても、高齢者はなかなか首を縦には振ってくれない。直接的に損をする人たちは、必ず反対する。民主主義の下では、その「損をする」人達の数が「得をする」人達を上回れば、その改革は極めて難しくなってしまうことが宿命付けられているのだ。

 筆者はかつて、ハーバード大学ケネディスクールの授業で、「最前線のリーダーシップ」を著したマーティ・リンスキー教授に、こう質問したことがある。

「民主主義の下で、政治リーダーが痛みを伴う改革を断行することは可能なのでしょうか」

 この質問に対して、マーティ・リンスキー教授はJ.F.ケネディ・第35代米国大統領のエピソードを話してくれた。

人々は改革に抵抗しているんじゃない
「損すること」に抵抗しているのだ

 ケネディ大統領と言えば、「Ask not what your country can do for you, ask what you can do for your country」(国家があなたのために何ができるかを問うのではなく、あなたが国家のために何ができるかを問うてほしい)」という名言で有名だ。

 だが、実はこの言葉は大統領就任式で出た言葉である。

 すなわち、選挙後にケネディはこの名演説をぶったのであって、選挙前には「ニューフロンティア」という耳触りのいい言葉(実は意味は同じなのだが)を、キャッチコピーとして大きく打ち出している。簡単に言えば、民主主義における政治リーダーが有権者に負担を求めるのは、それだけ難しいということだ。

 ちなみに、ケネディ大統領は4年の任期を一期も満了することなく、1963年11月22日、テキサス州ダラスにて暗殺されている。

 ケネディスクールの教授は、最後にこう言った。

「People never resist Change. People resist LOSS」(人々は改革に抵抗しているんじゃない。損することに抵抗しているのだ)

 そう考えると、損することを堂々と人々に訴え、僅差まで追い込んだ橋下徹市長は、民主主義のリーダーとしては新しい存在であるし、69万4844人の人がそれに賛同した事実は、むしろ驚愕すべきことなのである。

【橋下徹が引退できない理由 その2】
10年待てば「大阪都」は実現できるから

 橋下徹が引退できない第二の理由は、もう10年待てば「大阪都」を実現できる可能性があるからだ。そもそも、橋下徹人気の根拠は何だったのだろう。

 橋下氏の政治手法は、従来の政治家と比べると極めて異色だった。大阪の街中で堂々と標準語で演説し、ふわっとしたキャッチコピーを捨てて歯に衣着せぬ物言いを貫き、「統治機構」など難しい単語も遠慮なく使う。マスコミの前で真っ向から議論をふっかけ、ツイッターなどを通じてネット上で議論を炎上させ、民衆の目を惹きつける。

 それに対して、従来の政治家のステレオタイプはどういったものだったろうか。誰も聞いていないのに駅前でマイクを握って働いてるフリ。地元の行事や冠婚葬祭に足しげく通うことばかりに時間を使う。口先でカッコいいことを言っても、結局何をしてるのかさっぱりわからず、影では私腹を肥やす――。まるで「民主主義」を大義名分とした壮大なる詐欺商売のようだ。

 当然、従来の政治家の価値観や生き様を否定するもりはない。しかし、従来の政治家の姿が、人々に政治との距離を感じさせ、政治離れを促してきたのは事実ではなかったか。都構想の否決そのものよりも、今回の失敗で残念なのは、「やっぱり政治は何も変えられないんだ」という強烈なメッセージを全国に発信してしまったように感じることだ。

 そして、ネット上で盛んに論争を呼んでいるのが「シルバーデモクラシー」と揶揄される現象である。産経新聞の投票日当日の出口調査の結果では、大阪都構想に対して若い世代は過半数が賛成しており、反対派は現役を引退した高齢世代が大多数を占めた、という話である。大阪の未来を考える選挙で、もう現役を退いた人々の声が結果を左右してしまうのは、極めて残念である。

 今回、全体の投票率は66.83%に及び、普段は選挙に行かない若い世代の有権者も多くが投票所に足を運んだ。しかし、人口そのものの絶対数が多い高齢者には勝てないことが露呈したのである。

 極論・暴論と批判されることを覚悟で言えば、現役を引退した人たちが投票権を持つことは本当に妥当なのだろうか。もうすぐ選挙に行ける年齢が20歳から18歳へと下げられるが、「判断能力のなさ」を根拠として未来を担う子どもたちに選挙権が与えられないのが許されるならば、現役を退いた人たちの選挙権を制約することも、一定の条件の下で許されてよいのではないか。

 筆者自身、選挙に出馬した際、多くの高齢者と触れ合った。年齢にもよるが、彼らの中に判断能力を疑問に思う人もいたのが正直な感想だ。現役を退いたことで情報収集へのモチベーションが著しく低下した方や、そもそもインターネットを使うことができない方もいた。「新党さきがけですか?」と大昔の政党の名前を真顔で出してきたり、「昔からの付き合いだから」と平然としがらみを言ってのける方も、10人や20人ではなかった。かつ、彼らは選挙にはきちんと行くのである。

 こうした状況をどう捉えるべきか――。

 そもそも、戦後年金の受給年齢がかつて60歳と定められたのは、その頃の日本人の平均余命が60代前半だったからだ。平均余命が80歳を超えるようになった今、年金を受給する人たちの意見がその財源を払う世代の意見よりも大きく政治に反映される仕組みは、改善されるべきではないだろうか。たとえば、年金を受給するようになったら、選挙へ行くためには一定の判断能力テストを課すといった制度も、1つの解決策として議論の価値があるように思う。(注)

「地方切り捨て」「高齢者切り捨て」と声高に批判する人は多いが、政治的マイノリティである「若者」「現役世代」を切り捨てていいはずがない。「老いては子に従え」なのか、「老いたる馬は道を忘れず」なのか――。もし、橋下徹が引退することで、「結局、若者は高齢者に勝てない」という強烈なメッセージを発信してしまうとするならば、そのこと自体、社会にとってマイナスなことだと思う。

 橋下徹はまだ45歳。10年経ってもまだ55歳である。今の安倍晋三総理大臣が第2次安倍内閣を組閣したのが58歳だから、政治家の中ではまだまだ若手。やり直しが認められてもいいのではないか。ちなみに筆者は35歳。10年経っても今の橋下徹市長と同じ年齢。45歳で失敗が認められる社会なら、筆者だって勇気をもらえる。

 もし本当に自らが提示した「大阪都」が正しいと信じるならば、ぜひあと10年、戦ってもらいたいと思う。敗けても敗けても、なお立ち向かっていく――。その姿に多くの若者が共感し、変革の原動力となっていくと思うからだ。あと、0.4%をひっくり返せば、大阪都は実現できる。たとえば、いったん大阪から身を引き、国政に出て、10年後にもう一度勝負を賭けたら、結果は逆転する可能性が高いように思えてならない。

 逆に、この未来への可能性を明確に示した点で、今回の住民投票は大いに意味があるものだったと筆者は思う。

(注)読者諸氏には、この意見が極論・暴論であることは筆者自身十分承知した上で、問題提起のためにあえて述べていることをご理解いただきたい。

【橋下徹が引退できない理由 その3】
改革勢力のリーダーが他にいないから

 そして、橋下徹が引退できない第三の理由は、改革勢力のリーダーが他にいないからである。橋下徹がいなくなることで最も直接的に負の影響を受けるのは「維新の党」であり、「大阪維新の会」であろうことは冒頭で述べた。はっきり言って、橋下徹のいない「維新」なんて、アンコの入ってないアンパンみたいなものである。

 自民党政権が安定感を増し、野党勢力の弱体化にもはや歯止めが効かない状況の中、政界再編は起きざるを得ないだろうが、果たしてこの野党勢力を率いるだけの逸材が今の政界いるだろうか。同じような顔ぶれがいつの間にやら政党を変えて居座っているため、なんだか使い古された印象しか受けないという方も、正直多いのではないか。

 維新の党の松野頼久新代表の師である細川護煕元総理らが、政界再編闘争を始める1990年初頭までは、「保守」VS「革新」というわかりやすい対立軸があった。この軸があまりにもわかりやすすぎたために、ベルリンの壁やソ連が崩壊して20年以上が経つにもかかわらず、今でも高齢の有権者や「政治通」ぶった有権者に会うと、「で、君は保守なの?」と尋ねられたりする。言うまでもないが、こんな軸は昭和の遺物でしかなく、何の意味も持たない。

 代わって1990年初頭から、先に挙げた細川護煕元首相や小沢一郎氏、そして民主党が政界再編闘争をしかけ、自民党を「既得権益と結びついた古い政党」とみなした「守旧」VS「改革」という軸を提示した。その結果、2009年に民主党が政権交代を実現することになる。

 ところが、民主党政権があっけなく崩壊したことによって、有権者からすれば何を判断の軸として政治を選んでいいのか、さっぱりわからなくなった。今の安倍政権だって、今年度の国会を「改革断行国会」と名付け、改革を進めている。それでいいのではないかと思う有権者もいるだろう。

 有権者の多くは、わかりやすい軸がないと政治に興味を持てないものだ。最近、国会では安保法制が盛んに議論されており、「憲法を守れ」「憲法を変えろ」という声が飛び交っているが、日本国民の何%の人が憲法をちゃんと読んだことがあるのか、正直はなはだ疑問である。本当にシンプルでわかりやすい軸を提示しない限り、有権者に選択を迫っても無理があるのではないか。正直、筆者だって、候補者のことをほとんどわからないまま名前を書いて投票していることがほとんどである。特に地方選になると候補者が多すぎて、もはや誰が何者なのか、正直、さっぱりわからない。

「破綻を容認する」VS「破綻を避ける」
住民投票を機に出現した新たな対立軸

 そんななか、大阪での住民投票は大阪市民を真っ二つに分けた。これはまさに、二大政党政治が確立したのと同じ意味合いを持つ。そこに見られた、21世紀の日本の政治に存在している軸は「破綻を容認する」VS「破綻を避ける」というものではないか。

 1000兆円以上の借金を抱えているにもかかわらず、依然として100兆円を超える予算を組む今の与党。日本銀行がこれまでの経済理論では考えられないほどの量のお金を印刷してばらまくことで、株価が上がって喜んでいる人たちは、もはや「財政破綻」を容認しているとも言える。大阪都に反対するだけで対案を全く示さない人たちも、「お金がない」という現状から目を逸らした=大阪の破たんを容認した人たちと言えまいか。

 民主主義の思想の下では、有権者に負担をお願いするのが極めて困難ならば、破綻しない限り、人々は何かを変えようとしないだろう。ならば、いっそ破綻を容認して、どんどんお金を使ってしまえばいい。その考えには一理あると思う。

 一方で、「お金がない」という現状を直視し、理性的に支出を抑制しようというのが野党であるはずだ。大阪都に賛成した人たちも、自分たちにとってそれが直接的には損をすることだったとしても、自立する覚悟を決めた人たちである。特に大阪市民の若い世代の中で、その覚悟を決めた割合が高かった点は見逃せない。

「軸」が不透明な時代に、この「軸」をはっきりと示したという点でも、今回の住民投票は極めて重要な意味を持っている。

 そもそも二大政党を否定する人もいるかもしれないが、「2つ」以上の選択肢を選べるほど、有権者は十分な情報を持ち得ないし、ほとんどの有権者はそこまで政治に関心がないのが現実である。「無党派」などという言葉があるが、選択する以上有権者は常に「無党派」であるべきだ。そしてほとんどの有権者は、基本的に「ノリ」で選挙へ行く。テレビや新聞で得た情報を基に、賛成派と反対派の区別もよくわからないまま、なんとなく投票する人が多いのも選挙の実態だ。

 この軸に立脚すれば、政治の一翼を担うべき日本の野党勢力はバラバラで弱すぎる。この勢力をまとめあげ、「ノリ」で選挙へ行く有権者たちを惹きつける求心力を持つ人材が、橋下氏以外に見当たらないとするならば、彼が政界を去ることは、日本の政治に致命的な打撃を与えるだろう。首長や議員としてでなくても、法律顧問や評論家として、これからも日本の政治をリードする存在であって欲しい。

 また、完全に引退するというならば、69万4844人の大阪都に賛成票を投じた有権者の想い(ノリ)を引き継げるだけの後継者を、これまでに育てておくべきだった。後継者を育てなかったのは橋下氏のリーダーとしての責任であるため、逆に言えば、それこそ「責任をとって」リーダーを続けてもらわなくてはいけない。

 ちなみに、ここまで読んで、筆者が橋下氏に強いシンパシーを持っており、政界に引き留めようとしている、と感じた読者もいるかもしれない。しかし、だとしたらそれは誤解だ。正直、橋下徹氏は筆者の友達にはあまりいないキャラだし、絶対に友達になりたくないタイプの人である。あくまで、客観的な視点から橋下氏を評価しているつもりだ。

大阪は東京の「真のライバル」になれるか?
やはり大阪は変わらなくてはいけない

「トライ!『おおさか』の笑顔へ」

 今から7年前、橋下徹市長が大阪府知事選挙に立候補したときのキャッチコピーだ。果たして大阪は、そして日本は笑顔になったのだろうか。

 ここまで、筆者が都構想の住民投票から学んだことを徒然なるままに書いてきたが、最後にそれらを踏まえて、大阪も含めた日本に対する筆者の提言を行い、本稿を締めくくりたい。

「大阪市廃止」は単なる行政区域の変更であって、良くも悪くもそれだけで何か大きな変化が起きるわけではない。それは逆に言えば、今回の住民投票の結果、大阪都構想が否定されたからと言って、やるべきことが変わるわけではないといということだ。これまでと変わらず、行政のムダは省かれるべきだし、大阪は日本第二の都市圏として生まれ変わるべきだ。大阪市ではっきり露呈した「軸」は、今後もしっかりと対峙しながら政治を前に進めていかなくてはいけない。大阪都はあくまで手段の1つでしかないのだから、それが否定されただけで、この大きな軸の一翼を捨てるのはナンセンスだ。

 まず、大阪はもはや「地方」という意識を捨てなければならないだろう。大阪「都」という名前には、その意味が込められていたはずである。大阪のように、人もいて、企業もあり、大学もある都市が、国からもらう再分配を当てにした予算を組んでいること自体がおかしいのだ。大阪は、これまでのような「東京」を過剰にライバル視した「地方都市」から脱却し、直接海外の都市と競争できるような、東京の「真のライバル」へと転身しなくてはいけない。

 大阪周辺の関西地方も、変わらなくてはいけない。大阪が元気になるということは、周辺のヒト・モノ・カネが大阪に集中することを意味するため、それは単純に考えれば、京都や兵庫などの隣県にとってネガティブな意味合いを持つ。だが、大阪が世界から資本を集められるグローバル都市に成長することができれば、当然その経済効果を「いかに周辺地域に波及させるか」という考えを、自然に持つようになる。これまで関西の府県はバラバラだと言われていたが、それは良くも悪くも大阪の求心力が弱かったからだ。関西のそれぞれの府県が、関西州も含めた新しい連携の形を検討せずして、世界と戦える都市圏には成長できない。

 一方で、東京もこれまでのように「何もしなくても自然と若者や企業が集まってくる街」という位置付けに甘んじていてはいけない。東アジアで最も綺麗で安全な街であるものの、生活コストが高いのが東京の難点だ。コスト競争力に勝る大阪が、次々と都市戦略を講じるようになれば、東京もうかうかしてはいられない。そもそも日本全体で少子化が進み、若者が減り、人口が激減しているのに、日本の中で人を取り合っていても未来はない。海外からの移民を大胆に受け入れられる態勢があるのは、今のところ東京のみであり、グローバル都市へと脱皮する覚悟も持たなくてはならないだろう。

 そして、地方議会の政党は国政政党の「足元」などと呼ばれて選挙で楽をしていてはいけない。そもそも、小選挙区制度が導入され二大政党に集約されていく宿命を背負っている国政とは違い、地方議会で中選挙区・大選挙区制度が採用されているのは、多党政治を前提としているからだ。今のように国政政党と地方政党が同じでは、地方議会の選挙は政党名だけで決まってしまい、ほとんど選挙の意味がなくなってしまうではないか。各地方はローカルパーティをつくり、国政から距離を置き、地域ごとの課題を本気で議会でぶつけあうべきだ。

面白きこともなき世を面白く――。
「おおさかの笑顔」は蘇るか

 色々と論じてきたが、いずれにせよ「大阪市廃止」は否決されたのである。その是非は、時代が判断することだろう。

 橋下氏は大阪で敗北したが、彼が記者会見で述べた「大阪市民に受け入れられなかった」という言葉は間違っている。実際は、69万4844人の大阪市民が彼を受け入れた。10年後にもう一度勝負をかけるために、「改革のアプローチ」を変えるのもありではないか。たとえば一度国政に立ち、中央から都市制度や地方分権改革といった改革を進めるのもいいと思う。

 私たちが闘わなければならない本当の敵は、「既得権益」などという架空の敵ではない。「どうせ変わらない」という、私たち自身の中にある意識である。確かに、私たちは厳しい時代に生まれたかもしれない。だが、それは同時に「変革」の時代でもあり、面白い時代でもある。

「面白き ことも無き世を 面白く」――。

 維新の世を生きた高杉晋作の辞世の句が、今の時代に再び輝きを放つ。

 明治の世と違って、平成の世は民主主義の時代である。「御一新」は極めて難しい。

 だが筆者は、それでもなお「笑いの本場」大阪が笑顔を取り戻し、再び全国に笑顔を振りまいてくれることを期待してやまない。

[DIAMOND online]

ここから続き

Posted by nob : 2015年06月13日 16:35