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何処で何をするかではなく、何処ででも何事にもどのように取り組むのかということ。。。

■阿部寛 現在の居場所で幸せを見つけることが肝心

 是枝監督最新作『海よりもまだ深く』で、阿部寛(51才)が“なりたかった大人”に“なれなかった自分”を演じ、感じたこととはどんなことか?

「みんな理想通りの人生を歩めるわけじゃない」…そう話す、阿部。今作では15年前に文学の新人賞を1度取ったという過去にしがみつき、“今”となかなか向き合えない主人公、良多を演じた阿部が、不器用な主人公と自分とを照らし合わせた。

 いつまでも夢を諦めきれない中年男の良多。15年前に文学賞を受賞したきりの自称作家だが、現実に向き合えずに「小説のための取材」と言い訳をして探偵事務所で働く、うだつがあがらない日々。

『海よりもまだ深く』は、“なりたかった大人”になれなかった大人たちの物語。主演の阿部寛は自身が扮する、大人になりきれない良多を「共感できる」と、語る。

「やっぱりどうしたって、人間は楽しかった時代のことをよく覚えている。不調な時は『昔はよかった』『なんでおれはだめなんだろう』なんて、過去の記憶を引きずりますよね。それが人だろうし、ぼく自身も不遇の時代が多かれ少なかれあったので。

 そういう時は何をしても空回りして、みじめな行動もしていましたよ。振り返ればとても貴重な経験ですが、当時は気持ちの切り替えができなかった」

 めざした未来を掴めなかった人生は、不幸なのだろうか。

「ぼくもかつて描いた“理想の人生”ではなかったですが、違う生き方をしてみて、こだわりを変えてみたら、今にすごく満足している。広い視野で考えれば日本人であることも幸せなことでしょうし、立場はどうであれ、現在自分が立っている居場所で“幸せ”をみつけることが肝心な気がします。そうして足元さえ見えれば、あとはもう先へと進むだけなのでね」

 6月には、52才になる。

「ぼくが幼い頃、実家の上に怖いおじさんが住んでいて、おじさんの持ち物の木に勝手に登っていると『コラァッ!』と、叱られた。50代というと、その怖いおじさんのイメージです。でも、そうやって社会の大人がしつけをするのは大切なこと。自分もああなりたいけど、都会ではなかなかね」

 不遇時代も乗り越え、がむしゃらに走ってきた30~40代。

「30代は必死に走り抜け、40代は結果を出そうともがいた。ようやく少しだけ気持ちの余裕ができた50代は、人生でいちばん勉強する時代になるような予感がしています。まだまだギラギラしながら、60~70代で芝居を、そして人生を円熟させるための努力をしたい」

 21日の公開を控えて、11日に開幕した第回カンヌ映画祭では、独自の視点の作品を集めた「ある視点」部門に選出された。

「いつかカンヌ国際映画祭で上映される作品に出演できたら――と願った、ぼく自身の夢が叶った」

 と、喜びをにじませた阿部。「なりたかった自分」へのこだわりを捨てたことで、いつしか「なりたい自分」への道を歩んでいた。

【映画情報】『海よりもまだ深く』
5月21日(土)丸の内ピカデリー、新宿ピカデリー他 全国ロードショー

【プロフィール】
あべ・ひろし
1964年6月22日、神奈川県出身。モデルを経て、1987年に映画デビュー。是枝裕和監督作品には2008年の『歩いても 歩いても』を皮切りに4作目の参加。昨年はドラマ『下町ロケット』(TBS)が2015年民放連ドラ最高視聴率を記録し、大ヒット。待機作に『疾風ロンド』(11月26日公開)、『恋妻家宮本』(2017年公開)がある。

※女性セブン2016年5月26日号

[NEWSポストセブン]

Posted by nob : 2016年05月25日 11:10

楽しくないことは多々あれども、、、つまらないことなど何一つありません。。。

■「毎日がつまらない」中年男性の72%が回答

 35~49歳の中年男性300人に聞いたところ、普段の生活で「つまらない」と感じる頻度が「増えている」「どちらかといえば増えている」と答えた男性は、実に全体の72%。中でも約半数の男性が、つまらない原因は「仕事」にあると答えている。

「昔は結果を気にせず全力でがんばれた。今は『できないものは仕方ない』と割り切っている」(42歳・旅行代理店)といった声からうかがえるのは、気力や体力をなくした中年男性のうつろな姿だ。

 男の生きづらさを研究する男性学の武蔵大学助教・田中俊之氏はこう語る。

「彼らは、将来の“先が見えない”不安より、すでに結果が出ていてこれ以上の展望が望めない“先が見えてしまった”喪失感のほうが強い。男性は子供の頃から大きな夢を持てと言われて育つため、無限の可能性があった過去を美化してしまい、さまざまなものを“失った”と感じているのでしょう」

 習慣化コンサルタントの古川武士氏は、中年男性の喪失感について次のように分析する。

「人間には“変化領域”と“現状領域”がある。20代は、変化にさらされるストレスの代わりに成長感が得られる“変化領域”にいるが、30~40代は安心や安定と引き換えに停滞感を感じる“現状領域”に入っていき、そのカラは厚くてなかなか抜け出せません」

 また、スキルが上がってできることが増えると、かえって仕事の喜びを失うともいう。心療内科医の海原純子氏は、人が物事に没頭した状態についてこう説明する。

「人は、達成した結果ではなく、達成するためのプロセスにしか楽しみを見出せない。10回中10回成功するような課題には退屈してしまうので、10回中5回成功し、努力すれば7回になる、くらいの課題がもっとも心地いいんです」

 この没頭状態を“フロー感覚”と呼ぶが、「若い頃は、能力は低くても挑戦している実感があるが、中年になると能力が上がるぶん挑戦している手応えはなくなり、退屈さが勝るようになります」(古川氏)。

 つまり、中年はどうしたって物事に夢中になれなくなるのだ。こうした要因により、日頃の姿勢が以前より「守り」「どちらかといえば守り」に入ったと答えた男性は68.7%にも及んでいる。

「社会全体がリスクを恐れるようになり、『これ以上ひどい目に遭いたくない』『今までと同じことをしていれば間違いないだろう』という気分が蔓延している。しかし、適度にリスクを取って新しいことに挑戦しないと、現状維持のつもりがむしろ後退になってしまうでしょう」(田中氏)

 海原氏も、「人は未知のものに出会って緊張を感じると交感神経が刺激され、脳も体も活性化する。リスクを避けて保守的になると老化も早まります」と警告する。

〈取材・文/週刊SPA!編集部〉

[日刊SPA!]

Posted by nob : 2016年05月25日 11:00

日本人は、老後のことを考えるのが不得手以前に、そもそも自らの幸せを追い求めることが不得手、、、自らの生を救えるのは自分自身だけ。。。

■定年後の「8万時間」は、会社で過ごす時間と同じ量!日本在住30年のスイス人作家が見た日本人の「老後下手」

「定年後の老い支度」「終活という死に支度」を考えたことはあるだろうか? そんなテーマに向き合った1冊の本が話題になっている。書いたのはスイスから日本に移住して30年になる芥川賞候補作家デビット・ゾペティ。テレビ局はじめ日本で仕事をしてきたゾペティ氏に、「日本人と終活と老後」について聞いた。(聞き手:編集部)

半年かけて「終活」を取材

――ゾペティさんの『旅立ちの季節』では、あるきっかけで「終活」を始めた64歳の男性・楠木が、エンディングノートを書いたり、勉強会や模擬葬に参加したりする様子が描かれています。ゾペティさんが終活を小説のモチーフにしたのはどうしてですか?

「終活」という言葉が話題になったのは2009年頃だったと思いますが、そのころから、不思議な習慣が日本にはあるなあと興味を持っていたんです。テレビで終活関連の番組があれば観ていたし、雑誌や新聞の記事も読んでいました。

以前から僕は、「人生の最終章、仕事を退いてからの人生をどう生きるか」ということをテーマに小説を書こうと思っていたんです。実際に書こうとしたとき、終活ってそれにふさわしい題材じゃないかと、本格的に半年かけて取材をしました。

――どんな人を取材したのですか?

たとえば、公証役場の公証人、終活カウンセラー、葬送ディレクター、海洋散骨を扱っているクルーズ会社、特別養護老人ホームのスタッフ、「認知症とセックス」に詳しい専門家、サービス付き高齢者向け住宅のスタッフ、高齢者向けの生き甲斐探しの集いを主宰されている方などです。

小説には「安心いきいきの会」という団体を登場させていますが、そのモデルにしたのは、従来の葬送のありかたに疑問をもった人たちが立ち上げたNPO団体で、何度も取材させてもらいました。都内で毎月開かれていた、別の団体の終活セミナーにも通ったりしました。

参加者のいきいきした様子にびっくりした

――その一連の取材を通してどんなことを感じましたか。

まずびっくりしたのは、終活の会やイベントに参加している皆さんが、いきいきしていて、楽しんでいたことです。なかには終活に燃えている人もいるように見えたんですね。

たとえば、陶芸教室で毎年自分の骨壺を作り直したり、一緒に墓に入る墓友をつくって、生前からおつきあいしたり。一緒に食事したり、カラオケしたり、遠足に行ったりするんですね。

模擬葬も取材したのですが、あまりの盛り上がりに「でもあなたの葬儀のときあなたはいないのでは?」って思ってしまったり、着物を死に装束にリメイクしたりするのを見ると、そこまでしなくてもって思ったりしてしまいました。入棺体験というのがあると聞いてびっくりしました。意味不明。そんなことして何になるのって。

取材していて、終活はやり始めるといろいろすることがあるし、仲間もできて楽しくなるのはわかるけど、それ自体に打ち込んでしまうのは、少し違和感というか、違うんじゃないかなとも思いました。

――ゾペティさんは、終活はしたほうがよいと思いますか?

そう聞かれたら、とくに相続に関しては、やっぱりしたほうがいいと思います。僕の生まれ育ったスイスと日本を比べると、日本のほうがあいまいで、遺族の間で裁判沙汰になったりすることもある。家族を愛しているなら、財産の額に関係なく、きちんとしておいたほうがいいかもしれない。

保険も入らないよりは入ったほうが安全だと思うんですけど、同じ意味で終活もしないよりしたほうがいいとは思います。

それから、散骨には魅力を感じました。散骨は、肉体を自然の大循環に戻す営みです。僕はクリスチャンで、キリスト教ではからだの復活を信じているんですが、自分の遺骨は自然に返すのがいいなと……。

日本人は老後のことを考えるのが不得手?

――そもそも「第二の人生をどう生きるか」というテーマで、日本人を主人公に小説を書こうと思ったのはなぜですか?

理由は大きく二つあるんです。

ひとつは自分に関することで、僕はいま54歳ですけど、50代になって、自分の老年期について意識するようになったんですね。少し気が早いと言われそうですが。

僕はいま、リフレクソロジーの施術院を開業しているんですが、僕にとっての本業は、小説を書くことなんです。30代で発表した「いちげんさん」以来ずっと小説を書き続けていて、日本語で原稿用紙の桝目を万年筆で埋めていって虚構の世界を創り出すことが生き甲斐なんです。

だから、もし文章を書く意欲やインスピレーションが消えてしまったら、そのときが僕にとっての定年だと思っています。老後の金銭的な心配や健康上の不安がないと言えば嘘になるけど、それよりも、いつか小説を書けなくなるときがくるだろう。その後人生をどう過ごすかということを想像すると、不安な気持ちになるんです。

もう一つの理由は、日本で30年暮らしてきて感じたことです。日本人は勤勉で几帳面だけれども、そのわりには、先のことを想定するのが不得手だという印象を受けているんです。老後のこともそうなんですよね。

僕は、20代初めに日本に来て、大学を卒業したあと日本のテレビ局で働いたり、いろいろな仕事をして、自分なりにこの国を見てきました。そのなかで、仕事ひと筋で家庭を顧みず、趣味らしいものもなくて定年を迎えたような人は、その後の人生をどう過ごすのだろうということに関心を持つようになったんです。

実際に、熟年離婚した人や、テレビ局の報道の現場でバリバリやっていた人が退職後に会うと枯れた花みたいになってしまったりするのを見ると、地位も名誉も人間関係も会社があってのことであって、それがなくなったら孤立してしまうのかなと思いました。そんな定年後の人生への関心も、小説を書いた動機だったんです。

定年後は第二の人生というけれども、そこでの新しい生き甲斐ってすぐに見つかるものではない気がするんです。

僕の生まれ育ったスイスでは、早くから会社の外の人との交流や、仕事以外の話題も持っている人が多いし、いろんなアンテナを張っている印象を受けます。ヨーロッパは個人主義と言われるけど、日本と比較すると、個人と個人の交流はヨーロッパのほうが深いと思う。家族でも子供たちが大きくなっても毎週食事をしたり。

月から金は会社、土日はゴルフ。批判するつもりはないけれども、そんな生活でいつ家族と会話するんだろうか、人生観とか希望とか言葉にするとおおげさだけど、そういうことをいつ家族と話し合うんだろうかって、思います。

人生の残りの8万時間

――でも、老後の生き甲斐とか、そんなに前もって決めておかなくても、という人もいますよね。

もちろんそういう人もいると思います。でも「8万時間」という考え方をご存知ですか?

ひとりの人が20歳から60歳まで働いたとします。もちろん個人差はありますが、日本人は1年間で約2000時間働くそうです。そうすると60歳の定年までに働く時間は、2000時間×40年=8万時間になります。

一方、定年後の時間はというと、いま日本人の男性の平均寿命は80歳、女性は86歳を超えています。1日24時間のうち、睡眠や食事などの時間を引いた時間を11時間とします。11時間×365日×20年は約8万時間です。ちなみに女性は約10万4000時間になります。

つまり、会社で働いていた時間と同じ時間が、人生には残っているんですね。だからその8万時間、10万4000時間を楽しく過ごすには、それなりの準備が必要だと思うんです。

――なるほど、ゾペティさんにとって、終活は第二の人生の準備みたいなものなのでしょうか。

終活って、それ自体がやりがいになるものではなくて、あくまで手続きだし、元気なうちにぱっぱとやればよいと思う。大事なのは、その手続きをひと通りすませたあとなんじゃないか、と思うんです。

誤解してほしくないのは、生き甲斐といっても社会的に輝かなくてはいけないと言っているのではなくて、地味でも何か自分らしさを発揮できるものがあればいいと思うんです。何かの収集でもガーデニングでもいいと思う。

いま僕は毎日、リフレクソロジーの施術をしているのだけれども、そういうものがあるお客さんはいきいきしているし、気持ちも若いし、僕は医者ではないけれども、傾向としてそういう人のほうが健康です。

もちろん僕の見方だけが正しいと思っていないし、主人公・楠木の終活のゆくえや生き甲斐探しを読んでいただいて、共感できるとか、全然リアリティを感じないとかの感想は読者の方にゆだねたいと思っています。

僕はスイス人ですけれども、老後の生き方を探る楠木に将来の自分を重ねたところがないわけではないんです。だからこの小説を書いた、というところもあるんですね。

デビット・ゾペティ David Zoppetti
1962年、スイス生まれ。1986年、ジュネーブ大学日本学科を中退して来日、同志社大学文学部国文学専攻に編入。卒業後、テレビ朝日の記者兼ディレクターとして働く。「ニュースステーション」にもスタッフとして出演。1996年、「いちげんさん」ですばる文学賞受賞、芥川賞候補になる。1998年、テレビ朝日を退社。現在、日本語で執筆活動を続けるかたわら、若石健康法のリフレクソロジストとしても活動中。他の著書に『アレグリア』(三島由紀夫賞候補)、『命の風』、『不法愛妻家』、『旅日記』(日本エッセイスト・クラブ賞受賞)など。

[現代ビジネス]

Posted by nob : 2016年05月24日 12:32

過ぎたるは、、、便利も越えれば、、、私はSNSやツイッターとは遠く距離を置いています。。。

■SNS依存は「牛と牛が首輪で繋がれているのと同じ」と専門家

【約50万人の中高生がなっていると言われるネット依存症】

 FacebookといったSNSで日々投稿される食レポ、子供の写真、旅行報告、仲間とのパーティー、仕事の宣伝など、溢れるリア充アピールや自慢大会にうんざりしてSNSを辞める人が後を絶たない。近年、「僕を見て」「私を見て」のアダルトチルドレン

 FacebookといったSNSで日々投稿される食レポ、子供の写真、旅行報告、仲間とのパーティー、仕事の宣伝など、溢れるリア充アピールや自慢大会にうんざりしてSNSを辞める人が後を絶たない。近年、「僕を見て」「私を見て」のアダルトチルドレンや愛着障害が増えているという声が心理カウンセラーなどの専門家からもあるが、自慢大会の場となっているSNSでは特にその傾向は顕著だ。

 承認欲求は人間誰もが持つが、SNSの登場によって現代人の承認欲求はますます強まっていると、明治大学教授で臨床心理士の諸富祥彦さんは語る。「自分を見て」が強い人には、甘やかされて育ってきたわがままな人と、親の愛情を受けられずに育ち、障害を抱えている人がいる。

 急増している愛着障害の特徴としては、人の反応に過敏でびくびくしている。自分の非を認められない。自信がなく、気分の浮き沈みが激しい。嘘をよくつく。尊大な態度に出たがる。人をコントロールしたがる。自分の気持ちがわからず、人がいいというものを真似する--などがあるという。

「愛着障害はSNSと相性がよく、依存症になりやすいんです。『自分』が育っていないから絶えず周りを気にして、人からの承認でかろうじて自分を支えているんです。構ってほしい人には絶好のツールですね」(諸富さん、以下「」内同)

 また、友達親子が増えて親が子供を叱らないため、自己中心的な性格に育つ子供が増えていることも大きな要因だという。

「子供に嫌われると面倒くさいから、親が子供を叱らない。ちゃんと躾るのは、手間暇かかりますから。つまり、親をコントロールしながら生きてきた子供が増えていて、だいたい思い通りになる前提で育ってきたから、他の人にも同じように振る舞うんです。現実生活では友達は少ないと思います。だからこそ、仮装空間を作れるSNSに依存するのです。

 本来、思春期に大人からガツンと叱られる体験をしないと発達課題がこなせません。昔は学校の先生に威厳がありましたが、今はクレームに怯えて生徒に言いたいことも言えない状況です。子供たちが誰からも叱られることなく育ってきたことが問題ですね」

 元来、日本人の美徳として謙虚さがあり、認めてほしい気持ちを表すことははしたないと抑制してきたところがあるが、SNSという「構って」を出せる場が増え、認めて欲しい気持ちを出し始めた人が、止まらなくなっている場合もあるという。だが、無邪気にしている幸せ自慢や自己アピール投稿によって、フォロワーから嫌われているケースは多々あるので注意が必要だ。

「立て続けに投稿してしまうのは、自分の承認欲求に振りまわされている状態です。周りからは不快に思われている場合もあるので、自分を客観的に見る時間を作ることです。スルーされたり、周りの人が離れていったなら、それはひとつの気づきの機会ですね。グループのサイズも選ぶべきです。例えば子供自慢も、少数のグループで全員に子供がいて、みんながしている場ならいいでしょう。そうでないなら、いろいろな状況の人がいることを想像して、他者の視点に立って投稿を。何百といるグループなら、何百人の前で話しているという自覚を持ちましょう」

 そもそも、「SNSは人の気持ちに鈍感な人向き」と諸富さんは続ける。

「SNSは鈍感な人たちが『いいでしょう?』『いいね』と自慢し合うのに向く場です。鈍感になれない人や、それが嫌な人は離れるのが正解です。彼らに気づかせてあげようと思うのは無駄です。注目や関心がほしい人たちですから、反応をしないのがいちばんです」

 最近では熊本地震後の不謹慎狩りが問題になっているが、ネットは顔が見えないためか、何かと批判したり攻撃する人が多く目立つ。

「人を攻撃することで快感を覚える人にも、愛着障害あるいは発達障害のどちらかの傾向が強い人が少なくありません。いずれの傾向が強い人も、自分が非難されることにすごく敏感で、非を認めるのが苦手で、ちょっとしたことにこだわりやすい。こうした傾向のある人に非を認めさせようとするのは、あまりお勧めできません。SNSというのは、ある意味で、空気が読めない人がなじめ安い場です。そこでやりあっても、無駄骨に終わることが多いので、賢明な人は、SNS でむきにやりあったりしません。それが大人の対応です」

「イイね」してほしいがために投稿を繰り返しする、その数が気になる、片時もSNSをチェックしていないと気が済まない――そこまでの強い承認欲求やSNSに依存してしまう正体とは何なのだろうか。

「SNSが好きな人達は、つまりリアルの世界で承認が得られないから、そこに求める人が多いんです。心が空っぽな人がなりやすい。何かに依存するのは、心が空虚な人の特徴です。アルコール依存やドラッグ依存もそうですが、空っぽな自分を支えるためにずっと刺激を求めている刹那の繰り返しです。今、スマホを取り上げると暴れ始める子が増えています。家庭内暴力の大半がスマホを巡る問題なのです。ネット依存症はアルコール依存症などと同じく脳の病気ですが、そのネット依存症に今、約50万人が中高生がなっていると言われています」

 ネット依存の治療を行っている久里浜病院のサイトでは、複数のチェック項目に答えてネット依存かどうかスクリーニングする「ネット依存度テスト」が公開されている。「依存」状態として一番わかりやすい状態は、ネットと引き離されたらイライラや落ち込みを感じるかどうか。まずはスマホを一週間やめて過ごせるか試してみるといい。

 同じく大きな社会問題となっているのが、親のスマホ依存によるスマホ・ネグレクトだ。

「母親がスマホに夢中になりすぎて、赤ちゃんが泣いても無視してしまう問題が起きています。0~3才の心の土台が作られる時期に、大事な親と子の感情の絆が作られないことで、人の気持ちがわからなかったり、人を操作しようとしたり、感情の抑制がきかない子供に育ってしまう。愛着障害を大量生産している状態です。子供たちの心がどんどん壊れていっています。このままいくと、日本の美徳やおもてなしの心は失われますね。

 実際に幼稚園や保育園では、落ち着きがない子供や泣きやまない子供、癇癪が止まらない子供が多発的に騒いでいる状態があります。ちゃんとした養育を受けなかった子供たちが小学校に上がり始めて、これから手が付けられない学級崩壊は増えていくでしょう」

 かつて、哲学者のニーチェは「1日のうち3分の2以上を自分のありたいようにある時間として使えていない人は、精神的な奴隷と同じことである。人間には自ら望んで奴隷化されたがる真性がある」と警鐘を鳴らした。ネット依存症の拡大により、今の日本はニーチェのいう“一億総家畜化”に近づいていると諸富さんは危惧する。

「ニーチェの言う精神の奴隷、つまり人が隷属したがるのは、周りに合わせている方が楽だからです。それは牛と牛が、逃げないように首輪で繋がっているのと同じこと。頻繁にネットでやりとりして、お互いに家畜になっていることを安心し合いたいんです。それをやめることは協調性がないのではなく、主体性を回復したということ。主体性のある人は、ネットの世界に長くいられないですから。ネットをすることによって、人の目を気にして縮こまる不自由な状態にわざわざ自分たちを追い込んでいるように思えますね。スマホ断薬が必要な状況にあると思います」

[NEWSポストセブン]

Posted by nob : 2016年05月24日 12:24

何を今さら、びっくりポンや、、、珈琲とあんこの相性はオイシーヘルシーです。。。

■「コーヒー×和菓子」の相性は「牛肉ステーキ×赤ワイン」よりも良いらしい

“珈琲・和菓子発掘プロジェクト”実行委員会は、“珈琲と和菓子を愉しむ”という新しい食文化の創造をコンセプトに、全国の20代~60代の男女600人を対象とした「コーヒーと和菓子に関する意識調査」を実施した。

さらに、味覚に関する分析・コンサルティングが専門のAISSY株式会社 味博士の協力のもと、「AGF煎」を使用してコーヒーと和菓子の味覚的な相性分析を行なった。

「実は、和菓子にコーヒーが合うことを知っていますか?」という質問をしたところ、67.2%の人が「知らない」と回答し、約7割にあたる人がコーヒーと和菓子の相性の良さを知らないことが判明した。

■約半数が組み合わせ自体を未経験と回答

また、「コーヒーと和菓子の組み合わせを試したことはありますか?」との質問には、全体の半数近い49.7%の人が「試したことがない」と回答した。

■若い世代ほど和菓子好きが少ない結果に

「あなたは和菓子が好きですか?」と質問したところ、「嫌い/どちらかというと嫌い」と回答した人が20代で18.3%、30代で23.3%という結果になった。割合として多くはないものの、上の世代と比較すると和菓子を好む人が減っている傾向にあることがわかった。

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■和菓子はコーヒーと一緒に食べたいスイーツの中で最下位

「あなたがコーヒーを飲むとき、一緒に食べたいスイーツは何ですか?」(複数回答可)という質問をしたところ、「和菓子(21.2%)」と回答した人は最も少なく、コーヒーには「ケーキ(65%)」、「ドーナツ(43.8%)」、「クッキー(43.3%)」といったスイーツを選ぶ傾向が判明した。

■20代女性、約9割が和菓子とコーヒーの組み合わせが合わないと思うと回答!

さらに、「コーヒーと和菓子の組み合わせは合うと思いますか?」と質問したところ、20代女性の61.6%が「合わないと思う/どちらかというと合わないと思う」と回答した。これらの結果から、20代女性の多くはコーヒーと和菓子が合わないと考えており、コーヒーと和菓子の組み合わせを避ける傾向がうかがえる。

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コーヒーと和菓子の相性度をAISSY株式会社の味博士協力のもと、導き出した。和菓子は、代表的な和菓子6種類を抜粋し、餅物(柏餅)/蒸し物(饅頭)/焼き物(どら焼き)/流し物(羊羹)/打ち物(かぶき打)/練り物(練り切り)を使用した。コーヒーは、AGFのドリップタイプコーヒー、「<煎>レギュラー・コーヒー淡麗薄口珈琲」、「<煎>レギュラー・コーヒー香醇濃口珈琲」の2種類を使用し、味覚実験を行なった。

■コーヒーと和菓子の組み合わせ、牛肉ステーキと赤ワインよりも味の相性が良いことが判明

味覚分析の結果、コーヒーと和菓子の相性度は、全ての和菓子において平均93.5ptと、高い相性度であることがわかった。一番相性度が低かった組み合わせとしては、薄口コーヒーと練り切りで89.3pt、一番相性の良かった組み合わせとしては、薄口コーヒーとどら焼きの組み合わせで97.8ptであることがわかった。

一般的に相性が良いとされる牛肉と赤ワインの組み合わせは同じ実験で94.0ptという相性度が出ており、コーヒー(薄口、濃口ともに)と、柏餅、饅頭、どら焼き、羊羹の組み合わせの方が高い相性度であることが判明した。

同実験によると、85pt以上の組み合わせが相性が良いものと分類されており、90pt以上の組み合わせは特に相性が良い組み合わせになる。また、相性が悪いとされる組み合わせは70pt代となり、牛肉と白ワイン(69.9pt)や、ご飯に牛乳(73.0pt)などが挙げられる。

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味覚分析結果一覧表

 今回の調査結果について、AISSY株式会社の味博士は以下のようにコメントしている。

「薄口コーヒーの苦みや酸味と饅頭やどら焼きの甘さがお互いのおいしさを引き出しあい、相性度は95pt以上と非常に高いものとなりました。また、濃口コーヒーの酸味と苦みと、柏餅、どら焼き、羊羹の甘さの相乗効果が起きて、相性95pt以上と高いスコアをマークしました。かぶき打と練り切りは他の和菓子よりも低い相性度となりました。

これはコーヒーと比較して和菓子の甘味が強かったためと考えられます。最後に、こどもの日に食べる柏餅は、濃口コーヒーとの相性が非常によい結果となっています。こどもの日に試してみてはいかがでしょうか」

【調査概要】
調査期間:2016年3月19日
調査エリア:全国
調査対象者:20代~60代の男女
味覚実験期間:2016年4月7日
調査会社:クリエイティブサーベイ

文/編集部

[@DIME]

Posted by nob : 2016年05月12日 14:13

最善の主治医は自分自身、、、すべては自らのファイナルジャッジのためのセカンドオビニオン。。。Vol.4

■近藤誠氏の「抗がん剤全否定」は間違っている
「がん患者放置」は、あまりに無責任だ

高野利実
虎の門病院臨床腫瘍科部長

「抗がん剤に延命効果はなく、ひどい副作用で命を縮めるだけ」

「抗がん剤が有効だという根拠があったとしても、それは、人為的に操作されたものなので、信用してはいけない」

「医者に殺されないよう、がんは治療せずに放置すべき」

――以上が、放射線治療を専門とする医師、近藤誠氏の主要なご意見だ。

近藤氏の武器は「わかりやすさ」

近藤氏は1996年に著書『患者よ、がんと闘うな』(文藝春秋)で話題を呼んで以来、抗がん剤を否定する主張を展開。ここ数年は、『抗がん剤は効かない』(文藝春秋)、『がん放置療法のすすめ』(文春新書)、『医者に殺されない47の心得』(アスコム)などの本を出した。刺激的なタイトルもあって、よく売れているようだ。

もともと、抗がん剤に良いイメージを持つ人はあまりいないので、「抗がん剤なんて受けちゃダメだ」という、大学病院の医師によるわかりやすい主張は、多くの人にすんなりと受け入れられたように思う。

実際、近藤氏の影響を受けて、「抗がん剤は絶対にやりません」と言う患者さんが増えている。

しかし、連載の第1回でお伝えしたように、抗がん剤には、副作用というマイナス面がある一方、それによって症状が楽になり命が延びるプラス面もある。大事なのは、プラスとマイナスのバランスを考えて、適切な治療を選択することなのだ。

私は医者になりたての2000年ごろに、近藤氏と論争する機会があった。当時の近藤氏にはまだ、抗がん剤のプラス面とマイナス面を論じる姿勢があり、きちんと議論になっていた。若造の私の意見にも耳を傾けてくれたことに対して、それなりの好感を持っていた。

しかし、最近は、どんどん主張が過激になり、今や、抗がん剤を全否定するだけでなく、医療そのものも否定するようになっている。プラスとマイナスのバランスを考えようという姿勢はなく、ただ、原理主義的な信念をもって突き進んでいるだけのようだ。

批判的な主張に対しては、揚げ足をとるような反論ばかりして、本質的なところは取り合おうとはせず、不毛な議論だけが展開されている。

思考停止と偽装、そして...

近藤氏の主張には、3つの問題がある。

一つ目は、「抗がん剤は絶対ダメ」で思考が停止してしまっている点だ。この大原則は全く揺るがないため、抗がん剤の有効性を示す科学的な根拠があったとしても、その根拠が間違っているという話になる。これでは、科学的な議論は成り立たない。

臨床研究で得られたデータ(科学的な根拠)は「エビデンス」と呼ばれ、今の医療は、信頼度の高い「エビデンス」に基づいて行うのがルールなのだが、このルールが通じないのだ。

近藤氏に共感する患者さんは、「抗がん剤についてこれ以上考えなくてよい」という部分に惹かれ、同じく思考停止してしまっているのかもしれない。確かに、がんという病気と向き合い、人生の目標や自分の価値観に照らして、プラスとマイナスの微妙なバランスを考えるのは楽ではないが、それを避けて安易な結論に流れてしまうのは得策ではない。

近藤氏の二つ目の問題点は、エビデンスを偽装していることだ。同氏は、自分の主張と合わないエビデンスを「腫瘍内科医が人為的操作を加えた結果なので信頼できない」と否定した上で、他のエビデンスを、自分の主張に沿うように都合よく解釈し、しばしば偽装して提示する。これは重大なルール違反と言わざるをえない。

偽装例を1つ挙げよう。近藤氏の著作『がん放置療法』(文春新書)には「進行肺がんを治療しないで様子を見た場合の予想生存曲線」が紹介され、1年後の生存率は100%となっている。この曲線は「抗がん剤を受けたりしなければ、すぐに死ぬことはない」という思い込みを形にしている。

近藤氏は、この思い込みの曲線を、抗がん剤の臨床試験で示された現実の生存曲線と比較して、抗がん剤を受けた方の多くが1年以内に亡くなっているのは、抗がん剤で命を縮めたせいだと主張している。「思い込み」と「現実」を比べるのは科学的ではないのだが、同氏の本には、このような「エビデンスの偽装」が多数登場する。

数年前、バナメイエビを「芝エビ」、ブラックタイガーを「車エビ」と表示するなどの「エビの偽装」が社会問題になった。「エビデンスの偽装」は、多くの人の運命を左右するという意味で、「エビの偽装」よりもずっと重大な問題である。私たちは、この問題にもっと敏感になるべきではないだろうか。

小保方氏は厳しく糾弾されたのに...

科学の世界では「エビデンスの偽装」は厳しく取り締まられる。わかりやすい例は、「STAP細胞」を作製したという小保方晴子氏の研究である。科学誌に掲載された論文に捏造や改ざんがあったとして厳しい対応がとられ、マスメディアも過剰なまでに糾弾した。

近藤氏の「エビデンスの偽装」は、STAP細胞と比べても決して軽いものではなく、影響力はむしろ大きいのだが、偽装の舞台が科学誌ではなく、一般向けの雑誌や書籍だったため、何のおとがめもなく、今も野放しの状態だ。小保方氏と近藤氏へのマスメディアの対応が正反対なのは、この社会が、科学的なルールではなく、雰囲気やイメージに流されていることを象徴しているようだ。

近藤氏の三つ目の問題点は、がん患者を放置していることだ。同氏は抗がん剤を使わず、手術なども行わない「がん放置療法」を提唱している。私の患者さんの中にも、抗がん剤を使わず過ごしている方は多数いるので、それを「がん放置療法」と呼ぶのであれば、私も、「がん放置療法」を積極的に実践していることになる。

だが、私は、がんを放置することがあったとしても、患者さんを苦しめている症状や患者さん自身を放置することは、けっしてない。緩和ケアを積極的に行いながら寄り添っていくのが、腫瘍内科医の大事な仕事だ。

近藤氏は「病院には近付かない方がよい」と言って、ほとんどの医療を否定している。その言葉を信じて、病気を抱えながらも医療を遠ざけ、家に引きこもっている患者さんも多くおられるようだ。病状が進み厳しい状況に陥ったところで、救急車で病院に搬送される例も増えている。これは、「がん放置」というよりも「がん患者放置」で、あまりにも無責任だ。

家に引きこもっている患者さんの中には、不安を募らせながらも、「こんな状況で病院にかかったら、医者から怒られそう」と、受診できずにいる方もおられると思う。だが、これまでの選択を咎めたり、受けたくない治療を無理やり勧めたりする医者はあまりいないので、怖がらずに、早めに受診してほしい。

不毛な論争に終止符を

近藤氏の主張が広まったことで、思考を停止させてしまう患者さんが増え、「抗がん剤は善か悪か」という不毛な神学論争だけが展開され、医療不信はさらに深まり、患者さんと医者の距離はさらに広がっている。

でも、この状況は、近藤氏を批判すれば解決するようなものではない。世の中が彼のような存在を求めていた事実もきちんと理解した上で、私たちは、医療不信を払拭するための取り組みをしていかねばならない。

今のマスメディアは、感情を煽る「センセーショナリズム」や、白黒をはっきりさせる「善悪二元論」をもてはやしすぎている。近藤氏の主張は、この風潮にうまく合致したため、重宝されたのだと思う。

だが、生老病死の現実と向き合う医療現場では、センセーショナリズムよりも、科学的な根拠(エビデンス)と一人ひとりの価値観に基づく議論が求められる。善悪二元論でスパッと割り切るのではなく、リスクとベネフィットのバランスをぎりぎりまで判断しながら、前に進まなければならないのだ。

いつの日か、近藤氏とも、エビデンスに基づいてリスクとベネフィットの微妙なバランスについて語り合えるときが来ることを願っている。

[東洋経済ONLINE]

Posted by nob : 2016年05月12日 13:58

最善の主治医は自分自身、、、すべては自らのファイナルジャッジのためのセカンドオビニオン。。。Vol.3

■がんの血液検査には「有害無益」な項目がある
「早期発見」の声に流されず、賢い選択を!

高野 利実
虎の門病院臨床腫瘍科部長

「がんの血液検査には「有害無益」な項目がある 「早期発見」の声に流されず、賢い選択を!

がんという奴は本当に厄介な病気だ。その疑いがあると考えただけで精神的なダメージを受けるし、取り越し苦労に終わる場合も多い。この手のドタバタ劇を映画やドラマでもよく見かける。
腫瘍内科の第一人者で『がんとともに、自分らしく生きる』の著者でもある、虎の門病院臨床腫瘍科の高野利実部長による3回連載の2回目は、健康診断のオプションである「腫瘍マーカー」がテーマだ。要は血液を調べて、がんの存否を判定しようというもの。高野氏いわく、この検査は非常に罪つくりな代物で、振り回されないためには注意が必要だ。

健康診断や人間ドックを受けたことのある方は、その結果報告書をみてほしい。血液検査に「腫瘍マーカー」あるいは「CEA」「CA19-9」といった項目が入っていないだろうか。

オプションとして、なんとなくやっておいた方がよさそうだと、いろいろな腫瘍マーカー検査を追加した方もいるかもしれない。

「早期発見」には使えない

実は、この腫瘍マーカー、一部の例外を除くと、がんの早期発見の役には立たず、デメリットを考えると、検査しない方がよいものがほとんどだ。「有害無益」と言っても差し支えない。百歩譲って「百害あって一利くらい」はあるのかもしれない、という程度だ。

今回はその理由を詳しく説明する。これまで、何も考えず漫然と検査を受けてきた方の、お役に立てば幸いである。

腫瘍マーカーは医療現場で広く活用されている。しかし、一般に、がんの勢いを調べて治療に生かせるのは、全身にがんが広がっている「進行がん」の場合に限られる。「早期がん」で腫瘍マーカーの数値が上昇することは、ほとんどないのだ。

腫瘍マーカーが正常であったとしても、がんが存在していない根拠にはならず、それだけで安心してしまうのは、正しい理解とは言えない。

一方で、がんがない健康な人でも、一定の割合で腫瘍マーカーが上昇することが知られている(「偽陽性」と言う)。そういう人が健康診断で腫瘍マーカーを測ってしまうと、そこから悲劇が始まる。

実際、「健診で腫瘍マーカーが高いので精密検査を受けるように言われました」といって、病院にやってくる人は、かなりの数にのぼる。

血液検査で異常があり、「体のどこかにがんができている可能性がある」と言われる不安は、相当なものだ。不安を解消するために、CT検査、PET検査、上部消化管内視鏡検査(胃カメラ)、大腸内視鏡検査などで、全身をくまなく検査する羽目になる。

その結果、明らかな病気が見つからなければ、医師から、「検査の結果、がんは見つかりませんでしたので、腫瘍マーカーが高かったのは『偽陽性』だったと考えられます。よかったですね。どうぞ安心してください」と説明を受ける。

心の「後遺症」は深い

しかし、一度「がんの疑いがある」と言われた不安は簡単には消えない。体のどこかにがんが潜んでいるかもしれないという疑念は完全には拭い切れず、精神的な「後遺症」が残ることが多い。

「あの日以来、気持ちが晴れることはなく、悶々と過ごしています。一生、腫瘍マーカーの呪縛から解かれることはなさそうです」と言って、私の外来に通い続けている「患者さん」もいる(実際に病気ではないので、「患者」ではないのだが....)。

本来は不要だった数々の検査を受け、本来味わう必要のなかった不安に苛まれている方々を目の当たりにしていると、人間の幸せのためにあるべき医療が、逆に人間を傷つけている現実に愕然とする。

検査というと、何でも受けた方がよさそうに思いがちだが、検査によって、このような不利益が起きうることを理解した上で、その不利益を上回るだけの意義のある項目に限って検査を受けるべきなのだ。

腫瘍マーカーの多くは、早期がんの発見には使えないが、例外もある。前立腺がんの腫瘍マーカーであるPSAは、早期から数値が上昇することが知られている。

ただ、前立腺がんの早期発見のための「PSA検診」をめぐっては、世界中で賛否両論の議論が起きている。検診をするグループとしないグループを比較した2つの大規模な臨床試験で、否定的な結果と、肯定的だが微妙な結果が示されたからだ。

約8万人の男性が参加した米国の臨床試験では、「PSA検診をしても、前立腺がんによる死亡を減らせない」という結論が出た。

一方、約16万人の男性が参加した欧州の臨床試験では、「PSA検診で前立腺がんによる死亡を減らせる」との結果が出たが、1人の命を救うには、 1410人が検診を受け、339人が前立腺に針を刺して組織を採取する「生検」を受け、48人が(検診を受けていなければ不要だった)治療を受ける必要があるとされた。

救える命があるとしても、その恩恵を受けるよりもはるかに多くの人に、前立腺生検や治療による肉体的・精神的・時間的・経済的な負担がもたらされるということだ。この不利益を考えると、PSA検診は、一律に推奨できるものではない。受けるかどうかは、各個人の判断にゆだねられるべきだろう。

虚しく響く「早期発見・早期治療」

世界的な議論になっているにもかかわらず、日本では、PSA検診の是非に関する議論が盛り上がっているのをみたことがない。たまに見かけるのは、PSA検診を推進する広告くらいだ。

PSA検診に限らず、日本では、がん検診の利益と不利益のバランスが議論されることはほとんどなく、ただ、「早期発見・早期治療」というスローガンが連呼されているだけだ。国民の理解が得られぬまま、がん検診の受診率は低水準で推移している。

そして「早期発見・早期治療」という言葉は浸透していても、その実態を理解できている人は必ずしも多くはない。

真の「早期発見・早期治療」とは、放っておけば、進行して命を奪うようながんを、早期の段階で見つけ、根治させることであり、これが実現できれば、がんで死亡する人を減らせる利益がある。

しかし、早期がんをたくさん見つけても、死亡する人が減らなければ、見せかけの「早期発見・早期治療」すなわち「過剰診断・過剰治療」を行っていることになり、これは不利益である。早期発見したつもりでも根治できない場合もある。

子宮頸がん検診や大腸がん検診のように、真の「早期発見・早期治療」で多くの命を救っていると考えられているものから、PSA検診のように、一部の命を救っているとしても、「過剰診断・過剰治療」が多いもの、さらには、命を救える根拠が皆無なものまで、検診の意義はバラバラである。

なんでも「早期発見・早期治療」が大切だと叫ぶのではなく、それぞれの検診について、受けるべきかどうかを、データに基づいてきちんと議論するべきなのだ。

そうした議論が社会全体で盛り上がれば、一人ひとりが、がん検診を「自分の問題」として考え、納得した選択ができるようになり、結果として、本当に必要ながん検診の受診率も上がるはずである。いずれにしても、個別の検診の利益と不利益を伝えずに「早期発見・早期治療」のスローガンを連呼しても、何の意味も、説得力もない。

たかが血液検査、されど...

私のアドバイスをまとめると、「健康診断では、CEAやCA19-9などの腫瘍マーカー検査は受けない方がよい」「PSA検診は受ける意義が僅かにあるかもしれないが、受けることの不利益を理解した上で慎重に判断すべき」となる。

検査を受けるのが「絶対によい」とか「絶対にダメ」と言いたいのではない。むしろ、強調したいのは、検査の意味、すなわち、検査によって得られる利益と、それに伴う不利益をきちんと知り、そのバランスを考えて、自分自身で納得した選択をすべきだということだ。

たかが血液検査と侮るなかれ。検査一つで人生が変わることもありうるのだ。前回論じた抗がん剤の是非と同様、一つの検査についても、科学的データや、一人ひとりの価値観に基づいて、リスクとベネフィットのバランスを考えることが重要である。

[東洋経済ONLINE]

Posted by nob : 2016年05月12日 13:42

最善の主治医は自分自身、、、すべては自らのファイナルジャッジのためのセカンドオビニオン。。。Vol.2

■「抗がん剤の是非」を巡る論争は、不毛である
がん患者にとって一番大事なものは何か

がんが日本人の死因の第1位となって久しい。家族ぐるみで考えれば、この病気と無縁なままで済む人はまず、いないだろう。だが、その割には、うまく付き合えている人は少ないのではなかろうか。そこで、腫瘍内科の第一人者として、数多くのがん患者に接してきた、虎の門病院臨床腫瘍科の高野利実部長に、3回にわたって問題の本質を語ってもらう。
今回はその第一弾。抗がん剤治療がテーマだ。抗がん剤に対する患者側の対応は、すがりつくか全否定するかの二極に分化しているのが実情だが、こうした極端な風潮の裏には何があるのだろうか。そして、流されないための心構えとは。

もし、あなたや、あなたの大事な人が、抗がん剤治療を勧められたら、どう思うだろうか。

抗がん剤というと、髪の毛が抜けてしまう、ゲーゲー吐いてしまうなどのきつい副作用のイメージが強い。最近は、副作用を軽減する治療が発達したとはいえ、つらい治療であるのは間違いない。

医師は悪魔ではない

つらいだけであれば、それは「悪魔の薬」であり、患者さんを苦しめるためにそんな薬を使う医師がいたら、それは悪魔だ。だが、多くの医師は、悪魔なんかではない。患者さんにプラスになると考える場合に限って、抗がん剤を使っている。

抗がん剤をうまく使うことができれば、使えば使うほど、がんの症状がやわらぎ、患者さんは元気になる。もし、使えば使うほどつらくなり、何もいいことがないという場合には、その治療をやめた方がよいだろう。

抗がん剤に限らず、すべての医療行為には、利益(ベネフィット)と不利益(リスク)があり、リスクがあっても、それを上まわるベネフィットがあれば、その治療を行う意義がある。

重要なのは、リスクとベネフィットのバランスであって、どちらかだけを強調するのは適切ではないが、抗がん剤は、その激烈なイメージゆえに、両極端なとらえ方をされることが多いようだ。

「抗がん剤は絶対に受けません!」。最近、そういう患者さんが増えている。

その一方で、「とにかく何でもいいので、抗がん剤を使ってください!」
と懇願する患者さんもいる。

私が担当する「腫瘍内科」の診察室では、抗がん剤をめぐる話し合いが、日々繰り広げられている。

腫瘍内科とは、がんを専門とし、主に、抗がん剤治療や緩和ケアを担当するする内科系の診療科だ。抗がん剤で根治(完全に治すこと)を目指すこともあるが、根治が難しい「進行がん」を担当することが多く、治療方針の話し合いでは、しばしば難しい決断を迫られる。

治療方針を考えるときは、まず治療の目標を患者さんと医療者とで確認・共有した上で、治療によって目標に近付ける可能性(ベネフィット)と、副作用(リスク)を予測し、リスクとベネフィットのバランスを慎重に検討することになる。

リスクやベネフィットは、過去に世界中で行われた臨床試験の結果に基づいて予測するわけだが、パーセントで示される数値で単純に判断できるものではなく、患者さん自身の価値観や治療目標によって、その判断は違ったものになる。

ギリギリの判断の連続

「とにかく1日でも長く生きたい」

「残された時間をできるだけ穏やかに過ごしたい」

「髪の毛が抜けてしまう治療で命を伸ばしたいとは思わない」

「子どもが大きくなるまでは元気でいたい」

「生きがいにしている仕事を続けたい」

そういった想いに耳を傾け、腫瘍内科医からは、治療法の選択肢、判断の根拠となるデータ、専門家としての見解をお伝えし、納得できるまで、時間をかけて話し合った上で、治療方針を決めていく。

患者さんの人生がかかった重い決断となることもよくあるが、どんな場面でも第一に考えるのは、「患者さんの幸せ」である。納得した判断であっても、期待通りの結果になるとは限らず、進行がんゆえの厳しい現実もあるが、患者さんとともに、語り合いを重ね、ときに試行錯誤しながら、目標に向かって歩み続ける。

患者さん一人ひとりに、かけがえのない人生があり、大切なものがあり、揺れ動く想いがある。病状もさまざまで、それに対する治療法の選択肢も無数にあり、単純に治療方針を決められるような場面はほとんどない。リスクとベネフィットの微妙なバランスを慎重に評価して、ギリギリの判断が続いていく。

抗がん剤がプラスになると判断すれば使うし、マイナスになると判断した場合は使わないわけだが、使うかどうかよりも、治療目標に向かって進んでいくことこそが重要である。

ところが、最近は、上述のように、「抗がん剤を『絶対に』やりません」とか、「抗がん剤を『絶対に』やってください」という患者さんが増えている。

絶対にやらないという患者さんに理由を聞くと、「絶対にやらない方がよいと主張する医師の本を読んだから」だと言い、絶対にやってほしいという患者さんに、何のために使うのか聞いてみると、「何のためかなんて関係なく、とにかく抗がん剤を使うことが自分の希望のすべてであって、それをあきらめたら絶望しかない」と言う。

まずあるべき「治療目標」を思い描くこともなく、「抗がん剤をやるかどうか」にだけ結論を出し、それ以上の思考を停止させてしまっているようである。

ややこしいことは考えず、病気に身を任せ、あるいは、抗がん剤に身を任せて、人生を送るのも、一つの生きざまかもしれない。

「どう生きていくか」から考える

しかし、多くの患者さんの生きざまを見てきた腫瘍内科医の立場からすると、自分らしく生きるために、もっと病気との向き合い方を考えてもよいのではないかと思う。患者さんが、抗がん剤をめぐる「イメージ」や、偏った主張の影響を強く受けている場合、その思いはより強くなる。

「抗がん剤は効かない」「がんは放置すべき」

「いや、抗がん剤は効く」「がんは放置してはいけない」

今、世の中では、抗がん剤の是非を問う論争が起きている。誰もが自分の問題として考えられるような生産的な議論になればよいのだが、最近は肯定派と否定派の間で、とても科学的とは言えない不毛な議論が展開され、患者さんにも影響を与えている。

そもそも、抗がん剤は、がんという病気と向き合う際の道具の一つにすぎないし、さらにいえば、病気と向き合うことも、大きな人生の中のごく一部分にすぎない。人生全体を見渡すことなく、抗がん剤を使うかどうかだけにこだわるのは、得策ではない。

まず考えるべきは「これからの人生をどう生きていくか」ということだ。その目標にプラスになるなら抗がん剤を使えばいいし、マイナスになるなら使わなければいい。プラスかマイナスかは状況次第で違う。「どんな場面でも絶対にプラス」とか「どんな場面でも絶対にマイナス」というように、一般論として白黒つけることに意味はない。

いいと決めつけてすがりついてしまったり、悪いと決めつけて全否定してしまったりして、思考を停止させてしまうのではなく、いい面と悪い面を知り、そのバランスを考えることこそが重要なのだ。

頼りすぎず、怖がりすぎず

抗がん剤は、「希望のすべて」でも「悪魔の毒薬」でもなく、使い方次第でプラスにもマイナスにもなる道具だ。頼りすぎず、怖がりすぎずに、活用すべきときに活用すればよい。
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抗がん剤に対して、いいイメージを持っていても悪いイメージを持っていても、また、医療に対して肯定的でも否定的でもよいが、そういったイメージや善悪二元論のために、バランスのとれた思考ができなくなっているとしたら、それは考え直した方がよいだろう。

不毛な抗がん剤論争は、もう終わりにすべきなのだ。

それよりも、「幸せ」「希望」「安心」を感じられるような医療のあり方、自分らしく生きるための、がんとの向き合い方について、一人ひとりがきちんと考えていくことの方が、よほど重要だ。

高野利実
Toshimi Takano
虎の門病院臨床腫瘍科部長 1972年東京都生まれ。1998年、東京大学医学部卒業。東京大学医学部附属病院内科および放射線科で研修。2000年より東京共済病院呼吸器科、 2002年より国立がんセンター中央病院内科レジデント。2005年に東京共済病院に戻り、「腫瘍内科」を開設。2008年、帝京大学医学部附属病院腫瘍内科開設に伴い講師として赴任。2010年、虎の門病院臨床腫瘍科に最年少部長として赴任し、3カ所目の「腫瘍内科」を立ち上げた。「日本一の腫瘍内科をつくる」ことを目標に、乳癌・消化器癌・泌尿器癌・肺癌など悪性腫瘍一般の薬物療法と緩和ケアに取り組んでいる。また、日本臨床腫瘍学会(JSMO)がん薬物療法専門医部会長として、日本における腫瘍内科の普及と発展を目指しているほか、西日本がん研究機構(WJOG)乳腺委員会委員長として、乳癌に関する全国規模の臨床試験に取り組んでいる。著書に「がんとともに、自分らしく生きる―希望をもって、がんと向き合う『HBM』のすすめ ―」(きずな出版)がある

[東洋経済ONLINE]

Posted by nob : 2016年05月12日 13:25

私たちの無関心という無責任、、、諸悪がはびこり続ける根源的要因。。。

■震源から80km!「川内原発は安全」というウソ
〜フクイチの教訓が何も生かされていない
【熊本大地震】元原子炉技術者らが警鐘

大地震が襲った直後、即座に「川内原発に異常はありません」と発表されたことに、違和感を覚えた人も多かっただろう。なぜそうまでして動かそうとするのか。どう考えても、一度止めたほうがいい。河合弘之氏(弁護士)と後藤政志氏(元東芝・原子炉技術者)が警鐘を鳴らす。

「大丈夫」と言う政治家たち

後藤 熊本での大地震について、気象庁は「観測史上、例がない」「先を見通せない」と、お手上げ状態です。にもかかわらず、菅義偉官房長官や丸川珠代環境相、そして原子力規制委員会の田中俊一委員長など、政府や原子力関係者は、川内原発を「停止する理由がない」と言って憚りません。

4月19日には、川内原発の80km圏に入る八代市で、震度5強を記録する地震が起こりました。それでも「万が一のために、一応止めて様子を見る」という気さえないらしい。

河合 この期に及んで、まだ原発を動かしたいという人々が考えているのは、まずは何よりも経済的な事情でしょう。

川内原発の1号機・2号機を両方とも止めてしまうと、九州電力は1日あたり3億円の損をするといいます。ただでさえ九電は、昨年8月まで原発を動かせず経営に苦しんでいましたから、それだけは避けたいのです。

政府や経済産業省、規制委は、九電の経営を助けるということに加えて、「ようやく生まれた原発再稼働の流れを、止めるわけにはいかない」ということも考えている。

事実、地震が頻発していた19日に、愛媛県の伊方原発が再稼働に向けた審査をクリアしました。ご存知の通り、伊方原発は、地震が多発している大分県と海をはさんで向かいにある。何としても、再稼働の流れに水を差したくないのでしょうね。

後藤 識者の中にも、「揺れのデータを見ても、今回の地震で川内原発はそれほど揺れていない。だから大丈夫だ」と言う人が少なくありません。彼らは、「『危ないかもしれないから止めろ』というのは、非科学的な感情論だ」「危ないという証拠を見せろ」とも言う。

しかし私は彼らのほうこそ、原発を何としても動かし続けたいあまり、理性ではなく感情でものを言っているのではないかと指摘したいですね。

今回の地震は、過去の観測史上、様々な点で異例です。4月14日と16日に起きた2つの大きな地震は、どちらが本震か分からない。「2つの別々の地震かもしれない」という学者もいます。次にどこでどのくらいの地震が起きるのか、予想もつかないわけです。

河合 しかも、中央構造線沿いに震源が動いています。川内原発からわずか50kmのところには、今回の地震を引き起こしたとされる日奈久断層帯がある。川内原発も、強い揺れに襲われる危険性は決して小さくない、と考えるのが当然ですね。

後藤 もうひとつ、「原発を止めるな」という人々の論拠には「福島第一原発だって地震には耐えた。津波が来なければ、メルトダウンはしなかった」というものがあります。

しかし、福島第一が本当に津波のせいで破壊されたのか、どの程度地震の影響があったのかという点は、いまだにはっきり分かっていません。

河合 今回の地震も東日本大震災も、そして福島第一原発の大事故も、当たり前ですが、誰一人予測できませんでした。

本来、天災というのは予測のつかないもので、しかも今回の場合、さらに大きな地震がやってくるかもしれない。そんな時に、ただただ「怖くない怖くない、大丈夫大丈夫」と唱えるばかり。

政府も電力会社も、「チキンレース」を国民に強いている。「怖いから止めよう」と言うやつは意気地なし、根性なしだとでも言いたいんでしょう。

「停電する」とウソをつく

後藤 技術的なことを言えば、福島第一原発事故の際、事故対応の拠点となった「免震重要棟」が川内原発にはありません。

東京電力の社長だった清水正孝氏は、のちに「もし免震重要棟がなかったらと思うと、ゾッとする」と証言しています。それほど重要なものを、作らずに済ませている。

河合 原子力規制委は、再稼働の要件で「免震重要棟など耐震性のあるものを設置する」と定めています。この「など」が抜け道になっている。九電がやったのは、「ゆくゆくは作ります」と言って再稼働の許可だけ取り付けて、後で勝手に撤回するという騙し討ちです。私に言わせれば許可の「詐取」ですよ。

福島の事故の教訓を本当に学んでいるのなら、真っ先にやらなければいけないことを、ウソまでついて誤魔化している。

後藤 「川内原発を止めたら、九州の電気が足りなくなる」と言う人もいますが、これも明らかなウソですね。

河合 川内原発はつい最近まで止まっていたのに、停電なんて起きていません。せめて非常時だけでも、火力発電でまかなえばいい。火力で九州は滅びませんが、原発事故が起きたら滅ぶんですから。

結局は、安全よりも目先のカネを取っているわけです。ひどい話ですよ。

後藤 百歩譲って、政府や九電が正直に「経済的な事情があって、どうしても動かさないといけないんです」と言うなら、まだ多少は議論の余地があるかもしれません。

しかし、たった5年前にあれだけの大事故を経験したにもかかわらず、「事故が起きる可能性は小さいから、心配ない」なんてよく言うものです。

今の九州での地震発生リスクを平常時と比べたら、何十倍、何百倍にも高まっていると考えるのが普通でしょう。「原発は壊れるまで安全だ」という皮肉を地で行っている。

避難計画も穴だらけ

河合 どうして日本人は、原発となると「安全」に関する考え方が逆になってしまうんでしょうね。

普通は「安全が確認できないものは、止めておく」でしょう。地震が起きてすぐ、火元を止めない人はいないはずです。それなのに、原発については「危険が目に見えて大きくならない限りは、動かし続ける」というのがまかり通っている。

後藤 一般の技術者でも、安全に少しでも不安があれば、立ち止まって検討するのが常識です。

河合 そうした「大事故が起きるその瞬間まで、対策はしなくていい」という倒錯した考え方は、鹿児島県のずさんな避難計画にも表れています。

川内原発の周辺住民は、事故の際、主にバスに乗って避難するということになっている。しかし、バス会社が運転手に「命がけで行け」と命令することはできません。

後藤 それは原発の現場職員も同じですよ。過酷事故が起きて、放射能汚染が深刻なとき、上司が「お前が止めに行け」と命じることはできません。

河合 何百台もバスを用意して、まずは5km圏内の人が逃げて、他の人は家の中で待機する—そんなことが、大混乱の中でできるとは思えない。「怖いけど、我慢して待ちます」なんて人、いないでしょう。「5km圏内の住民は全員避難した」ということを、誰が調べに行くのかも分からない。

今回の大地震でも、九州新幹線が脱線したわけです。当然、自動車事故や渋滞も起きる。役所が考えた避難計画など絵空事だということが、この地震で明らかになった。それでも手を打たないんですか、と言いたい。

後藤 福島のときもそうでしたが、原発で過酷事故が起きれば、放射性物質の飛散状況や、原子炉の状態もよく分からないまま、皆がとにかく逃げるということになる。

現状の避難計画は、「事故が起きても原子炉はある程度コントロールできる」ということが前提ですが、本来ならば、最悪の事態を考えてこその避難計画のはずですね。

河合 そういうふうに本気で突き詰めていくと、原発が動かせなくなってしまうから、現実から目を背けているんですよ。そうでなければ、40年も前に作った高浜原発を、あと20年も使い続けようなんて狂った判断をできるはずがない。

真面目に考えると、原発なんてデタラメだと分かってしまう。だから原発を動かすには、「真剣にものを考えないこと」が必須になる。5年経ってもいまだに福島の事故原因を本気で究明せず、誰も責任を取らず、「大丈夫」「安心」と繰り返しているのがその証拠ですよ。

かわい・ひろゆき/'44年生まれ。東大法学部卒。ビジネス弁護士として活躍する傍ら、映画『日本と原発』『日本と原発 4年後』の製作など脱原発運動に携わる
ごとう・まさし/'49年生まれ。三井海洋開発を経て東芝に勤務し、原子炉格納容器の研究・設計に従事。東日本大震災後、原子力安全・保安院委員を務める。

「週刊現代」2016年5月7日・14日合併号より

[現代ビジネス]

Posted by nob : 2016年05月12日 13:01

私は、私自身のためにトイレ前に、他人のためにトイレ後にと二度手を洗います。。。

■トイレ後に手を洗わない人は何を考えているの?

用をたした後、皆さんは手を洗う? それとも洗わない? 「洗うのがあたりまえ」と考える人は、洗わずにトイレから立ち去る人を見ると、脳内に「?」が浮かんでくるもの。一体なぜ洗わないのか。手が汚れているはずなのに……などいろいろ考えてしまう。今回は、「教えて!goo」に寄せられた相談「トイレから出て手を洗わない人に質問です」を紹介しよう。

潔癖症というほどではないものの、トイレ後に手洗いを欠かさない、と話す相談者さん。デリケートな部分に直接・間接問わず触れた手を洗わないまま、いろいろなものを触る人は、他人に対して配慮がないのでは、と考えている。

■男性の手は汚れない!?

これに対し、意外と賛同意見は少なかった。寄せられた多種多様な回答を見てみよう。

「男性の場合、小便器ならドア等どこにもに触れないで用が足せるから全然、気にならない人もいるのかと」(zipang_styleさん)

小便器とはあまり縁のない女性は、ピンとこないかもしれない。ただ、想像してみると小便器の場合、ボトムスのチャックの上げ下ろしだけで済むことがわかる。

「トイレの後は気にしませんが、外出から帰ってきて手を洗わない人はとっても気になります。元々、人の皮膚にはたくさんの常在菌が存在しています。それが皮膚の防御反応を助けていますからね。そんな事を気にしてたら握手なんて出来ないですよ」(ORUKA1951さん)

気になるポイントは人それぞれである。だが、回答者の言う通り、神経質になりすぎると「手を洗わない人がここを触っていたらどうしよう……」と想像し、何にも触れなくなってしまいそうだ。

■用をたす前に洗う派も

どうして手を洗うのか――理由や主張を書いてくれた人もいる。

「私、原則的に洗いません。手は、用を足す前に洗います。一日誰とも会わないこともありますので、エチケット的に洗うのは、人のいるところでトイレに行った時だけです。洗わなければならないと言うより、他の人に洗っているところを見せるために洗っているようなものです」(organic33さん)

「トイレ前に手を洗う」派も一定数いるのだろう。デリケートな部分に触れる可能性があるからこそ、手を清潔にしておきたい、という考えがベースにあるのだろうか。手を洗うタイミングに関しても、各々の「思想」があるのだと考えさせられる。

「洗わない人は洗わないんです。それだけです。但し、自分の場合はそれを“エチケット”として守ったことはありません。自分が気持ちが悪いからです。単にそれだけです。外から帰ってキッチンテーブルの上のお菓子をそのまま摘む人が居ますが、同じくらい気持ち悪いですね」(wayway0111さん)

人様に対するエチケットというより、自分が落ち着かないから、という理由で洗う人もいる。この方のように「清潔さを保ちたい」と考えるタイプも多いだろう。

幼い頃、親から「トイレを済ませたら手を洗いましょう」と教えられ洗ってきた人、途中でその習慣をやめた人――いろいろいるだろうが、なぜそれを選択しているのか、今改めて考えてみると面白いかもしれない。

オーロラ・スシ(Ikeda Sonoko)

[教えてgooウォッチ]

Posted by nob : 2016年05月04日 14:02

また旅立つ君へVol.110/実は窮屈な成り行き任せ

自らの心の声に従って

戦略的に努力を始めることで

正しい入口と道筋を見つけることができ


努力を続ける過程で

自らの心の声とそれまでの戦略から離れていくことで

目標を成就することができる


それは同時に

また新たな自らの内なる心の声を聞くということ


自分の頭で考えて行動したことは

必ず心のどこかに経験として刻印されていく

Posted by nob : 2016年05月03日 17:48

これからの様々な暮らしのカタチ。。。

■田舎の一戸建をタダ同然で手に入れる!?
堀江 康敬 田舎暮らし ガイド

田舎暮らしをスタートするには、住まいの確保が絶対条件。手っとり早く公営住宅や農家の空き家などを借りる方法もありますが、入居基準が厳しかったり情報が少なかったりと、クリアしなければならない課題が多いのが実情です。

「100%の田舎暮らしを実現するためには、やっぱり一戸建て。しかし予算は押さえたい」。限りなく予算0円を目指したい人のための、住まいの確保術をご紹介します。

家づくりも楽しめるセルフビルド一戸建て
仲間や家族とワイワイと住まい造りの過程も楽しみたい人には、セルフビルドがお薦めです。通常の住宅コストは半分が人件費といわれていますから、仲間内でやれば半分の金額で済むということになります。一般工事と較べ単純比較で建築費の15~25%のコストダウン。余暇を利用することで施工費の軽減も可能になります。

やはり時間はかかります。100平方メートル内外の住宅を作るためには、短くても1、2年はかかると言われています。しかし自分の家を自分で創りあげることは、新天地で体験する暮らす喜びの第一歩。他の何ものにも較べようがないものです。

住まいの全てが完成していなくても、さっさと入居して暮らし始めましょう。暮らし方は時間が経つと変化していきます。子供の誕生、親との同居、ライフスタイル…完成してしまった住まいでは、将来のリフォームのためのコストや使い勝手などマイナス面が多くなってきます。

セルフビルドの目的は、住宅のコストダウンということもありますが、家造りを体験し楽しむことで我が家への愛着を高めること。そして将来の計画の変化にも自由に対応させること。「造りながら暮らす」。これがセルフビルドの一番のメリットではないでしょうか。

【セルフビルドの種類】
・2×4工法
長所/使用する部材をしぼることでコストダウンが可能。施工方法が分かりやすく一人からでも施工できる。耐火構造が可能。
短所/増改築時の自由度に制約がある。棟上までに時間がかかる。窓や開口部に関して一定の制約を守る必要がある。
・ログハウス
長所/自然素材のため健康に優しい。断熱性、耐久性が高い。湿気の吸排出効果で室内をエア・コントロール。
短所/間取りの自由度が低い。棟上までに時間がかかる。開口部の制限があるため窓が大きく取れない。木が縮みその隙間のほこり掃除に手間がかかる。

【関連サイト紹介】

自分で造りたい人をサポート>>趣味で造るログハウス
自分で造るキットハウス>>キハタトレーディング

全国の町村が提供・支援する一戸建て
あこがれの田舎に住むだけで、融資や奨励金を受けられたり、破格の値段で土地や建物が購入できたり。日本各地の自治体が競って定住者確保のための支援策を実施しています。過疎化が進む田舎も喜び、引越したい移住者にも嬉しい、双方両得の持ち家助成制度。田舎で一戸建てを!と目指す人は要チェックです。

自治体の支援・助成制度は、その地域の内外からの移住・定住を促進し、町村の活性化を図ることを目的としています。町村合併等で既に終了した制度もありますが、2005年度までに実施された住まいに関する支援策は百花繚乱。

・都市生活経験を持つシルバーエイジに、起業支援と宅地取得についての優遇措置。
・農業を目指す若者に、5アールのハウス施設を10年間無償貸与。
・宅地1平方メートルが年間100円で、20年後の無償譲渡。
・移住者が家を新築すると100万円を支給。
・宅地を3年間無償で貸し付け後、家を建てたら土地はタダ。
・15年間家を借りれば、その家が無料でもらえる。
・家を建てれば100万円の補助金、宅地の賃貸料が10年間無料。

知らなきゃ損!不動産支援制度 (2006年1月17日現在)
※期間切れや支援条件等があります。内容についての詳細は各市町村へお問い合わせ下さい。

・宅地100坪をタダで差し上げます。
 ふるさと定住促進宅地制度(北海道・浜頓別町)
・オホーツク海のほとり、一坪当たり4,000円から分譲。
 小清水で暮らしてみませんか?(北海道・小清水町)
・宅地料金10年間タダ!100万円の住宅建設奨励補助金を交付。
 村の取り組み(北海道・西興部村)
・10年以上の定住確約者に30万円。小学生以下の子供が同居、町内建設業者に発注等で項目ごとに30万づつ加算。
 宅地取得助成事業(北海道・津別町)
・賃貸料は約一坪あたり50円、15年貸付後に無償で譲渡。
 馬籠住宅団地借受者募集(宮城県・本吉町)
・賃貸料一坪当たり月額100円、契約期間20年で自分の土地に。
 さつま町優良宅地のご案内)(鹿児島県・さつま町)

次は運んで置いて暮らせる一戸建てです。

運んで置いて直ぐ暮らせるトレーラーハウス
トレーラーハウスは、輸送の為の鉄骨土台に2×4工法で造られた住宅が乗っている居住機能を持つ住宅。家具、照明、カーテン、ブラインド、網戸まで標準装備されており、設置したその日から暮らすことが可能です。

車両であるため固定資産税や建築確認は不要、動力も無いため重量税もかからない。設置場所は宅地以外でもOK、調整区域でも可能です(地域によっては役所の相談が必要となる場合もあります)。キャンプをしながら移住候補地を探し歩く、そして定住に利用する。田舎暮らしのための移動する一戸建てと言えます。

業者によっては間取り・サイズのフリープランもあり、ロフト付きやカフェバー仕様など、自分や家族の希望に合わせたイメージで変更ができるのも魅力です。住まいは建てるより設置する、不要になったら中古車として売ってしまう!新しく家を建てるより時間もコストも大幅に削減できます。

【関連サイト紹介】
美しい利用例写真が充実>>トレーラーハウス -カンバーランドジャパン-
アメリカ・カナダからの輸入トレーラーハウス>>アメリカントレーラー ディベロップ
店鋪・SOHOモデルが豊富>>オーガスト ジャパン
自由設計のトレーラーハウスを増産>>トーエイ・インターナショナル
究極のコストダウン一戸建て!?ハウジングコンテナ>>サニープレイス

廃校になった校舎に暮らす。
過疎による児童数の減少でやむを得ず閉校となる学校。地域の人々にとって学校は単なる教育施設というより、心の拠り所であり交流の場といった思いがあります。一方、木の香が漂う木造校舎に魅力を感じる田舎暮らし希望者も少なくありません。

個人でも廃校を借りることが可能なのか?ポイントは、再活用に際して地元住民の合意を得やすいアイディアを提案することにあるようです。役場としては学校という公の財産で地域の活性化を促進したい、住民はその卒業生として深い愛着が持っている。こうした心情を優先した提案ができれば、受け入れられる可能性があるのではないでしょうか。

校舎の間取りをそのまま残した民宿、ギャラリー、工房、校庭でのキャンプ、民芸博物館・・・校舎を舞台にした田舎暮らしの夢はふくらみます。実現するには、あなたのアイディアと情熱が重要です。

関連サイト紹介

学校跡地を活用してみませんか?>>旧三和小学校/北海道和寒町
(2005年12月末で募集締め切りですが、まだ間に合うかも)

廃校になった校舎を利用した宿泊施設情報>>学校に泊まろう!

次は、地球をちょっと離れた田舎暮らし!?

スペシャル版/宇宙の田舎の土地を買う!
月の土地を販売しているのは、アメリカ人のデニス・ホープ氏。同氏は宇宙に関する世界条約「宇宙条約」の盲点を突いて、LunarEmbassy.LLC(ルナ・エンバシー社:ネバダ州)を設立。月の土地を販売し、権利書を発行するという「地球圏外の不動産業」を開始しました。

元アメリカ合衆国大統領や有名ハリウッドスター、有名企業も次々と購入。世界中に販売を続け、現在全世界175ヵ国、約130万人の「月の土地」の所有者がいます。火星の田舎も販売中、遅れをとるな!

月の土地を買いたい人はココで>>月の土地|火星の土地|ルナエンバシージャパン

その他関連サイト紹介
県レベルで定住者確保のための支援策を打ち出しているところが探せます。各自治体独自の支援制度も豊富です。ここも要チェック!
UIJターン情報/全国
UIJターン情報/地域別


■田舎の一戸建てを0円で手に入れて暮らす!?
堀江 康敬 田舎暮らし ガイド

「100%の田舎暮らしを実現するには、やっぱり一戸建て。しかし、予算はしっかり押さえたい」。こんなワガママな要望をクリアするための、住まいの確保術をご紹介します。限りなく予算0円を目指すために、家を買うか?借りるか?それとも自分で造るか……

前回ピックアップしたのは、「家づくりも楽しめるセルフビルド一戸建て」「全国の自治体が提供・支援する持ち家助成制度」「運んで・置いて・直ぐ暮らせるトレーラーハウス」「木の香が漂う木造校舎の再活用」等々。

今回は、新たに注目される、「小屋(タイニーハウス)」、「コンテナハウス」、「0円空き家」について紹介します。

フロなし、トイレなし、5平方メートルから始めるミニマムライフ「小屋(タイニーハウス)」

タイニーハウスでミニマムな生活
2015年、東京・虎ノ門に日本初となる「小屋展示場」がオープンして話題になりました。自分だったら「どういう住まいを建てたい?」「どんな風に暮らしたい?」「本当に必要なものはナニ?」という、従来の一戸建ての住まいの常識をひっくり返す、新発想の住宅展示イベントです。

会場には「基礎工事を必要としない自立構造」「大人のリアルプラモデル」「茶室のような佇まい」「究極のモバイル空間」「災害用避難シェルター兼用」「DIY 1畳ハウス」等々、何とも魅力的なコンセプトが飛び交っています。

セルフビルド・キットのシンプルな「小屋」で、50万円台から。完成品を設置するタイプでは200万円台というケースが多いようです。建具や材料の一部を、各地で集めた古材や廃材を使ったモデルもあり、建材を自己調達できれば一戸建を、限りなく予算0円で手に入れるのも夢ではありませんね。

リフォームして書斎を造るより趣味に没頭するための小屋を庭に建てようという、リタイアを切っ掛けにして自分の趣味を始めたい人たち。そして、平日は都会の賃貸で暮らしながら、休日には地方の安い土地を確保して小屋を建てるという若い世代が、興味津々で来場したとか。

設置面積は5平方メートルほど、手の届く範囲に全てがある。このサイズ感がミニマムな田舎暮らしを目指す人にとって、最初のケーススタディになるかもしれません。

参考サイト:SuMiKa 小屋市場>>

タフで、キューブな、田舎暮らしの基地づくり「コンテナハウス」

コンテナは田舎暮らしの基地になる
JR貨物で海上中古コンテナの購入ができます。耐震・防犯に優れ耐久性はバツグンで、荷物の保管や自治会の防災用具の収納、倉庫などでの活用にはオススメでが、一昔前まで「夏は灼熱、冬は極寒」と室内温度管理が難しいとされていました。

そこで登場したのが、店舗、事務所等として利用できるように基本構造を改造したコンテナハウス。断熱材を入れて壁、床、天井を張ることで環境を整え、プラス換気口を設けることで風通しを良くし、快適な換気が保たれるようになりました。

ネットで調べてみると、12ft(約5畳)程度で、コンテナ(箱のまま)で18万前後から、コンテナハウス(改造済み)で20~30万円から、販売されているようです。別途、輸送費が必要になります。

基礎工事が不要で、大型車両に搭載して簡単に移動することが可能。多額な解体費用がかかる既存の一戸建てと比べ、別の場所でそのまま活用ができて経済的。災害時の仮設住宅としても使える耐震性もあり、もしもの時も安心・安全です。

専門業者に依頼すれば、インテリアデザイン・設計から内外装の工事、メンテナンスまでやってもらえます。しかし、ココから田舎暮らしの基地として始めるんですから、是非とも家族と仲間とワイワイと、DIYでスタートアップを!

コンテナを「保管する・運搬する」ためだけではなく、「過ごす・くつろぐ・集う」ための空間に変身させましょう。

参考サイト:驚きの変身!貨物コンテナでつくった家いろいろ(Seven5)>>

見逃すな、先を越されるな、田舎の超レア物件「0円空き家」

無償譲渡の空き家を探せ!
全国の空き家は820万戸で過去最高となり、全国の住宅の13.5%を占めていることが分かりました(平成25年度/総務省統計局の統計結果)。増加する一方の管理が行き届いていない空き家が、防災、衛生、景観等の生活環境に影響を及ぼすという社会問題も起きています。

そんな中、都会より安い価格で自然に囲まれた住まいを求めて、空き家を(限りなく)0円で譲り受け田舎暮らしを始める若者が出てきています。数十年の風雪に耐えたきた空き家ですから、メンテナンスは必要ですが、彼らを常に悩ませる家賃という負担から解放されることは歓迎すべきことですね。

それでは、ガイドが見つけた超レア物件をどうぞ!(事業によっては募集が終了しているものもあります)

・森林のまちの、一部二階建ての車庫・庭付きの無償譲渡4DK。(数年の間に希望者が無ければ解体予定)
新着空き家02-031(北海道下川町)>>

・市有宅地を25年間有償貸付し、貸付期間満了後は無償譲渡します。
子育て世帯定住宅地貸付け事業(島根県雲南市)>>

・町が最大350万円かけてリフォームして、移住者に貸出します。
移住支援制度の紹介(山形県遊佐町)>>

・土地及び家屋(家屋内の物品すべて)を無償譲渡。有効に活用していただける方を探しています。
空き家情報>物件No.7(北海道愛別町)>>

・木造一戸建て家賃3万円、宅地面積400平方メートル。20年住めば住宅を、25年住めば宅地を無償譲渡します。
くらしまねっと>市町村別UIターン支援施策>美郷町>住宅・空き家>若者定住住宅(島根県美郷町)>>

田舎暮らしで、住まいに何を求めるかは人それぞれです。まずは今回紹介した「0円一戸建て」をベースに田舎暮らしをスタートしてみたらどうでしょう。

その土地に暮らすことで、「やっぱりココが素晴らしい!」と感じたら腰を据えることもできるし、「思っていたのと違ったな?」と残念な場合でも、「0円一戸建て」ならヒョイと新しい楽園探しに出かけることができます。


[いずれもAllAbout]

Posted by nob : 2016年05月03日 17:14

憤懣遣る方なし。。。(呆・泣・怒)

■発症率は通常の146倍以上! 福島で多発する甲状腺がんと原発事故の“不都合な”因果関係

福島県で甲状腺がんが多発している。福島原発事故後に始めた検査で、現在までに166人ががん、もしくはがんの疑いと診断され、これからも人数が増えていくのは確実な情勢だ。

県は放射線被曝(ひばく)と発症の因果関係を認めていないが、その根拠をめぐっては専門家からも疑問の声が上がっている。福島で起きている甲状腺がん発症が原発事故由来なのかどうかを徹底検証するーー。

***

福島第一原発事故以後、県は当時18歳以下だった約38万人の県民を対象に甲状腺検査を続けている。1986年に起きたチェルノブイリ原発事故では、地元周辺で甲状腺がんが多発した。福島でも同様のことが起きる可能性があるため、子供たちの健康を長期的に見守るための検査だ。

その検査で甲状腺がんが多数見つかっている。2011年10月から2014年3月まで実施した「先行検査」と、2014年4月から継続中の「本格検査」を合わせると、現在までに甲状腺がんかその疑いがあると診断されたのは166人に上る。 甲状腺がんは大人の女性に多い病気で、子供がかかるのは100万人に2~3人程度といわれる。つまり、福島では146倍から218倍という高い確率で発症していることになるのだ。

甲状腺とは、「喉仏(のどぼとけ)」の下にあるチョウの羽を広げたような形をした臓器。ここから体の新陳代謝や成長ホルモンを促す甲状腺ホルモンが分泌される。甲状腺がんの約9割はがん細胞の形が乳頭に似た「乳頭がん」と呼ばれるもので、進行が遅く、手術後の経過もよいとされる。

甲状腺がんの原因のひとつとされるのが被曝だ。特に原発事故や原子爆弾から放出される放射性ヨウ素は、甲状腺がホルモンをつくる際に材料となるヨードと勘違いして吸収され、がんの原因になる。このため、原爆が落とされた広島や長崎では周辺の住人に甲状腺がんが多発し、チェルノブイリ原発事故後も患者が急増した。

こうした理由から県は甲状腺検査を始めたはずなのに、166人という異常な多発を目にしても、いまだ被曝の影響を認めていない。

「(甲状腺検査を行なう県民健康調査の)検討委員会においては、これまでに検査で発見された甲状腺がんについては、放射線の影響とは考えにくいとの評価で一致していると受け止めています」(福島県の県民健康調査課)

その検討委員会の星北斗(ほくと)座長は、放射線の影響を完全に否定はしないというものの、「わかっている範囲で現時点では考えにくい」と影響を認めることに消極的。検討委が3月末にも出す中間とりまとめでも「数十倍多い甲状腺がんが発見されている」としながら、原因については「放射線の影響とは考えにくい」との見解を盛り込む予定だ。

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甲状腺がんデータ

検討委が被曝との因果関係を考えにくいとする理由は、「県内の地域別発見率に大差がない」「チェルノブイリと違い、当時5歳以下からの甲状腺がんの発見がない」「チェルノブイリ事故に比べて被曝線量が少ない」などだ。

つまり、チェルノブイリで甲状腺がんが大量発症した時の状況と違うから、福島は放射線での影響ではないというのである。その代わりに多発の原因として挙げているのは「過剰診断」。要するに、いずれ発症するがんを検査で先に見つけたり、放置しても問題ないがん細胞をがんと診断したりするから多数発見されているというのだ。

だが、こうした検討委の考え方には、専門家からも異論が出ている。

環境疫学を専門とする岡山大学の津田敏秀教授は、検討委の「県内の地域別発見率に大差がない」との指摘に「地域によって数倍ほど発見率が違う」と反論する。

県はエリアを大きく4つに分けて発生率を分析した結果、地域別発見率に大きな差がないとする。だが、津田氏は県の先行検査のデータを使い、県内を9つにエリア分けして分析すると、子供の甲状腺がんの発生率が地域ごとに異なり、だいぶ高いエリアもあることがわかった。

「発症率が全国平均で100万人に年間3人といわれる水準と比べた場合、福島市と郡山市の周辺で約50倍にも上がりました。また、地域によって検査時期が最長で2年半近くも違うため、分析に補正をかけたところ『量―反応関係』がよりはっきりしました」

「量―反応関係」とは、被曝が多くなれば甲状腺がんの発生率が高まる傾向にあるという意味だ。ただし、空間線量が高い浪江町(なみえまち)や飯舘村(いいたてむら)などの地域は検査も早く始まった分、がんもまだ小さく見つかりにくかった。その分を計算で補正した結果、浪江町、飯舘村、大熊町(おおくままち)などを含む地域では約30倍となることがわかったというのだ。

(取材・文/桐島瞬)

Posted by nob : 2016年05月03日 16:56

自然劣化に対する永年無償補修制度は、私も迷えばパタゴニアを選択する基準の一つ。。。

■パタゴニア、新しい形の消費を後押し

パタゴニアのCEO、Rose Marcarioは昨年、米国で消費が最も増える年末のホリデーシーズンに「所有」と「消費」についてのメッセージを発表しました。

入手、製造、廃棄を繰り返すことで生態系を破産に追いやる「消費者」でなく、購入したものに対して手入れや修理までの責任をとる「所有者」になることを呼びかけるものです。

「消費」に拍車をかけるビジネス(独占的な部品を開発して修理を能動的に妨害するなど)を批判し、パタゴニアは「所有」という行為を取り戻すためにより高品質の製品をつくると同時に、修理部品を入手可能にし、修理を簡単にする責任があることを強調しています。

パタゴニアは北米で最大の衣服修理工場を持つだけでなくiFixit*と提携し、個人が自分で製品を修理できるようウェブサイトで製品ごとの無料の修理ガイドを公開しています。

※iFixit:製品の修理に役立つ情報を人々が交換し合うプラットフォームを提供し、修理に必要な道具や部品を販売する企業

また、人々が大切に着続けるパタゴニアの服を持ち主のストーリーとともに、SNSやウェブサイトで紹介する取り組みも話題になっており、パタゴニアは、オンラインでの効果的なサステナビリティ情報発信度をランキング化する英国の企業Sustainlyの「第6回 Social media sustainability index」で世界の475社中、GE、ユニリーバに続いて3位に選ばれています。(ランキング結果はこちら=http://sustainly.com /content/6th-annual-social-media-sustainability-index=で登録するとダウンロードできます)

パタゴニアは、拡大が進むシェアリングエコノミーのさらなる成長にも積極的に貢献しています。代表的なのが、シェアリングエコノミー型ビジネスの急先鋒Yerdleとのコラボレーション。

Yerdleは不用品を提供して獲得したポイントで他の人の不用品を買うことができるアプリです。

同社では”sharing is the new shopping. ”(シェアは新しいお買い物)というコンセプトに基づき「人々が買うものを25%削減すること」をミッションに掲げています。

パタゴニアはYerdleに投資するとともに中古製品や余剰在庫を寄付しています。この活動は、余剰在庫を流通させて廃棄物を減らすだけでなく新しい顧客層に高品質で長く使える製品をつくっていることを伝えるアピールになります。またアプリの利用者はYerdleの製品をSNSに共有することが多く、そこからさらなる潜在顧客へのアウトリーチも期待できるようです。

シェアリングエコノミーにおいては、製品を再販した際の価値が重視されるため、耐久性のある高品質の製品を求める消費者が増えていくと考えられます。

多くの消費の形が、「所有」から「シェア」に移っていくなかでも、人々が「ほしい」と思えるような製品をつくり消費者といっしょに持続的な社会実現に向かっていくパタゴニアの戦略にこれからも期待です。

参照
Yerdleとパタゴニアのコラボレーションについて
https://www.greenbiz.com/blog/2014/04/15/yerdle-patagonia-collaborative-economy

提供:EcoNetworks

[政治山]

Posted by nob : 2016年05月01日 10:50